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無駄を避けては生きていけない

「この世に無駄な物事は何一つない。全てのものは尊い」と言いたいところですが、やはり無駄はあります。

仏教でいう無駄なことの、最たるものは「煩悩」と「煩悩の元になる物事」でしょう。際限なく膨れ上がる煩悩は、満たされない自分を生み出し「苦しみ」を生じさせるいわば毒のようなものです。

出家の世界のように「悟り」という目標に向かって「煩悩」という無駄を排除し続ければいいのですが、世俗の人生とは業に苛まれ「山あり谷あり、苦あり楽あり」が面白いもので必ずしもそういうものではありません。一般的な人生から、無駄なことを排除しようとすると、おそらく人生がつまらなくなるでしょう。落語家の立川談志師匠の言葉「落語とは業の肯定」という言葉が思い出されます。

また、自分が有益だと思うことばかりにしか取り組まないと、いつまでも「自分の作った枠の中から出ることはできない」ということもありますが、そういう中でも、有益だと思ったものが無駄になることや無駄にはならないが思うような結果を得られないということも起こります。

お釈迦さまも、家族や身分などを捨て城をでて出家したあと、期待を持ってアーラーラ・カーラーマとウッタガ・ラーマプッタという2人の師につきましたが、思うような結果が得られず、その2人の元を去りました。その後、苦行に何年も打ち込むも、やはり自分の思うような結果が得られず苦行に見切りをつけています。

あのお釈迦さまでもこうなのですから、生きていく上で無駄とは避けては通れないものなのです。

避けて通れないならば、「無駄だと思うことに取り組む」ことも「結果的に無駄になってしまった」ことも、だただたひたむきに取り組むことで人生が豊かになっていくように思います。

アップル社の創業者スティーブ・ジョブズの有名な言葉に「「コネクティング ザ ドッツ(Connecting the dots)」という言葉があります。
直訳すると「点をつなぐ」。

ジョブズは学生時代に講義に潜り込んで学んだ「カリグラフィー」という文字を美しく書くということに熱中しましたが、その時点ではこれがのちのビジネスに役に立つとかそういうことは全く考えてはいませんでした。
しかし、この経験が後のマックの開発で大いに役立ち、フォントという概念を生むきっかけになりました。
この点は、前を向いて未来を見据えて打った点ではなく、現在から過去を振り返ったときに初めて繋がれた点と点でした。今考えられるシナジーを持って役に立ちそうなことより、自分の熱中できること、興味に身を任せることが後に大きな成果を生むこともあるということです。
 
当たり前ですが、なんでもかんでも繋がっていく訳でもなく、人生の主戦場は前を向いて手堅く点と点を繋げることであります。その中で、全く繋がらなそうなこと(無駄)にも取り組む余裕を持つことが、人生を豊かにしていくのではないでしょうか。

というか、ある物事は無駄か無駄でないかということは、物事の本質を捉えたことでなく、そのもの自体を見た時に、そのものの存在が、「無駄」「無駄じゃない」と分かれている訳ではありません。
様々な条件によって、私たちの都合によって、無駄と言ってみたり、有益と言ってみているだけなのです。

そう言った、色眼鏡をとって物事を見て触れていく心のあり方、それ自体が最も私たちの人生を豊かにしてくれるのかもしれません。

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