被災に関するアレコレ。

平成28年4月15日と17日の大きな地震。
実家が被災してみて分かったことや起きたことをメモがてら纏めてみる。時系列は追って整理していこうと思う。

①祖母について

4月15日の前震が起きた時、僕は仕事で千葉にいた。ふと携帯を取り出すと、友人たちからすごい数のLINEが来ていて、それで初めて実家が被災したことを知らされたのだった。
みんなにはいやー、多分我が家は大丈夫だと思うよ。と返事をしておいた。これには僕も関わる理由があったからだ。元々我が家は揺れるのだ。笑。

僕の実家は一軒家ならぬ一軒ビルだ。裕福とかそういうのでも無く、父親の仕事上サイズが必要だった。
2階の一部に祖母が住み、3階と4階に我が家があった。
このビルは30年前の建造当初から、家の前の道路をバスやトラックが通ると「ゴゴゴン!」と音を立てて我が家は揺れた。頻発しまくりだ。震度はというと、今回帰省して本物と比較したところ、1と2の間くらいの振動だ。(前震と本震に耐えたので強度的に問題無いのが立証された)
そんな家で暮らしてきた我が家の人間は、地震と「地震以外の揺れ」の違いが分かるという、まったくもって無駄なスキルを持っていたし、揺れそのものにもほぼ動じない冷静な感覚を自然と養っていたのだった。
実際前震のあとすぐ電話は繋がり、母親はビックリしたけど大丈夫よ〜、と笑っていたのだった。
ほらやっぱりな、とホッとした。
それからGW中盤の5月4日に帰省するまで一応毎日連絡をとっていて、避難所生活してることなど話を聞いてはいたが、「起きたことは仕方ないから前向かにゃしょうがなかたい」と言って電話の度に母親は笑っていたのだった。

前置きが長くなったが、実際帰省してみると変わっていたことが1つだけあった。
それは祖母が避難所から家に戻らなかったことだ。

今回の地震を受けて避難所生活を数日送った祖母の認知症は日に日に悪くなっていったらしい。
(また別のタイミングでまとめると思うが、避難した近所の小学校には取りまとめる人間が居らず、情報発信がされないor素早く必要なところに届かなかったことからかなり過酷な避難生活を送ったのだった)
そんな状況だったので施設に預けざるを得なくなった。
93歳になるんだから年齢的にはもうしょうがない。
僕の母親ももう71歳となっており、祖母を中心とした生活を送ることは精神的にも体力的にも難しかった。
母親がデイケアの施設に無理言って、宿泊付きの条件で祖母を預かってもらったのは被災してから1週間後だった。

しかし両親がほっとしたのも束の間だった。
というのも、その施設は宿泊を含めて面倒みてもらうことになると経済的負担が非常に高かったのだ。
さらに我が家と同じような理由なんだろう、要介護高齢者の入所が震災後多数あり、満床を超えているため密度が高くなり、入所者の精神的負担なっているようだった。
この2つの理由をもって、祖母は今回僕が帰省したタイミングで別の施設に移ることとなった。

経済的な負担を理由にしていることについては、祖母に対して非常に申し訳なく思う。
ただ、祖母はその年齢になっても認知症以外には全くの健康体なのだ。笑っちゃうくらい健康なのだ。この先どれくらい生きるか分からない。これは家族としてはもちろんとても嬉しいことなのだが、それと経済的な話は別だ。

5月7日に祖母は新しいホームへと移った。
ただここにも問題点があった。
それは「どうやって祖母に移動のことを伝え、納得してもらうか」ということだ。
僕の祖母は猜疑心の強い人だった。
比較的早くに夫を無くし、もともと箱入り娘(そういう時代なんでしょう)だったこともあり、周囲の人々から「騙されないように」と言われて過ごしてきたのだと思う。
だから基本的に家族以外の人を信じていない。笑。
常に騙されるんじゃ無いか?という意識が強く、その性質は、認知症になってからというものより強く発現するようになっていた。

僕と母親は2人で祖母に会いに旧施設に行った。
祖母には僕が誰だかわかっていなかったが、名前を伝えると相当嬉しかったのだろう。枯れた体から、残っていたんだなぁ、涙が溢れ出ていた。
そして先制パンチをくらった。
涙顔で「みんなで家に帰って穏やかに暮らそう。みんながいれば乗り越えられるよ、何事も。そうしよう。」と何度も何度も繰り返したのだ。
僕らは顔を見合わせどう返すか考えたが、その要望に対してうまく答えられず、地震のせいにして今は無理だよ、祖母さんの家は今めちゃくちゃなんだから、とだけ伝えた。
さらに、こんな状況だからもっとしっかりと面倒を見てくれるところに移るようにしたから、明日施設を移ることになったよ、と説明した。
経済負担も理由にあることを隠し、実の娘はそうやって母親を説得した。
どんなに辛かったろう。こんなシーンに出くわすだなんて微塵も想像したことなんかなかった。
顔で笑って心で泣いて。まさに、それが必要とされた時間だった。

15-20分の間同じ会話を繰り返したのだが、祖母は何となくだが理解してくれてようだった(次の日にまた説明した。瞬間は分かっても忘れてしまうのだからお互いに辛い)。

そうして旧施設を出た僕らは地震でそれはもうめちゃくちゃに掻き回された家へと引き揚げた。
車の中で母親が、「いつまで生きるか分からんけんねぇ。何しろものすごく元気だし。」とだけ言った。色んな感情が入り混じっているのは明白なので、そうだねぇ、としか僕は言えなかった。

次の日、祖母は新しい施設へ移っていった。

#地震 #日記 #エッセイ #写真

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