なぜ君は「社長の名刺を1万円で買わせてください」と言えないのか。


「私、今度、このあたりを担当させていただきますホンダワラ商会の高野と申します」

「君、一度訊きたいと思っていたんだが、なぜ君たち飛び込み営業の諸君は『このあたりを担当』と言うんだ? 君がこのあたりを担当しようが、パプアニューギニアを担当しようが、私には関係がない。無関係なことを言っても意味がないだろうが」

「あ……そうですね。申し訳ありません。あの……すみません……、お名刺をちょうだいできますか」

「あげない」

「え……」

「君が仕事の関係者なら渡す。だが、君は私に営業をしている立場だろう。つまり私は客だ。客に対して、自分から名刺を要求してはいけない。君の名刺は会社からの支給品だが、私は、自己負担で作っている。タダじゃないんだよ」

「も、申し訳ありません。失礼しました」

「ま、これが私の名刺なんだがね。賞もたくさん取っている高名なデザイナーの手による名刺だ。シンプルにして美しい。書体も紙も、徹底的にこだわった末に生まれたのだよ」

「は、はあ。確かに、知的な感じのする名刺ですね」

「ほお、わかるか。君は新人にしては見込みがありそうだな。よし、いいことを教えてやろう。簡単に名刺がもらえて、しかも『おっ、なかなか見所のあるやつだ』と思われる方法だ。本当なら38,000円のマニュアルを買ってもらうところだが、これも何かの縁だ。タダで教えてあげよう」

「え、本当ですかっ。ありがとうございますっ」

「こう言うのだ。『社長が私に名刺を渡すメリットはありません。だから、社長の名刺を1万円で買わせていただきたいのです』と」

「えっ、1万円ですかっ」

「そうだ。さすがに相手は驚く。もちろん『じゃあ、売るよ』などとは言わない。大人だからな。その代わり、『ちょっと缶コーヒーを買ってきてくれないか』とか『この書類を10部コピーしてくれないか』などと用事を頼まれたりする。そうなれば、君はただの飛び込み営業ではない。名刺をもらうために労力を使った、ある意味パートナーになれるのだ」

「なるほど」

「私も『この人と仕事をしたい』と思った相手には、この手をよく使ったものだ。人脈も随分と広がった。おかげで、今では業界でもトップクラスの仕事に関われている」

「名刺一つで、すごいですっ」

「ちょっと練習してみるかね。やってみればわかるが、こんな芝居がかったセリフを普通に言うのは結構難しいものだ」

「はい、お願いしますっ。……社長っ、社長の名刺を1万円で買わせてくださいっ」

「いいよ。はい、これ、私の名刺だ」

「え……」

「ほら、早く1万円。君が売ってくれと言ったんだよ。なんだったら、3枚にするかね。今なら3枚買っても、なんと2万5千円と大変お得です」

「い、いや、1枚で……じゃない。練習だと社長がおっしゃったので言っただけで……」

「知らないなあ。1万円で買いたいと言ったのは事実だろ。払わないなら、払わないでもいいんだけどさ。ま、君が1万円で買うと言った部分は、ほら、この通り録音されてるんだけどね」

「え~っ」

「これもビジネスだよ。1万円でいい勉強になったじゃないか。あ、消費税入れて、10,800円ね。はい、おつり200円。領収書の宛先は、君の会社名でいいのかな。……はい、これ、領収書ね。名刺が欲しかったら、また、いつでもどうぞ。まいど、おおきに」




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