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3.11 東北大震災での被災の記憶から「今」も生きているマインドと被災者との距離のとりかた

年に一度、私には過去を深く振り返る出来事があります。
記憶に今も鮮明な、東日本大震災。
マスメディアでこぞって惨状を題材にされ、当時を思い出すのも嫌な人もいるでしょうが、私が振り返るのに恐怖しないのは、当時混迷の中にあって、たくさんの人達と助け合いの中にいたからかもしれません。

津波の恐怖が無かったからまだしも、ですが、私の住む市や職場のある町は土砂崩れや施設の屋根が潰れるなどの不運に見舞われ亡くなったからもいて、被害は大きいものでした。
実家の足が不自由な祖母と連絡が取れず、仕事を切り上げて帰る道すがら、瓦や石垣が路上に散乱し、道路のあちこちが陥没、異様な惨状を目の当たりに「この地震の被害は尋常では無い」と直感しました。身内の安否を心配するのにあれほど心拍数が上がった経験は例がありません。
幸い祖母は庭に椅子を出して座っていて、「なんだい今日は早いな」といつも通りの反応を見て、内心ズッコケながらこちらも冷静になれたことを覚えています。祖母だけでなく、私の家族全員、驚くほど冷静で淡々としていました。

中でも母は、家の中が割れたガラスなどで足元がぐちゃぐちゃの状態でも冷静に動いて、家族みんなの寝床と食事の準備をしてくれていました。いつもなら部屋が散らかっていると激怒する母ですが、みんなを落ち着かせるためか笑顔を見せて明るく陽気に振舞っていた記憶があります。
生存の為に家族の衣食住の確保を真っ先に考えられる母や、あうんの呼吸で連携しながら食料燃料確保して情報を共有する姉や弟の意外な一面を知り、いつもはベクトルがバラバラだった家族への信頼を深めるきっかけにもなりました。


日本人の絆や美徳がもてはやされる一方で、ご存知でない方も多いかもしれませんが、当時、被災者の方の中には支援されて当然という人もたくさんいて、「こんな食事しかないの?もっと美味しいものを振舞ってよ!」など威張っていて評判がすこぶる悪いという噂を耳にしていました。家屋も家族もお金も無事ながら一時的に避難所に避難されて「被災者」に分類されていた人達だったそうです。
同情を誘う内容の方がウケいいのでテレビやマスメディアには公表されなかったのでしょう。放射能規制もあり帰宅できないストレスもあったと考えられますが、日本人の譲り合いの精神が仕切りに報道されていたこともあり意外に感じました。
支援されて当然ととるのか感謝を忘れずにいるのか、個人の勝手ですが、その人の品格の問題だと思いました。

そして、無為に支援しすぎるとその品格を傷つけ自立しようという気力を削ぐことにもなってしまうという悪い例です。
地元も福島県と隣合わせのため、地域によっては風評被害など影響を受けている農家さんもいました。ただ、私の住まう地域では地震の被災はしましたが、農作物にそれほど大きな影響はなかった。
でも農家の友人がのちに教えてくれたのです。わざわざ都会から梨を買いに来た方が、風評被害で困っているだろうとたくさん買って行かれて、友人家族は一方的に同情されて困惑したそうです。
情をかけるのも受け取るのもキャッチボールなのだな、とその話を聞いて思いました。
親切心とは状況や相手に寄ってはありがた迷惑となりますし、節度が難しいものです。これは仕事でも言えることですが、他人を支援するならば、優しさだけでなく一線を引いて静観する厳しさも必要だと感じます。

震災時期を迎えるたび、自分も家族や職場の方々、友人達から日々目に見えないサポートを受けているということを思い出すきっかけになります。
「それを当たり前だと思ってないだろうか?きちんと感謝できているのか?」
ときに省みつつ私は後者でありたいと願います。

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