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正しいに抗え、 倍速で書ける漢字 - 『東亜新字』 前田黙鳳(1904年)

明治時代は、みんなが「日本で漢字って本当に必要なのか?」という素朴な疑問に気付かされてしまった時代だ。

新しい技術や文化の襲来によって、漢字が厄介者扱いされていた時代があった。未来の漢字の姿をどのようにすべきかを本気で考え、不可侵の領域である字体まで踏みこんだ人々がいた。そんな方々が残した書籍(以下、造字沼ブック)を読み、臨書し、その想いを味わう連載です。今回6冊目。

およそ100年前の明治37年、「東亜新字」と名付けられた書籍が発行された。
この本は、新しい時代に必要な、新しい漢字の形を提案している文献だ。著者は明治を代表する書家。また実業家でもあり、数多くの出版物を通じて生涯にわたり漢学・書の発展につとめた前田黙鳳氏によるものだ。

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書体見本

まずはどんな字であるかを見てもらいたい。文字見本が手書きであるため、前回同様に源ノ明朝のエレメントで再現した。

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明朝体だといまいち違いがわかりにくので、ヒラギノ丸ゴシックのエレメントを使って書き直そう。

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大きな変形は見当たらないが、ちょいちょい線が欠けている。全体の印象は変えずに線画を削減してゆくのは、そのあとの時代に続く漢字改良法に通じるものがある。当時は新字体制定前であり、当然いまより複雑な旧字体がベースであり、それに当時流通していた略字・俗字や書のエッセンスを加えたものとなっている。

1904年(明治37年)の新聞に本書の広告が掲載されている。

本書は従来東亜に行はるる所の数万の漢字をことごとく改省してその作法を簡易にし以て東洋文学の一大進運を企図せるもの、すなわち道人(※前田氏)十数年間の苦心に成れる新著なり(朝日新聞、1904年5月21日 朝刊 P.8掲載の広告より)

どんな人がつくったのか?

前田黙鳳(まえだ・もくほう)。1853年(嘉永6年)の生まれ。士族の出身。黙鳳は号、すなわち書家ネームであり。名は圓(まどか)、字は士方。1853年といえば黒船来航の年で維新前夜、まさに激動の時代である。

1873年(明治6年)上京し、明治の有力出版社での修行。1882年(明治15)には自ら出版社、鳳文館を創業。6年間で50冊以上の中国古典の翻刻本や漢詩、書論や字書などを発行した。このときまだ29歳。

しかし、学問の主流が西洋の学問にうつったことによる漢学の衰退で経営が悪化。1888年、鳳文館を廃業する。ただ、あまり暗さもない。廃業の年、盛大な閉館イベントを開催。700人の文化人や関係者を招き、記念の出版物を発行するなどした。

無一文からの再出発。35歳をすぎて書家に転身。1891年、書学会を設立。1908年に書道団体「健筆会」を結成。書家として作品を発表しつつ、展覧会の開催、出版を通じた古典資料の普及など、近代書道界の発展に大きく貢献した。

当時の新聞記事には前田氏について次のように書かれている。

現代数ある書家中で篆書きとしては前田黙鳳氏が第一である、目下の所之の人に及ぶ人は無いが隷書も得意である、兎に角氏の書家としての地位は第一流と云うも溢美でない。(読売新聞、明治43年11月5日 朝刊 P.4より)

師匠につかず、独自で篆書、隷書や六朝の書を極め、書壇に華麗に登場する前田氏。その歴史の源流とともに漢字と向き合い、過去と未来をつなぐものとして誕生したものが「東亜新字」である。鳳文館廃業から15年後、齢50のころであった。

なぜ簡略化が必要なのか?

前田氏の根底には「漢字は時とともに簡略化され、その時代に合致してゆく」という考えがある。激動の時代において教育の効率化、社会の能率のために漢字のシンプル化が必要であると考えた。

文字は現在のことを記して後世に胎す計りでなく。過去のことを知るに大なる必要がある(『東亜新字』P.3、注:一部読みやすくするために漢字、かなを筆者が改めた、以下同様)

西洋の学問が大量に入ってきたことで、学校でも学ぶべきものがとても増えた。これは大きな負担であり、当時の人からみても漢字は複雑で不便なものであったとある。明治のはじめから漢字を廃止してローマ字化やカナ化も議論されていた。前田氏も文字を易しくすることは必須であると考えた。しかし、いままで蓄積した大量の情報との互換性、それを未来に伝えるための方法として、漢字の役割は重大だと考えたのだった。

そして当時流通していた漢字の字体については、次のように述べている。

東亜文字の変遷は大略右に述べる如きものにて今の正書は正書中で最も画の多き不便なる正書を用いておるのである。故にこれを省改するは正当の順序であると信じます。また今日の如き文化日新の秋に方りかくのごとし不便なる文字を固守すると云うような愚かかことは無いと思います。(P.11)
文字は昔時より系統を引きて変化しておるから無闇に訂正することは出来ない。また日本で訂正して日本人に解することが出来うるも清韓両国の人に通じないときは事が狭い。ゆえに日清韓を通じて解せらる、ように訂正するが最も必要で有ると思います。(P.12)

もちろん、魔改造は避け互換性を重視。さらには日本のみならず漢字文化圏で新しい字体を共有することも想定したのだ。

前田氏の整理方針

さて、前田氏の簡略化の方針はふまえておこう。

東亜文字を省改する目的は、画数の多いものを簡略化し書きやすくする。従来の文字を理解できないことがないようにする。そのため画数の少ない字は簡略化しない。画数の多い字はより簡略化する。画数の少ない字といえども、書きにくければ点・画を改変する。また過去の優れた省略方法は採用する。

前提として、難しい字を書きやすく。難しくない字はそれなりにの方針である。無理に略さない。モジュール化を意識しすぎず、文字それぞれを独立して考えている。書きやすさに重点を置いている。

ここの特徴については下記にまとめる。具体的な内容は、臨書の部分で詳しく解説したいと思う。

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これをふまえて臨書したいと思う

いざ臨書

では、臨書してゆこう。「東亜新字」の文字見本をもとに、ヒラギノ丸ゴシックのエレメントを利用し再現する(丸ゴにしたのは、はじめ明朝体のエレメントで再現したら、線の特徴がみえにくくなったためだ。あと単純にかわいくしたかったという理由である)。

①線の合流

①-2:並列する線分を1本の線をもって共有する

線の合流は「東亜新字」で特徴的な部分だ。並列する線分を合流させた上で、その線をさも元の線と同様に扱う方法である。「青」の「龶」の一番下の横画と「月」の上部の横画を1本にして、さらにその線を「龶」「月」で共有する方法だ。

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攝

シンプルながら強力だ。パーツの集合体と言うよりも一体感をもった字体となる。

①-2:並列する線分をいずれかに統合する

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恥

共有するに近いが、並行する線を合流させ線分を削減する。「恥」は「心」の1画目の左払いを「耳」の最終画の縦棒へ統合する。こんな方法も採用している。

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こちらは左「木」の最終画の右払い右「木」の3画目の左払いに統合。「示」の1画目を2画目の横画に統合している。いずれも内部の省略で、外観を活かしている。

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統合は内部の画で行われることが多い様だ。

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「立」の最後の横画と「月」の上部の横画を統合。左側は大きく変わっているが、唐以前はこの字体もちらほらみえる。

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「龍」はさらに下に要素を加えた字も多い。「襲・聾・龔」などの異体字として、右下にそれぞれのパーツを入れ込まれたものが存在する。そのような異体字の構成を生かしたものも存在する。

①-3:複数の画を単一の線に

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「雨」は内部の点々が一本の線に置き換えられている。松下電工の旧ロゴの「電」もこのような形状だ(いわゆるナショ字。電気グルーヴのロゴも)。

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「魚」「鳥」「馬」の「灬」を1本線に置き換えるのは、行草から書き方で、一般的だ。後の中国簡体字でも正式に採用。「魚」の「ク」の部分を、はらい1本にするのも行草の楷書化であろう。懐素の自叙帖や智永の真草千字文などにみられる。

②仮想輪郭

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矩形の一部を省略する方法。前回の三宅氏の省略にも通じる。省略した線分の下にある要素の存在により、線の存在が示唆されている。なんとなる有るように感じるものだ。

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匠

匡

仮想輪郭は上下左右を問わない。「雁」は人偏が垂れの部分と示唆する仮想輪郭となっている。匚 (はこがまえ)は上の線分を、内部の要素が代用する。

母

毎

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前田氏は各字ごとに省略を試みることが多いが、母(毋)はサイズを問わず一貫したものだ。上部の画が省略される仮想輪郭がそれぞれに反映されている。

③矩形の内部抜き

矩形の内部になる線分を省略する方法。輪郭がのこされるため文字の印象が保たれる。イメージそのままに密度を減らすには有効だ。

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縦画、横画問わず内部抜きが行われている。

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こちらは今までの複合技。

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「鳥」は意外に複雑さを保っている。鶯の「火火」の部分も、草冠のように略されている。

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上部は縦線が4本→3本に減っているが、全然違和感がない。「舛」も「タキ」と省略されているが、まったく違和感ない。もうちょっと減らしてもいけそうである。

幽

行草よりもシンプル。筆の勢いのみ残っている印象。

レスポンシブ

構成位置により、要素の密度が変化する活用もある。

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懸

確実に減ってはいるが、意外とイメージは保持されている。

④俗字の積極採用

明治は当然手書きだ。異体字も多い。正字とされるものよりも、簡単な異体字を採用しているものもある。

品

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「品」の下部の「口」が合体・合流している異体字が『俗字畧字』(黒柳勲・編)などにもみうけられる。正字ではないが通用字としてつかわれたものなのであろう。のちの機械彫刻用標準書体などにもある。「臣」の部分はかなり大胆で、異体字にも見当たらない。

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「麗」は特徴的な部分を抜き出すパターンであるが。俗字として存在しているもののようだ。

四角いものを三角に。

行草の活字化、数は少ないが取り入れている。
「口」の部分が「△(ム)」に。

可

歌

前田氏の「東亜新字」の特徴①線の合流はビットマップフォントでよく見ることができる。限られたドットの中で線を削減するだけではなく、1本の線を共有するのは可読性を担保するには有効な手である。

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ビットマップは林隆男氏の「16×16ドット明朝体」を引用してます。

まとめ

前田氏の簡略化方法をまとめると以下だ。

①線の合流
②仮想輪郭
③矩形の内部抜き
④俗字の積極採用

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元の印象を損なわず、一画に二画を地道に削ってゆく。画数が15画を超えるものは削減が大胆になるのだが、強引に間引くこともない。もうちょっと減らしてもいいのでは?と思う部分もあるが、そこは腹八分。何事もほどほどが肝心である。

この新字と従来の正書とを平均して算するときはほとんど字画の半ばを削減せしゆえに。従来の正書100字を書くのと新字200字を書くときと大概同時である。しかるときはこれを国家経済の上から論じても大いなる利益であると思います。(P.129-130)

全体を通してみると画数が50%削減されているとのこと。まさに倍速※で書くことができる文字が誕生したのだ。(注:従来の字とは、現在の旧字体を示す)。これは漢字への風当たりの強い当時、効率性と得られる利益をあわせて主張することで、理解を求めたのではないだろうか。

※ベストエフォートです。

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実際の書籍には注記とともに、字体が提示されている。
国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧可能なので、ぜひご覧いただきたい。

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むすびにかえて

「東亜新字」発行から4ヶ月後、新聞の書評では端的に手厳しい。

本書は東亜文字すなわち漢字について可成簡易ならしめんため新案を発表したるものなり、従来の文字に比して多少の便利あるも遂に五十歩百歩にはあらざるか(読売新聞 1904年9月18日 朝刊 P.1)

確かに、そこまで大きな変化ではないだろう。それは当然で、互換性こそが最重要ポイントである。無くても可読性を損なわない線、元の字と比べて違和感ない線の存在が判明したことは大きな前進である。全く読めないという拒絶ではない。そんな変わらないじゃんという、五十歩百歩という評価であれば前田氏の目論見は成功なのではないだろうか。

古人が文字を剏造せしときは。説文家が喋々するごときやかましきものでなく。一事一物ごとに文字を制すると云う極めて単純なる考えで作りしものであると想います。(P.17)
漢より唐の中世に至るまでは多くは、かくのごとき文字にて、今の正書のごとき画の多き文字は極めて少ない。しかしこの趨勢をもって今日まで進みしならば、実に簡易なる好文字ができていたと思います。(P.26)
唐において永く太平が続きついに文華に流れ。中古に逆りて字体を改作するやら。文章の法則を設けるやら。また無闇に古へを慕い。これも古におよばず彼も古へに及ばずでもって。学者といえばほとんど夏周崇拝者計りのごとくなりて、ついに文弱国となったのでせう。(P.26)

無理に正当性をもとめる解釈が、漢字の本来の進化を逆戻りさせ、実用よりも正しさを優先するあまり複雑な漢字が正字と残ってしまったとした。

文字の第一の目的は、古代より文献として現在までに伝えられた東洋の遺産を受けとり、未来の人々に届けること前田氏は考えている。だから、文字を継承しつつ現代の使用に適する形に進化させることは当然と考え、「字」と「その示すもの」というシンプルな関係を求めたのであった。

前田氏の目指したものは、迷走してしまった漢字の進化の流れを、本来あったはずの方向に戻すという大事業なのである。

残念ながら、その後の「東亜新字」の消息はとだえる。。。

本記事で取り上げた書籍

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『東亜新字』
・著者:前田黙鳳
・発行:1904年
・出版:博文館
国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能

参考図書

『江戸の出版』
・著者:中野三敏監修
・発行:2005年
・出版:ぺりかん社

上記書籍にロバート・キャンベル氏による「東京鳳文館の歳月上・下」が収録。前田氏の「鳳文館」の設立時の情報、経営状況、出版内容などが相当詳しく解説されている。

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ここまで、お読みいただき誠にありがとうございました。
次回もよろしければご覧ください。

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