解釈は自由だ

明日、初めて実際に会う仲間がいる中で、こんなもの書くのもなんだが、なってしまったものは仕方ない軽くウツになった。ようだ。

身体の芯に力が入らないという理由で、水曜日休んだ。山仕事は上手くいっておらず、赤字確定。支払いを待ってくれる相手で助かってるだけ、実家暮らしで生きてるだけだ。

借金は残り、仕事のパートナーは和歌山に行ってしまう。

撤退戦とか負け戦といいながら、夏から頑張っていた。また歴史上誰も成功していない2正面作戦も仕掛ける。妻とも戦っていたのだ。しかし無理すぎるのでこちらは休戦。

色々無理があるが、現場はあり終わらせないといけない。また来期はこの3倍の面積の現場があり請けるか迷ってた。そのため予定地を歩いてみたらそこで携帯落としたのが木曜日。

で今日は、iPhone探すの位置情報頼りに山歩きをし、木にぶら下がったiPhone発見。

でまだ色々あってその後作業しようと思っても、身体が重い。とにかく重い。こりゃ身体的なものじゃないと気づいた。今朝も職場である山に行くのにやたら遠回りしたがる。

この仕事は、自分が選び自分のためにやっていること。金のためにイヤイヤ会社に行くとか、親がうるさいから学校に通うとかじゃない。行きたくて行ってんだ!あれ?主体的に生きてるんだ!あれ?

まあ無理したってこと。山仕事自体はほんとに好きだ。あとはペイすることを覚えるのみ。

だが現場は終わらない終わらせる。作業は続けながら、こう考えた。

これは仕事じゃない。瞑想とかそういう精神的ワークだ。成果なんかいらない。

そこまで落とすと迷いはない。力感や高揚感はないものの静かな集中が訪れた。視界のほとんどは、木と土。客や上司などいない。チェーンソーはうるさいものの止めれば、鳥の鳴き声が聞こえてくる。成果さえ外せば、あとは物理法則以外の縛りはない。

とりあえず休んでないので、現場は進む。別に手を抜くとかじゃない。やっぱり能率上がった方が気持ちいいので、そういった工夫は自然とする。ただ成果は求めない。仕事じゃないし。

自分の回復と作業の進捗と両方狙った解釈変更。とりあえず続けてみる。



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