大量の餃子を包むということ~自律型組織開発ワークショップ「Narratives」開発に寄せて~
2024年3月3日雛祭りの夜に、大量の餃子を包む写真が送られてきた。
写真の送り主は、私の幼馴染の息子で21歳。
福岡県田川にある「いいかねpallet」に1ヶ月滞在し、最終日前日の夜の光景だった。
彼は、人に頼ることがあまり得意ではない。正確に言うと、人に「迷惑をかけると感じること」が得意ではない。
高校を卒業し、昼夜問わず進学の学費を貯める中で、心と体のバランスを崩し、2月の初めの曇天の早朝、ひとり千葉から田川に向かった。
田川に滞在した1ヶ月の中で、ぽそぽそと送られてくる報告と写真には、「いいかねpallete」に長期滞在している人達から見守られ、助けられ、役割を貰って、自らのペースを少しづつ取り戻していく様子が見られた。
そして件の写真である。
「送別会」ではなく「お世話になりました会」とのこと。
この1ヶ月、見ず知らずの人たちから、「迷惑をかけると感じること」をちゃんと受け取ってしまったんだと、しみじみと感じた。
幼い頃から見てきた彼は、人に迷惑をかけ、またかけられて、人の中で生きていくことができる大人になったのだ。
私はその営みの中に、図らずも自分自身のバトンも感じたのだった。
最澄の「忘己利他」
「忘己利他」と言う言葉がある。
平安時代の仏教僧侶で天台宗を開祖した最澄の言葉と言われている。
最澄はしばしば同じ時代を生きた空海と比較され、不遇の人に見られるが、後世の日本の仏教を見ると影響は計り知れない。
ここで言う「慈悲」とは「仏の慈悲の心」のことなのだそうだ。
己を忘れ、己を通して仏の慈悲の心が他に届く。
中島岳志著『思いがけず利他』の中でこのような話がある。
ヒンドゥー語には「主格構文」と「与格構文」があり、主格構文は「私は会社員です」「私がやります」など。そして、与格構文は「私は嬉しい」「私は風邪をひいている」「私は愛している」などが当てはまる。
この与格構文は「私に嬉しさが留まっている」「私に風邪が留まっている」「私にあなたへの愛がきて留まっている」といったニュアンスが含まれていると言うのだ。
仏ならずとも、何か大いなるものが、忘れさった空の己を通じて「利他」至る。
体が勝手に動くとも言うが、「己」はまったくの透明な存在であるかと言えば、そうではない。そこにあるのは、空の器なのだ。
受け取ったものを留めておくことはできない
近内悠太著『世界は贈与でできている』の中に「健全な負債感」という言葉が出てくる。「受け取ってしまったもののほうが大きい」「愛されるいわれがないのに愛されてしまった」という負い目のことだという。そして私たちは思う。「お返しをしなければ」。
現代の私たちは等価交換を前提とした社会システムのに生きているからこそ余計に「健全な負債」を感じる。返さないと落ち着かない。誰に返せばいいのか。先の空の器の理論で言えば、返す先は世界だ。
いるね!の後の物語
昨年のnoteで「聴く力」とは「いるね!」力だと書いた。
そこにいていいよ!が大前提になった人が、次にすることは何でしょうか。そこにいていいよと言われるためのガソリンから、どこに次のエネルギーを探せば良いのでしょうか。
私はそれが「利他」だと考えています。
私という空の器を通して、「健全な負債」が留まり、そして世界へまた帰っていく。
同じく近内悠太著『利他・ケア・傷の倫理学 「私」を生き直すための哲学』で利他はこう定義されています。
受け取ったものを贈与と感じる。いわば贈与とは「自分の大切なものを大切にしてもらった」記憶です。その「健全な負債」をまた世界に返すときに起きるのが、贈与によって大切にされたはずの「自分の大切なもの」よりも「他者の大切にしているもの」を優先するという逆転です。
概念として書くとややこしいですが、いざ利他をする番になった大人になると(利他をするのが大人とは限りませんが)なんとも心地の良い行為だと実感する人も多いと思います。
組織は贈与でできている[PR]
折角「そこにいていいよ」と言われるためのガソリンから、燃料を載せ替えたので、ガス欠を起こさない利他のエネルギーに自分の人生の時間を使いたいものです。そのエネルギーを今の組織・仕事でどう生かせるのか、組織に主体的に関われるようになるための企業向け組織開発ワークショップを『世界は贈与でできている』著者の近内悠太氏に監修して貰い、開発しました。
個と組織のための自律型組織開発ワークショップ「Narratives」。
ご興味ある方はお気軽にお問い合わせください。
大量の餃子はどこへ行ったのか
さて、皆様お分かりだろうが、田川で包んだ大量の餃子は「健全な負債」を返済したのかと言えば、そうではない。包む前から分かってはいるが、あの餃子は返済できないけど何かせずにいられない気持ちを包んでいたのだろう。そして彼はこれからも延々と沢山の人に囲まれながら包みきれない餃子を包んでいくことになるだろう。そのように願うばかりだ。