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「著作権」は「確定した虚偽(虚構)を事実化する権利」と仮説を立てて、いろいろ考えてみる

たまにというか、相変わらずというか、とんでもないタイトルで失礼しております。
半年前に書いたnoteの記事では、

「日本では、ボードゲーム(パズルゲーム)に著作権はない」という仮説を立てたことがあります。

書き上げたあとも、著作権周辺についてさらにいろいろな角度で考えていました。
今回も仮説を持ってきて、臆面もせず書いていきます。
あくまでも仮説ですので、正しいのか誤っているのかは、読んでいただいた方の判断におまかせします。

嘘の所有者

「著作権法」のとある項目、第十条の第二項に着目しました。

事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第一号に掲げる著作物に該当しない。

前項第一号は、

第十条 この法律にいう著作物を例示すると、おおむね次のとおりである。
第一項 第一号 小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物

です。極端に言えば、タイトルの通り

事実でないもの、つまり虚偽(虚構)にこそ
著作権の権利が与えられる」

ということです。
さらに、ただの嘘ではダメです(……もはや、ただの嘘呼ばわりですが)。
曖昧な嘘ではなく、きっちり確定した嘘でないと、

その嘘の所有者になれない

ということです。
そして、そんな嘘も時間がたてば、著作権を失効して万事無事に事実となります(すげぇ仮説)。

所有者にしかできないこと

著作権法によって、著作者にはさまざまな権利を定めています。
前の見出しで書いたことは、第二十条にも書かれています。

著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。

凄い読み方をしますが要するに、

著作者の「嘘」を訂正できるのは著作者本人だけ

ということです。ということは、

著作者以外の人物が著作物に介入できないように保護してる

ともいえます。

ただし、同条第二項で適用しない例外について定めています。

この点は、日本国憲法の

第十九条 〔思想及び良心の自由〕
第二十一条〔集会、結社及び表現の自由と通信秘密の保護〕

にも関わってきます。

自由、と言っても、何でもかんでも許されるわけではないわけで、

◆ 事実を第三者によって勝手に改ざんされてしまう。
◆ 著作者の事実誤認で書いたことが訂正できなくなる。

などなど考えられる表現に関する不都合を保護しつつの自由、ですね。

では、仮説をもとに色々と考えていきます。

スポーツのプレーになぜ著作権がないのか

たとえば、こちらのブログに「スポーツのプレー」と著作権についての考察が書かれています。

スポーツの試合については、録画などの確定した状態であれば著作物になります。なので、録画や編集した人物が著作者になります。

では、仮にスポーツの試合を「フィギュアスケート」として、一連のプレーに対して演技したスケーターに、自身のプレーに対して著作権が与えられたとします。

すると何が問題になるのか。例えば、

著作者の権限で、あの失敗した四回転サルコウを成功にします。

が通ってしまう、ということです。
最終的には、試合そのものの結果すら覆せてしまいます。
大混乱必至ですね。
まあ、実際(というか仮定話に実際もクソもないのですが)試合そのものの著作者もいますので、相互での話し合いになるのですが……不毛というか滑稽ですね。

結局、スポーツのプレーに著作権はないとすれば、奇妙な不都合が起きない、ということでしょう。

訂正された芸術著作物

著作物の同一性は著作者によって決められるのですが、しばらくたってから、

ごめーん、今からこっちがオリジナルだから

ということも許されます。そんな例を2つあげます。

◆マルセル・デュシャン『大ガラス』

1915年から1923年の8年間にわたって制作されたのですが「未完成だけど、もう手を付けないから完成でいいよ」ということで、以後様々な展覧会なのに出展されました。

この作品の本当のタイトルは『彼女の独身者によって裸にされた花嫁さえも』なのですが、作品を大きなガラスで挟んであるため通称『大ガラス』と呼ばれています。

ところが、

1926年にブルックリン美術館で展示されたあと、作品移動中にガラスにひびが入り、デュシャンが修正したものが現在フィラデルフィア美術館に所蔵されている。

リンク先にその作品の写真がありますが、デュシャンさん本人は修復ではなく修正、つまり

大ガラスにヒビが入ったままなのが、オリジナルです

としました。
……まあ、たしかに1923年当時でも未完成扱いだったしね。


◆砂澤ビッキ『四つの風』

旭川市出身の彫刻家、砂澤ビッキさん(1931~89年)が1986年に制作した『四つの風』。札幌芸術の森に野外展示しています。

この作品ですが、著作者の遺志

人が手を加えない状態つまり自然のままの樹木を素材とする。したがってそれは生き物である。生きているものが衰退し、崩壊していくのは至極当然である。それを更に再構築していく。自然はここに立つ作品に風雪という名の鑿を加えていくはずである。

に沿いまして、

今ある状態こそオリジナルの著作物

ということで、修復せずにそのままにしています。

そんなわけで、展示から二十数年たって2010年。


ついに、4本のうちの1本が「風雪という名の鑿」によって倒れてしまいました。
その後、1本また1本と倒れ……



2013年あたりから、最後の1本がずっと立ち続けているようです。
ところで、倒れて朽ちた3本は、写真の通り「そのままの姿」で撤去せず残り続けています。
2020年現在は……ニュースが届いてないので、まだ立ち続けているのではないかと思います。


ひとまずのまとめ

著作権は「確定した虚偽を事実化する」。

無茶苦茶な仮説を立ててみましたが、全くの荒唐無稽……なんでしょうかね。読んでいただいた方には、何かちょっとしたことでも得られたのであれば、ありがたい限りです。

で、ちょっと逆を考えてみます。

「事実を虚偽化する」という行為

です。これって「創作活動」の言い換え、かも知れません。
次のnoteでは、そんなことを書いてみたいと思います。


では。



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