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大丈夫な日

めがね

歩くごとに身体のあちこちに鈍い痛みが走る。若い証拠だと言われるが、若いせいでこうなったのだ。
「若いから」。
自分がそう言える年齢になったときには、若い人は随分と減っているのだろう。そのときには「年を取っても」とでも言われるのだろうか。
中尾弘人は、上げていたパーカーの袖をそろりと下ろした。洋服で覆われていた方が、何となく痛くないような気がしてしまう。特に腕の筋肉痛がひどかった。

「中尾君、頼んだ」
「若い子がいるとありがたい」
それらの声にふわっと笑い、重い荷物を引き受ける。弘人はそんな自分が嫌いではない。できる人がいるならすればいい。だが、限度はある。
「重いから、出しておいてくれない?」
それはあなたの仕事では。それでも、弘人はいいですよと箱に手を伸ばす。心の中で、愚かだと呟く。

書店での仕事が体力仕事であることは知っていた。開店前の荷ほどきは鬼のようだと聞く。
弘人は、大学に通いながら書店でアルバイトをしている。大学と近い大きな書店は、カフェかモデルハウスのような内装で、ここなら楽しく働けそうだと求人の応募をした。
しかし、書店はどこも書店。重い本の塊を運びたくない社員は、アルバイトを上手く使う。
若い男の子だから、余裕でしょ。
優しそうでかわいい。
年下のアルバイトを都合よく解釈する人たちを、弘人は愚かだと心で笑う。そう思う自分自身も。ただ、それらを分かったうえで笑う自分のことは、愚かでも愛おしい。

時刻は16時過ぎ、この季節になると夕方は寒かったが、働いた後の身体には気持ちのよい気温だ。広い歩道をのんびりと歩いていると、一階がガラス張りになった細いビルが現れた。
無名のアーティストが自分の作品を数日だけ展示するのに使う、お洒落な場所。前を通りかかって何となく目にしたことはあったが、弘人は一度も中に入ったことがない。

「入るの?」
驚いて振り返ると、背の高い男性がこちらを見下ろしていた。いつのまにか立ち止まっていたらしい。すみません、とよけると、男性に手を掴まれる。
「え」
「入ろうよ」
きっとこの人が中の作品を創った人で、入場料を取るつもりなのだ。警戒して、足を踏ん張って抵抗する。
「いや、あの結構です。じゃなくて、」
「写真、興味ない?17時までだからさ」
弘人の手を引いて中に入ろうとする男性が、笑顔で振り返る。意外にも優しそうな顔で笑う。
「あれ」
結局手を放してくれないまま、一緒に中に入る。一組の客がいたが、それ以外に人はいなかった。男性が誰かを探すようにきょろきょろと顔を動かす。
「不用心だな」
ふと気が付いたように、男性が掴んだままの弘人の手を解放する。このまま逃げてもよかったが、少しだけ憧れていた場所に興味があった。
「あの、お金は」
「金?あー、いらない。無理やり見せるようなもんだし」
ではなぜ連れてきた、と思って受付のそばを見て納得する。後で、ポストカードを買わされるのだろう。
「どんな写真なんですか」
「それをこれから見るんじゃん」
弘人は呆れて溜息が出そうになったが、いつもの癖で飲み込む。
「俺、翔吾」
弘人です。彼に倣って下の名前を名乗った。翔吾が受付の椅子に座った音を確認して、弘人は室内を回り始める。

弘人には、上手い写真が何なのか分からない。残念ながら彼の写真についても語ることはできないが、好きなタイプの写真であると感じた。
「ポートレート、でしたか。話しながら撮った感じがいいですね」
当たり障りのない感想を口にすると、翔吾が椅子から立ち上がる音がした。びくっとして振り向くと、翔吾がこちらに歩いてくる。
「喋ってない」
「失礼しました」
「独り言だ」
「はい?」
これ以上失言をしないようにと、弘人は他の写真を見て回る。

誰かが中に入って来た気配がした。入口に立っていたのは若い男性だった。最初にいた人たちは、いつのまにかいなくなっていた。
その人が、じっと弘人を見つめた。冷たそうな印象を受けたが、弘人はとりあえず会釈をする。しかし、男性はすっと顔をそらして受付の椅子に座った。そのままスマートフォンを触り始め、弘人は総じて感じが悪いという印象を受けた。
「俺、あいつの知り合い。愛想がないだろ」
そう言う翔吾は、少し怖い印象はあるが愛想が悪いわけではない。とっくに初めの警戒心はなくなっていた。

写真を一通り見て終わると、自然とポストカードが並ぶ机の前に辿り着いた。そういう動線になっているのだから当然だ。
この頃には、弘人は一枚くらいポストカードを買ってもいいかと思い始めていた。先程目に留まった数枚を探し出す。
「買ってくれるの?優しいじゃん」
嬉しそうに近付いてくる翔吾の胸あたりを見ながら、弘人は初めて彼の名前を口にする。
「翔吾さん」
「さん付けで呼ばれるの新鮮。何だよ」
「翔吾さんが、一番気に入っているのはどれですか」
「俺の?」
写真を撮った本人が一番思い入れのあるものと、弘人自身が気に入ったもの、その二枚を買おうと決めた。
えー、と翔吾がどうでもよさそうにポストカードを覗く。
「俺はこれ」
翔吾が手に取ったのは、ブランコの写真だった。ありきたりなどこかの公園のブランコが、揺れていたのか少しだけぶれていた。この直前まで誰かが遊んでいた、そんな一枚だ。
「どうして?」
「理由なんてないだろ。フィーリングだろこういうのは」
「そうやって説明するんですか」
無責任に、それでは売り込んでいけないなと思ってしまう。弘人は、翔吾に渡された写真を見つめる。錆びたチェーンに色が薄くなった赤い支柱。
「それ、そのブランコはもうなくてさ」
翔吾が笑う。懐かしそうに、愛おしそうに。
「俺が小さい頃に遊んでたやつだから、新しくなるって聞いてちょっと懐かしくなって」
思い出のブランコか。そういうものに執着しなさそうな翔吾も、やはりアーティストなのだろう。弘人は翔吾の思い出が気に入った。
「これと、こっちの買います」
「ほんと?金はあっち、あいつのところ」
翔吾が受付の彼を指さした。ポストカードを並べた机を指で叩く。
「一枚200円な」
受付で男性に500円を渡すと、彼はそれをすぐに100円に替えた。弘人にお釣りを渡しかけて、ふと手を止める。100円玉を手元に置き、近くにあった紙に何かを書いていく。これは、
「人質だ」
後ろで翔吾が笑ったが、男性は無反応だった。顔を上げた彼が、弘人に紙を突き付ける。
『ブランコはあいつの地元の。錆びついた音が懐かしいって言うから気になった。もう一枚は俺とあいつの知り合い。切ったばかりの髪のシルエットが綺麗で、その影』
まじまじと男性の顔を見つめる。感じが悪いと思った理由の一つ、耳に着けたイヤフォンが大きいことに気が付いた。
「そいつね、耳が聞こえないのよ。それでも感じ悪いよな」

自分と男性の間には紙とペン。外はだいぶ暗くなったが、まだ17時だった。『写真は、あなたのですか』
『他に誰』
翔吾にちらりと視線を送ると、目の前の彼が少しだけ笑った。
『あいつが繊細なことするように見える?』
『だからびっくりしたんです』
話しかけられているような写真がたくさんあった。独り言。
『ブランコは、音が気になったっていうことですか』
『音を見るしかないから。俺は見るしかないし、あそこの翔吾には残る』
『それを聞いてもう一周したくなります』
『もしかして筋肉痛?』
驚いて顔を上げる。そうです、と言った後に慌てて頷いた。
『何で分かるんですか』
『さあ。筋肉痛に音はないし』『病気とかになると人は聡くなるらしい』
翔吾が二人の会話を覗き込んだ。あれ、と声を上げる。
「弘人君のそれ、伊達眼鏡」
はっとして振り返ると、翔吾の手が伸びて弘人がかけている眼鏡を取り上げた。ほとんど変わらない視界で、翔吾が弘人の眼鏡をかける。驚くほど似合っていない。
「やっぱり度が入ってない。お洒落の眼鏡だったんだ」
「だめですか?」
「言ってないって。ただ似合うと思って、文系の男の子って感じ」
「そうです、それが狙いです」
「認めた」
「どうせインドアっぽいとか頼りないとか言われるなら、どう見てもそう思われるようにしてやろうと思って」
翔吾が吹き出した。
「それ、テイストの問題じゃないな」
受付に座った男性が、弘人とけらけらと笑い続ける翔吾を交互に見る。眉を顰めると、ペンで机を鳴らした。
「ああ、悪い」
ちょっと寄って、と翔吾が弘人の肩を押す。横にずれた弘人がペンを渡すと、翔吾が嬉しそうに何かを書いた。
『まとめると、弘人君ひねくれてる』
「まとめすぎです」
『弘人君ね。意外にね』
『いいんです。実はひねくれているくらいが生きやすいんです』
弘人は初対面の人に何でも話すことはできない。しかし、出会いが強引な翔吾やカメラマンで耳が聞こえない男性は、弘人にとって非日常だった。普段であれば絶対に話せないことをぺらぺらと話してしまう。
『お名前聞いてもいいですか』
「翔吾だって」
「違いますよ」
「クイズです」
「はい?」
「こいつのカメラマンとしての名前は何でしょう」
机の周り見渡すが、それらしいものは見当たらない。
「ヒントをください」
「普通の苗字だ」
「それじゃ分かりません」
「こいつの命は何だ」
男性が再びペンで机を叩いた。弘人が筆談に慣れないせいで、つい彼を置いてけぼりにしてしまう。
『名前を当てようとしています。ヒントが微妙で』
『何て?』
『苗字と、命は何かって』
男性がふうんという顔で頷く。微妙だと思ったヒントは適当なようだ。
『命はカメラ?』
『カメラマンとしてはね』『生きる上では?』
『目ですか』
『そう。じゃあ補うものは』
『耳』
『耳は補えない。何を補う』
『音?』
『正解』
それ以上は教えてくれなかった。考えろということだろうか。
紙に『め』『おと』『me』『oto』と書いてみる。
『おとめ』
『却下』

男性が腕時計をちらりと見た。
『時間だ。ここ借りてるから』
立ち上がって一番近い写真に手をかける。
「今日でおしまいなんですか」
「そう、一昨日からやってたの。無名でもそこそこ人が来るもんだね」
昨日も弘人は前の道を通ったが、気が付かなかった。もっとも、気が付いても入ったかと言われると自信はないが。
「俺も片付け手伝いに来たから」
ありがとね、と言って背中を向ける翔吾。急に寂しさに襲われた。
「楽しかったです。最初はびっくりしたけど」
一度息をついて、呼び掛ける。
「また会えますか」
カメラマンの彼は振り向かない。翔吾が、弘人の目を見てにっと笑った。
「こいつが売れたら」
はい、と言って会釈をする。弘人が男性をちらりと見ると、翔吾が大丈夫というように手を振る。頷いて、弘人は彼らに背中を向けた。

外は寒かった。いつもより足取りが軽いことに気が付かないまま、弘人は男性の名前を考え続けていた。
目、音。め、おと。めおと。えもと。
江本。
柄本、いや柄元だろうか。

弘人はほとんど走るように歩いていた。
早く有名になってくれないと困る。アーティストネームが分からないが、それは問題ないだろう。彼はとても整った顔をしていた。名前よりも先に顔が出回るだろう。
次に彼の作品を見つけたときには、『エモトさん』と話しかけてみよう。弘人は無意識に微笑んでた。

せめて、翔吾に書店でアルバイトをしていると言っておけばよかった。


雨に宿る

夏のじめじめとした雨に、透け感のあるブラウスが湿っていく。さらりとした肌触りを求めて選んだ洋服も、雨に濡れてしまえば鬱陶しいだけだった。
岡田芙実は後悔していなかった。雨の日に、濡れると肌にくっついてしまうブラウスを着てきたことも、白いデニムを履いたことも。

それでも、湿度の高さには敵わない。駅が見えると、小走りになって雨に当たらない場所を目指した。
駅には芙実と同じように雨宿りをしている人が何人もいた。ほとんどの人が傘を持っているが、土日ということもあって、買い物をして増えた荷物や服の一部が濡れている人が多かった。
芙実は下を向いて、深く息を吐きだした。どこかで座りたい。
「ごめんなさい」
傘から落ちる水滴が、隣に立つ男性の黒いスニーカーを濡らしていた。慌てて隣を向いて謝ると、想像よりも若い顔がこちらに顔を向けた。
「あれ、何ですか」
「靴、私が濡らしてしまって。ごめんなさい。この後は大丈夫ですか」
男性がゆっくりと自分の足元に目を落とす。まだ大学生に見える青年は、ああ、と言って微笑んだ。
「気が付きませんでした。どうせ濡れていたし、スニーカーだし。もう帰るところだったので、全然」
「傘、」
ないんです、と青年が照れたように笑う。よく見ると、髪も服もびっしょりとまではいかないが濡れてしまっていた。少しだけかわいそうな気持ちになる。芙実がハンカチを渡すと、青年は申し訳なさそうにTシャツや髪の毛をぽんぽんと拭いた。

改めて青年の顔を見ると、可愛らしい雰囲気に魅力を感じた。雨に濡れたせいか、子犬のようにも見える。
芙実は、近くの百貨店をちらりと見ると、青年の肩に手を置いた。青年は驚いて目を見開いた。
「謝罪を兼ねて、そこの中の喫茶店で雨宿りしませんか。もちろん私がご馳走します。その代わり、」
これでは私ばかりが得をするのかもしれない。
「ちょっと愚痴に付き合ってくれませんか」
「僕、人見知りです」
最高、と思わず声が出た。真面目な顔をして人見知りですと宣言する彼なら、きっと話を聞いてくれる。芙実はそう感じた。
「大丈夫、雨が弱くなるまでの関係だから。連絡先を聞いたりしません」
「こんなに濡れていたら、お店の人が嫌がりませんか」
「雨だから大丈夫です。あ、嫌ならいいんです。初対面の人といるの、苦手かもしれないのに」
青年が芙実のブラウスを見下ろした。無遠慮な視線に一瞬驚くが、彼はすぐに芙実の目を見て笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えての前に、その服は気に入ってますか」
「これ?うん、一番好きなブラウスですよ」
「そうですね、すごく似合います」
ストレートな誉め言葉に動揺する。大人しそうな子でも、若い男の子はこんな感じなのだろうか。
「僕、雨の日に好きな服とか似合うものを着て楽しそうにしている人、好きなんです」
「ちょっと恥ずかしいです」
「え?ああ、確かに。その分、雨の日に汚れないような服ばかりを選ぶ人は、つまらないなって思ってます」
芙実は久しぶりにわくわくした。ただの穏やかな男の子ではないらしい。
「じゃあそれは?」
芙実が指さした青年の服は、真っ白なTシャツ。特にこだわりがあるようには見えない。
これは、と彼が背中をこちらに向ける。主張が強くない上品なデザインでフランス語の文字が並んでいた。
「後ろを歩く人をポジティブにできるかもしれない格好です」
「多分、誰も読めません」
行こう、と声をかけて、芙実は青年と冷房が効いた百貨店に向かった。

「先輩がさ」
芙実たちが入った地階の喫茶店は、思っていたよりも混雑していた。奥の方の店員から死角になりやすい席に落ち着くと、一気に気持ちが緩んだ。注文したカフェモカとアイスコーヒーをそれぞれ一口飲むと、さらに砕けた雰囲気になる。
「お洒落で可愛い人なんだけど、もう好きなことが仕事ですって人で。スイーツ特集とか任されてさ」
「ん?出版の仕事ですか」
「そうそう。このあたりの新店とかを紹介するような、そんなに大きくないところなんだけど。で、その人は知り合いに仕事に繋がるような人もいるの。何か、勝てないなーって」
「勝ちたいんですか」
「えー。勝ちたいっていうか、じゃあ私は何もないなっていうか」
「普段はどんなことをしているんですか」
芙実は、最近取材をして記事を書いている自転車の話題を口にする。芙実の会社では、一人が企画から取材、記事の編集までを行う。
「自転車、嫌ですか」
「嫌、ではないけど」
「スイーツ関係がしたかった?」
「っていうわけでも。私、これがしたいっていうのがないんだ」
何だか、いつもと逆だ。目の前の男の子に取材をされている気分だ。だとすれば取材相手は何て態度が悪いのだろう。
「ねえ、聞き上手だね」
「そうですか?ああ、人見知りだから」
「私、喋りすぎちゃって仕事でも話を引き出せないんだよね」
取材対象に興味はあるのだ。事前に調査をして、書きたいこともあるのに、取材で人に会うとどうも自分の理想を押し付けているような気がする。相手に文句を言われたことはないが、いまいち話が盛り上がらない。
「確かに、喋ってますね」
「やっぱり、ぐっと抑えたほうがいいのかな。いや、無理」
「それだと持ちませんよ」
青年がストローでコーヒーを混ぜると、氷のカランという心地のよい音がした。先程まで真っ黒だったアイスコーヒーに、まだらな乳白色が広がっていく。その様子を見ながらストローに口をつけると、チョコレートの甘さに驚いた。

しばらく無言でコーヒーを飲んでいた青年が、今度はグラスの水を揺らし始めた。アイスコーヒーのときとは違う高さの音が鳴る。
「難しいですね」
どうやら、芙実の愚痴を聞いて解決案を考えていたようだ。液体を混ぜたり氷の音を立てるのは、考え事をするときの癖なのだろうか。
「分割して話すとか、」
「ほう」
「例えば僕みたいな人なら、いきなりわーって来ると話せないし」
「え」
「いや、今はいいんです。逆によく話す人なら、そうそうって言わせたら勝ちだと思います」
「イメージできた」
「相手にとってのエンジン、きっかけになればいいんじゃないですか」
なんて若者だ。こんなに冷静に仕事のアドバイスをしてくれるとは思わなかった。彼は芙実よりも上手く人の本音を引き出すし、喫茶店で注文する飲み物も大人だ。
「大学生?」
「はい、今4回生です」
「何学部?」
「教育です。高校の、国語の先生になりたくて」
「眠いやつだ」
「そうなんですよね。僕のときも先生がだらだら喋ったり、生徒に読ませるばかりでつまらなくて。だからちゃんと役に立ったり、何かしらおもしろいと思ってもらえる国語の授業がしたいんです」
芙実は、教師を目指す人にあまり好感を抱いていない。現実味のない純粋すぎる理想を持っているか、もしくは公務員というだけで子どもに興味がないか。大抵の人は二分されてしまうが、目の前の青年はその中間のような人だ。純粋にひねくれている。
「いいね、きっと生徒に好かれるよ」
「舐められる心配はありますけど。いかにもって見た目ですし」
「いや、ギャップがあるから。大丈夫」
青年が困ったように笑う。冷めた部分をきちんと自覚しているようで、彼自身の魅力には無自覚なようだ。

「普段は何してる?」
「バイトくらいですよ」
芙実の大学時代を思い出しても、授業以外では家で寝るかバイトに行くくらいだった。初めの頃は飲み会が楽しかったが、半年で飽きてしまった。
「あ、探し物しています」
「探し物?何か失くしたの」
青年が言葉を迷って、ストローでコーヒーをかき混ぜた。
「そう心の中で呼んでいるだけです。人、というかその人の作品をずっと探していて」
「何それ、楽しそう」
「若い人で、カメラマンなんです。でもあまり名前が知られていないから、イベントとかでチェックしています」
「最初は何かで見かけたの?」
「この近くで、個展をやっていたときに偶然。数日だけだったんですけど、丁度最終日の終わりにお話したんです」
「何て人?」
「それが、教えてくれなくて」
「名前は広めないと」
「そうなんですよ、なのに当ててみろとか言うから」
そういえば、話題になった芙実の先輩にも、知り合いに大学で同期のカメラマンがいた。
「知り合いにカメラマン、ってかっこよくない?」
「ああ、まあ。僕は知り合いではないですけど」
百貨店の地下には窓がない。天気予報のアプリでは分からないリアルタイムの天気を確かめる術がなかった。
「18時半、結構いたね」
「雨宿りもたまにはいいですね」
一口水を飲んで、先に芙実が立ち上がった。

「ご馳走様でした」
「いいえー。こちらこそありがとう、アドバイスまでしてもらって」
「アドバイス、ですかね」
「元気出た。よし、今日はおかずを買って帰ろ」
大人だ、と青年が笑う。そんなところは普通の大学生らしくて可愛い。

建物から出ると、小雨が降っていたが蒸し暑さは消え失せていた。
「じゃあね、ありがとう」
一緒に過ごしたのは一時間ほどだったが、雨の日に話し込んだせいか別れが少し寂しくなった。芙実が手を振ると、彼は可愛らしい笑顔でぺこりと頭を下げた。
「はい、楽しかったです。ありがとうございました」
出会った駅で青年と別れると、芙実はデニムの裾を確認した。多少雨が跳ねていたが、洗えば綺麗になるだろう。ブラウスもデニムも、芙実のお気に入りだ。
明後日の取材には、このブラウスを着ていこうと決めた。


元気です

彼が冷蔵庫の扉を閉める音が、静かな部屋に響いた。手にした卵を軽く宙に投げてキャッチする。もう一度、卵を上へ投げると今度は手が滑った。あ、という声の後にべしゃんと卵が割れる音が続く。
「ここはカットで」
彼が振り向いた。後ろのそれ取って、という声に一旦カメラを止めた。
「こういうのがおもしろいんだから、使わせてよ」
そう言いつつ背中側にあったキッチンペーパーを手渡すと、彼はそれを一枚だけ切り取って、丁寧に崩れた卵を片付け始めた。最後にもう一枚を取ると、それは水で濡らして床を拭いていく。
「ほら、おもしろいんだって」
「どこが。誰が喜ぶんだよ」
西山涼は、ノートに『少量のキッチンペーパーで片付け きちんとしている』と書き込んだ。一連の動きは映像に撮ってあるが、気になった箇所はその場でメモを残すようにしている。

29歳になった涼の趣味は、参与観察と言われる、対象者を観察して記録をしていくことだ。参与観察法にはいくつかの種類があるが、大学時代に講義で参与観察の経験をして、単純におもしろいと思ったのが観察と記録だった。記録は対象者の行動の報告書のようなもので、後で本人が読んでも楽しめるところに魅力があると、涼は社会人になっても趣味として参与観察を行っていた。

目の前にいるのは仕事の同僚で、涼より二つ年下だが弟が二人いる長男ということもあって、何かと涼をフォローしてくれる。
入社して半年が経った頃に、「俺の人生に頭が良くてか弱い人はいなかった。西山、おもしろいな」と言われた。彼にとっては好意の言葉なのだが、25歳にもなってか弱いと言われて嬉しいわけがない。何年経っても、彼の中では涼は「頭が良くてか弱い同期のお兄さん」のままらしい。

「俺、何回目なのそれ」
「さあ。短いものも合わせると7回はやった」
「そろそろ本ができるな」
「本ね」
「やめろよ、絶対におもしろくない」
再び録画を始める。最近自炊を始めた彼は、軽くて薄い俎板や包丁を使って玉ねぎを切っていた。鍋の中では鶏肉が煮込まれていた。玉ねぎを鍋に流し入れると、蓋をして冷蔵庫に向かう。手にしたのは卵だった。
「ちょっと」
思わず口をはさむ。参与観察の基本は観察者が対象者に影響を与えないことだが、さすがに黙っていられない。
「卵、早いよ。鶏肉は火が通るのに時間がかかるんだから」
「大丈夫だ、新鮮な卵だ」
そう言って、さっさと卵を割って溶いてしまう。
軽く溜息をついて『卵を事前に割る、初心者』と書く。愉快な記録になりそうだった。

「うまい、か」
完成した親子丼の横にビデオカメラを置いて、涼たちは遅めの夕食を食べ始めた。スプーンで一口目を食べた彼が首を捻った。
「肉と卵の味がする」
大方見当がついた涼は、苦笑して上の具材だけを口に運ぶ。確かに、鶏肉と卵の味がした。ついでに玉ねぎの味。
「醤油とかみりんとか、ちゃんと入れた?」
「味付けか。そもそも味付けの存在が頭になかった」
「いいんじゃない、健康的で」
自炊をする涼は薄味派だが、さすがにここまで素材の味しかしないものを好むわけではない。醤油とめんつゆを混ぜたものを少量かけると、何とか完食できる味になった。

「俺以外のそれ見せてよ」
鍋や丼だけの洗い物を済ませ、冷蔵庫を物色し始めた彼が、こちらを見ずに言う。涼は動画を再生しながらパソコンに観察記録を打ち込んでいた。何度も同じ箇所を巻き戻して再生するため、30分作業をしても動画では6分しか進んでいない。
「プライバシーの問題なら、俺なら大丈夫だ」
「デリカシーがないのに?」
基本的に他人に記録を見せる場合は、事前に本人に許可を得るようにしている。しかし、ここで同僚に見せるくらいなら問題ないだろうと、涼は上書き保存をして過去のファイルを開いた。
「子どもが多いけど」
「病院の子どもって観察して何か書ける?」
ビールとペットボトルの緑茶が机に置かれた。
涼が土日に絵本の読み聞かせのボランティアで訪れる病院の子どもたちは、体から管が伸びた子や車椅子で移動をする子が多い。涼も5年以上前に世話になったところだ。
「小さい子ってちょっとした目線とか動きが可愛いから、ほら、こうやって細かいことが書ける」
病院内の友だちがやって来たときの目の輝きや点滴の跡を覗き込む様子は、文字にしてもその愛らしさが伝わってくる。子どもの親に読ませると喜ばれたこともあった。
「それお前が言うから許されるんだろうな」
適当に選んだ記録を読んでいると、彼がぽつんと呟いた。
「病院は、西山が行くことはもうないの」
彼の顔を見つめた。お兄ちゃんの顔をしている、と涼は思った。
「たまに。年に数回、検診みたいなもの」
そう、とぎこちない声が返ってきた。
彼は、一度だけ涼の左胸の手術痕を見たことがある。見慣れない姿に、いつまでも過剰に心配してしまうのかもしれない。

これは、と彼が明るい声で問いかける。先程から一滴ずつ落ちていた流しの水を止めると、どこかにやついた声に嫌な予感がした。パソコンを覗くと、案の定あまり見られたくない記録だった。
「この子、彼女?」
「違う、大学の同期」
大学で同じゼミに所属していた高野涼香の名前があった。数年前に、偶然外で会ったときに許可を取ってカメラを回したのだ。確か、この日は読み聞かせで病院に行っていた。
涼香と話していたのは、五感のうち一つだけを失うならどれがいいか。
触覚と答えた涼香が話すところを、涼が記録したのだ。
「へえ。西山は何て?」
「俺は確か、嗅覚。今でもそう言うと思う」
「何でだよ。俺なら、無理だ選べない」
「俺も失くしたくないけど、しいて言うなら匂いか味じゃない?でも、何か食べて無味なのは嫌だし」
「お前ら、この涼香ちゃんも食べることは譲れないんだな」
「まあ、縋りたいよね。俺は視覚と聴覚の方が重要だけど」
でも、と涼は呟いた。懐かしいものが甦る。
「その人をイメージする匂いとか、普段纏う匂いが分からなくなるのは寂しいか」
涼は、同僚が開けたファイルを一番上までスクロールした。
比較的短いその文章は、数年前に書いたせいか読み返すのが懐かしくも恥ずかしい。

『涼香が口をすぼめて、鼻と口に意識を集中させた。それから、目をぎゅっと閉じたり、手に下げた鞄を触ったりした。涼香にとっての当たり前が、言葉に出さないことで優しさとして滲み出ていた。涼香は、「触覚かな」と言った。鞄の持ち手を何度も握った。
「正直、どれでもいつか慣れるとは思わない?慣れようとするはず。でも、悲しいでしょ。私は、大好きな人の顔が見えないとか、甘いものの味や匂いがしないとかって慣れの問題じゃないと思う」
夕方のまちを歩きながら、涼香は夕日に目を細める。薄い色のシャツも、黒のパンツも、髪の毛も肌も、表面がオレンジ色に染まる。涼香はすっと息を吸い、ゆっくりと吐き出した。急に晴れ晴れとした表情になった。
「だったら、困りはしても慣れたら何とかなる感触を失くすのがいい。それでも幸せに生きていける自信がある」
それから、涼香は手の平の感触を確かめるように、身に付けた服やガードレールを触りながら歩いた。ガードレールの白い粉が手に付くと、嬉しそうな顔で手を払った。』


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