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「現在」

0

パソコンのそばには2冊の文庫本。並べると対になる表紙は、美しくも哀しくもあった。

手紙を書くような気持ちでキーボードを打つ。
本の世界の人物に生かされる人がいることを伝えたかった。

1


場所の匂いというのは不思議なもので、そこに入ったときは意識していた匂いが、いつのまにか気にならなくなっている。
清潔で無機質な匂いがする病院も、しばらく座っていれば何の匂いもない場所のように感じられる。入院患者にとっては、もはや日常の匂いとして認識されてもいないだろう。

待合室の椅子にもたれて、西山涼は抱えたリュックのチャックをいじる。病院という場所は、たとえ顔見知りの先生ができたとしても決して居心地の良いところではない。

この先を思って俯く彼の耳に、テレビの音が入ってくる。軽井沢の言葉に顔を上げると、新しくなった大きなテレビが夏休みの旅行に関する特集を放送していた。大自然も人工的な施設も、ドローンで撮影すると魅力的に感じるから不思議だ。

無意識に、左の鎖骨当たりを触る自分に気が付き、苦笑する。みっともない顔をしていたかもしれない。
西山さん、と名前を呼ばれ、涼はいつもの診察室へ向かった。


突然の着信音に、紺堂翔吾は不機嫌な顔で目を覚ました。画面には、同じゼミの女の子の名前が表示されている。スピーカーにして電話に出ると、再び目を閉じた。手探りで薄い布団を引き寄せる。
「はい」
「あれ、寝起き?今から、場所送るからお茶しない?」
「りょうちゃん、いや今日は、」

またか。今は正直このまま寝ていたい気分だったが、こいつの言う通りにすると、いい一日だったと思えることが多い。
「15分以内に出るから」
答えつつ起き上がると、待ってる、という満足気な声が聞こえてきた。


連絡から30分弱、翔吾が店に現れた。明るくておしゃれなカフェに女の子と来た彼氏、という印象を受けた。
「翔吾、こっち」
彼はすぐに破顔して、こちらに 近付いてくる。何を言われるのかは分かっていた。
「ごめんって、奢るから」
「俺に貢ぎたいの?」
翔吾は、向かいの席に座ってメニューを眺めると、顔をしかめた後にコーヒーフロートを頼んだ。
「ああ、無難かも」
「だから、呼ぶなって」
彼は優しい。そして私は、かなり意地が悪い。
「で、何がだめなの?俺は甘いものしかない店はちょっと」

高野涼香の趣味はカフェ巡りで、一人で自宅や大学から徒歩圏内のカフェを訪れている。気に入ってリピートするのは隠れ家的な静かな店で、真新しいカフェは大抵好きになれないのに、新店がオープンすると一度は行きたくなってしまう。

「この配置、お客さんをさばきたいとしか思えない。あと、写真映えのことは考えているんだろうけど味がだめ。生クリームとメロンが合わないとかありえない」
気に入らない店では、つまらなくて誰かを呼んでしまう。それには同じゼミに所属するフットワークの軽い翔吾が適任だった。文句を言いながらも、結局翔吾は来てくれる。
私はにこっと笑って、翔吾に目の前の皿を差し出した。

2


研究室に入ると、涼香と朝陽がスマートフォンの写真を覗き込んでいた。おいしくなかったとかあれはだめだとか言いながらも、涼香は入った店や食べたものの写真を残す。正直、変わっている。
「おはよう、また翔吾でも誘ったの?」
まず涼香が、遅れて朝陽がゆっくりと顔を上げてこちらを向く。
「ああ、おはよう」

二宮朝陽。同じ学部で過ごして3年以上、最近では研究室で密に関わるようになったが、いつまでたっても彼には現実味を感じない。今時の顔というのがどんなものか分からないが、朝陽は間違いなく綺麗な顔をしている。ただの、とはいっても恐らくは上質な白いTシャツが何よりも様になるような人だ。ゼミが同じでなければ仲良くなることはなかったはずだ。
「うん、今度は朝陽が誘ってほしいって」
涼香の趣味は打率が悪そうだ。気に入らない場所で二人分のお茶代を払うのだから、相当変わっている。
「涼も一緒にお茶したいな」
「それはお断り」
会話を切り上げて、涼は自分の席に着く。そういえば、甘いものは久しく食べていない。
「朝陽君さ」
再び朝陽に顔を向けると、彼も顔を傾けてこちらを向いた。


「先々週。何回か休んでいたけど、大丈夫だった?」
朝陽は軽く眉を上げ、椅子に座った涼を見下ろした。思わず溜息が出た。
「ちょっと、旅行の後に疲れただけ」
「ならよかった。旅行ってどこに行ったの」
面倒くさい。二度目の溜息をこらえて、「軽井沢」とだけ答えると、音を立てて椅子に座る。

以前よりも少し伸ばした髪が、頬に当たって気に障る。パソコンにパスワードを打ち込みながら、空いた手で髪を耳に掛ける。
朝陽の髪の毛は、癖がなくさらさらとしている。以前はこまめに暗めのベージュにカラーをしていたが、最近では面倒になって地毛の黒色のままでいる。そのせいで髪型にほとんどお金をかけなくなった。

「翔吾は?」
文学部、井ノ原ゼミの4人のうち、紺堂翔吾だけが来ていなかった。パソコンで時刻を確認すると、あと2分でゼミが始まろうとしている。
顔を画面に向けたまま呟くと、涼が首を傾げる気配がした。朝陽も大して気にならなかったため、そのままファイルを開いていく。
「さっき、二日酔いって」
涼香のきょとんとした声がした。
そういえば、ついさっき翔吾が何とかと言っていたような気がする。
「ああ、ごめん」
「いや、そうだね」
昨日、翔吾と飲んだのは俺だ。


暑い。頭が痛いし気持ち悪いし、最悪だ。
そうは言っても、翔吾は完全にだらけることができないでいた。全く回らない頭で、昨日朝陽と話したことを思い出す。
面倒くさい奴ら。俺は俺らしくいればいいということだ。

しばらくぼんやりとしていると、机の上で着信の音が鳴った。頭に響く張本人に近付いていくと、涼の名前が見えた。
「何?悪いけど」
「差し入れ、翔吾にぴったりのを作ったから持っていく。すぐ帰るから」

20分後、本当に涼はやって来た。
手に下げた紙袋からは、なんと弁当箱が出てきた。
「午後に時間があったから」
涼の顔を覗くと、日常的に料理をする人の目をしていた。手元の弁当箱を見る目が優しい。
「健康には気を付けて」
お前に言われると、それはちゃんと聞くしかない。ありがとうと呟くと、翔吾は冷蔵庫からお茶を取り出した。

一人になった翔吾が食事を始めると、再びチャイムが鳴った。涼が忘れ物をしたのだろうかとゆっくり立ち上がってドアを開けると、そこにいたのは予想外の人物だった。          
「朝陽、か」                
「悪いかよ」                
涼しげな顔をした朝陽が、安っぽいアパートの外に立っていた。そうでなくても、朝陽が人の心配をして行動に出るというのは珍しいことだった。    
「昨日、悪かった。何か手伝う?」      
翔吾は吹き出しかけたが、頭の痛みを感じて笑いを抑えた。全く、彼にこんな気遣いは似合わない。                    
「いや、さっき涼が飯作ってきてくれた。そのときにちょこちょこ片付けてくれたし」    
上がっていくか、と声をかけると朝陽は玄関に足を踏み入れた。

部屋に戻ると、朝陽が机の上の弁当に目を留めた。                    「涼が作ったのこれ?すごいな、あいつ」  
「うまいよ。味が薄いけど、それが何か嬉しいんだよね」            朝陽は胡麻を絡めた牛蒡をつまんで、壁にもたれかかった。頭の横を壁にべったりとつけ、しばらく咀嚼する。                
「うまい」                
「壁、汚いよ」               
こういうとき、翔吾は鈍い方ではないと思っている。朝陽は話したいことがあるのだろう。黙ったままの朝陽が、ゆっくりとタイミングを図っているのが分かった。                 
「3人は、ずっと仲いいの?」        
箸を止めて朝陽を見るが、彼に表情はなかった。翔吾は長い首がものを飲み込んで動くのを眺めていた。
「ずっと。って言っても涼香は大学からな。涼とは、小学生以来な」             ふうん、と朝陽は興味がなさそうに体勢を立て直した。そのまま玄関へ向かって歩いていく。
「帰るわ」
思わず、その背中に呼びかけた。
「何だよ。お前も人間なんだな」
「どうも。ああ、お大事に」
人間らしくて安心した。

3

⑴  
土曜日、朝陽は関東の温泉街を歩いていた。昨日の夕方から2泊する予定で、古いものと新しいものが混ざり合うまちでカメラを構えていた。
建物、照明、足元、湯気、まち並み。写真を見ればここに来た感覚になるくらいに、朝陽は数歩進むごとに写真を撮った。               
暑さでカメラに触れる指先が湿っていた。首から下げたカメラのストラップはもっとひどい。重みと湿気で、首元が気持ちが悪かった。


「休みの日にごめんね」           
そう言って謝る自分の顔色が悪いことは、涼自身がよく分かっていた。ベッドで休む自分の隣に座った翔吾が、困った顔で曖昧に頷いている。バイトも何もない休日に本当に申し訳ないことをした。                
「俺みたいな奴がいてよかっただろ?」
軽い調子で返すのは、彼の優しさだ。状況はあまり穏やかではない。

土曜日の午前中に、涼は自宅で倒れてしまった。突然胸に鋭い痛みが走り、息が吸えなくなった。両親は母の実家に行って不在だった。救急車を、と思いながらも、スマートフォンを掴む指は翔吾の連絡先を探していた。
「涼も涼ちゃんも、俺が金に困ったら頼んだぜ」
「お金?金銭の貸し借りは嫌だよ。涼香はそうだね、きっと自分のためにしかお金を使わないだろうね」
それに、たくさん奢ってもらっているでしょ。
翔吾は一瞬笑った後にすっと真面目な顔をした。
「大丈夫なわけ?大丈夫って言うなよ」
いつもの軽さのない翔吾に、涼は彼が本気で心配していることに気が付いた。そして、恐れている。そう思うのは自惚れだろうか。
「手術、するかもしれない」
なるべく明るい声を出したつもりだが、やはり翔吾の表情が曇った。
「手術自体はそんなに難しくないみたい」
だから。
「大丈夫だよ、卒論もちゃんと書くよ」
「いつ」
翔吾とは反対側の、窓の外に顔を向ける。雲一つない、鮮やかな夏の空だ。
「10月末か、11月」
そのときには、もっと薄い色の空を見ているのだろうか。
「そっか。秋だな」
夏休みはゼミ休めば、と言い残して翔吾は病室を出ていった。


外は眩しく、少し歩いただけでいらいらとしてくる。病院は涼しかったが、落ち着かなく居心地が悪かった。翔吾は日差しを吸収するように、身体の力を抜いて自宅を目指した。

商店街に入ると、暑苦しい匂いに包まれる。総菜の匂い、特に揚げ物の匂い。今の季節であればうんざりするこの匂いに、今日は妙に優しさを感じた。コロッケ屋の前で自転車を止めて、透明のケースを覗き込む。
「コロッケとメンチカツを一つ」
先日の涼の目が頭に浮かんだ。素早くトングと容器を手に取る店員に、待ってと声をかける。
「やっぱりコロッケ、おからのコロッケにしてください」

4


農学部の建物の前、畑や花壇がある一角に、ひまわりと美青年が並んでいた。その人はひまわりの写真を撮っていた。
涼香は一瞬だけ声をかけるか迷った。彼らしくない行動に、気が付かないふりをした方がいいかもしれないと思った。
「涼香」
静かに近付いたが、朝陽は後ろに目が付いているかのようにあっさりとこちらを振り向いた。涼しい目が振り返ると、少し怖い印象を受ける。
「何、カメラ?しかも大学でどうしたの」
「息抜きで、卒論の。ほら、そこそこ綺麗だろ」
朝陽がカメラの画面を向けて、撮ったばかりのひまわりを見せてくる。
涼香は朝陽の香りが好きだった。懐かしくて綺麗な匂いがする。     211枚。何をそんなに撮っているのだろう。

「ねえ」
ふと思いついて、朝陽に顔を向ける。
「お茶付き合ってよ」
「何だよ」
「ほら、前に。誘ってって言ったでしょ」
近いうちに行こうとしていたカフェは、本格的なアフタヌーンティーを謳った新しい店で、検索したところ内装やメニューが洒落ていた。
「行く前からはずれってことでいいの?」
「そんな気がして」
期待している分、がっかりしたくない。何より、アフタヌーンティーだと一人では糖質オーバーだ。


「涼香」
さっさと会計を済ませる涼香は、一体どんなつもりなのか。英国のアフタヌーンティーを再現したこの店を、確かに彼女は気に入ったと言っていた。
「俺が奢られる理由がないんだけど」
店を出て歩き出すと、ようやく涼香が振り向いた。
「嘘くさい」
朝陽は苦笑して、相槌の代わりに頷いた。嘘くさい。
「真似事か」
「いろいろと本場を研究しているんだろうけど、それでも絶対に本場のアフタヌーンティーは楽しめない」
涼香がさっきまでいた店を振り返る。ガラス窓の奥、笑顔を浮かべた店員を見つめていた。
「あれでいいっていう人には素敵な場所。上手いよね、女友だちで行くと楽しそう」
軽く目を見張る。涼香にしては投げやりな印象を受けた。
「楽しいか」
「幸せ、かな」
朝陽は足を止めた。涼香が時折話す幸せを、朝陽たち井ノ原ゼミ生は評価している。興味があった。
「マニュアル通りとか、嘘くさいとか、それでも裏ではシフト回して、暑かったり疲れたりしているんだなって思うとさ、いろんなことに感謝できる」
軽井沢から帰ったときのことを思い出した。マンションの階段の音や近所のスーパーの騒音を改めて意識して、何かに感謝したい気持ちになった。
そのまま黙って歩き続けて、朝陽は涼香と別れた。

日差しが和らいでも蒸し暑さが残る夕方、公園のブランコに座ってカメラの写真を確認する。向かいから撮った涼香の顔は、大して楽しそうにも幸せそうにも見えなかった。
「いい」
一枚だけ、隣の席にお茶が運ばれるのを見ている涼香の表情は、他の写真よりも柔らかく見えた。

5


大学の食堂は、天井が高いせいで常にぼんやりとした喧騒に包まれていた。日替わり定食のチキン南蛮を味わいながら、涼香は半年後のことを思った。そのころには卒論が完成していて、残すは卒業、そして就職を控える身だ。そんな自分の姿はまるで想像できなかったが、そんなことはどうでもよかった。彼のことが心配だった。それから
「朝陽、」
食堂の前を朝陽が歩いていた。暑い中、彼だけは涼しそうに見えて羨ましい。涼香は、スマートフォンを触りながら反対の手でイヤフォンを耳に着けるというあまり感心できない行動を目で追った。
彼の前方から、文学部の数人が歩いてきた。そのうちの一人が朝陽に気が付くが、朝陽の様子を見て結局は声をかけずにすれ違った。
「用心深い」
多分、朝陽は音楽を流していなかっただろう。


図書館の静寂から解放されて伸びをしていると、後ろから声をかけられた。
「お前も?」
「ああ、朝陽君」
彼も図書館にいたようだ。涼はゲートの近くの席に座っていたが、朝陽には気が付かなかった。自分よりも前に図書館に入っていたのかもしれない。
「お疲れ。この後は帰るの?」
涼は、これからフリースペースで持参した昼食を食べる。学食は魅力的だが、食事の制限が多く選べるメニューがないのだ。
「そう、帰る。じゃあ」
あっさりと涼を追い越すと、朝陽は食堂に近い門へ歩いていった。


昼前に起きた日は、翔吾は決まって大学の食堂に向かう。自炊なんてとんでもないし、すぐに温かいものを食べるなら、自宅から自転車で数分の学食が一番便利だった。
翔吾は、限定メニューに海鮮丼があると必ず食べるようにしている。味は普通だが、その分そこまで人気がなさそうに見える。もし魚が無駄になったらと思うと、食にこだわりのない自分が海鮮丼を食べるべきだろう。生魚は、涼しい場所で食べたい。比較的冷房が効いた窓から離れた席に座ると、黙々と箸を運んだ。 


涼香は、隣を歩く青年を横目で見ていた。元から色白な朝陽とは違う、不健康な白い肌が太陽の下で眩しかった。
「暑いのは平気?」
彼はふっと笑うと、目を細めて空を見上げた。
「暑いのは元々強いよ。ただ、眩しすぎるとたまにくらっとするよね」
大学を出ようとした涼香は、同じく門に向かって歩く涼を見つけた。少し前に翔吾から涼が倒れたと聞いたせいか、日差しに溶けたような色の薄い姿が気にかかった。走って追いかけるとしばらく並んで歩いた。

「治療、するんでしょ」
秋にねと静かな声が答える。少し言いづらかったが、気になっていたことを口にする。
「朝陽にはずっと言わないの。入院したらさすがに黙っておけないよ」
「朝陽君は」
涼の笑みが深くなった。
「言われても困ると思う」
「それは、朝陽のため?」
涼が何を思うのか分からなかった。涼香は、朝陽には何も言わないでほしいと思っているが、現実的に考えてこのまま黙っていられるとは思えない。
「今さら言えない?」
「朝陽君は聡いよ。もしとっくに気付いていても、そうじゃなくても、面と向かってこんな話をすると朝陽君って困りそう。そういうことが苦手だと思うんだ」
何をそんなに気遣うのか。少しずつ涼香たちを頼っているようで、西山涼は優しすぎる。一番周りに甘えているのは、実は朝陽なのかもしれない。
大学院はいけそうかと尋ねると、頑張ると柔らかい声が答えた。

6


久しぶりに4人で飲まないかと声をかけたのは涼だった。当然、涼は酒を飲まない。何がしたいのかは分かった。
『場所は俺に任せろ。静かな方がいい?』
返信は素直だった。
『翔吾に任せた方が確実だね。落ち着いたところを頼む。』


金曜日は、大学からそのまま夜景の写真を撮りに行く予定だった。もちろん、それは土日でもよかった。朝陽はグループメールで飲み会に参加する旨を伝えると、ゼミのグループとは別に翔吾からのメールを開いた。
『お前もー』
それには返信することなく、朝陽は携帯をテーブルに放った。


4人で集まったのは、モダンな居酒屋だった。バーをリノベーションしたという落ち着いた店内は、騒がしさとは無縁だった。
「だから、しばらくは病室で卒論を書くつもりでいる」
先程、涼が自身の体調としばらくの予定の報告をした。
体調が悪くて。
まるで検査入院をするかのような口振りだが、しばらく大学に出られないことから彼の現在の症状を推し量ることができた。内心、涼香は焦っていた。朝陽の顔を盗み見るが、いつもの無表情からは何の感情も読み取れない。朝陽はただ、涼の顔をじっと見つめている。


翔吾は怒っていた。そうじゃないだろうと声を上げたかったが、事情を考えると勝手なことは言えなかった。涼は何でもないように入院の話を持ち出した。やっと話すのかと数日前から思っていた分、あっさりとした報告に拍子抜けする。朝陽だって、どうして何も。涼のウーロン茶がほとんど減らないことにもいらいらしてくる。
「なあ」
青い顔をした涼香が気を揉んでいるのが分かった。そうか、涼香は知らなかったのか。いくつもの気遣いが、4人に沈黙をもたらしていた。
「朝陽」
隣の朝陽に囁いてみるが、全くの無反応だった。


どんな場所にいても、唐突に自分は一人なのだと感じるときがある。朝陽にとってそれは今だった。初めて入る居酒屋で、向かいには涼、隣には翔吾が座っている。涼が治療のために入院することを話してからは、誰の言葉も耳に入らなかった。実際には誰もがほとんど口を開いていなかったが、朝陽はそれどころではなかった。
どう、すれば。
穏やかに微笑む涼の顔を凝視したまま、朝陽は動けないでいた。一度外に出なければ。そっとスマートフォンを取り出すと、朝陽はメールを打った。
『一人にして。後で話すけど今はごめん』
送信と同時に立ち上がり、俯きがちに入口まで歩いた。目で追いかけてくる店員に軽く頭を下げ、店の外に出た朝陽は居酒屋と隣の建物の間に逃げ込んだ。座り込むことさえできず、壁に身体を預けて目を閉じる。気持ちを落ち着けようとしても、不安が膨らんで息苦しかった。怖い。スマートフォンから名前を探して電話を掛けるが、乾いた笑いと共に赤いマークを押して電話を切った。助けてほしいとは言えなかった。


ベッドに仰向けに寝転がると、数時間前のやり取りが甦ってくる。上手く笑えていただろうか。

涼は、居酒屋で左隣の涼香に手術についての説明をした。珍しい手術ではないこと、失敗した事例がほとんどないことを伝え、頬をこわばらせる涼香に、だから大丈夫と言い聞かせた。
結局、朝陽は一度席を外したきり戻ってこなかった。朝陽の後に翔吾まで席を立つと、しばらくして『朝陽が体調悪そうだから送っていく。悪いけど解散、金はゼミのときに払う、よろしく。』と連絡が入った。
涼香と二人、テーブルに残された重たい空気と料理を少しずつ片付けた。

「せめて着替えなさいよ」
ドアの向こうから母の声がしたことで、涼はやっと体を起こす。風呂に入る気力はなかったため、部屋着に着替えると再びベッドに身体を沈めた。
食べ過ぎた。久々の腹の重たさを感じながら、本格的に目を瞑った。

夢を見た。
目の前には朝陽がいた。涼は朝陽に話しかける。しかし、朝陽に声は届かない。彼の後ろには笑い合う涼香と翔吾がいた。必死に声を出しても、誰も言葉を返してくれない。
涼は一歩を踏み出す。
透明の壁にぶつかった。

7


朝陽のマンションに一緒に行ってほしい。
昨日のゼミの後に涼香が声をかけてきたとき、翔吾は内心ほっとしていた。朝陽がゼミに顔を出さなくなって三週間、その間に翔吾は何度もメールを送ったが、朝陽からの返信は一度もなかった。
翔吾たちには時間がなかった。卒論に涼の手術、そして卒業。
今のあやふやな状態を切り抜けるには、多少強引でも全員の不安や気遣いを引っ張り出してしまうのがいい。
「朝陽、ずっと体調が悪いのかな」
俺も、こいつらに気を遣いすぎている。

今年最後と予想される台風の影響で、外はかなりの大雨だった。風はそこまで強くないものの、わざわざ出歩くには向かない天気だった。
しかし、朝陽の様子を見るなら早いほうがいい。
「もしさ、朝陽が何も話さなくても」
傘を傾けて涼香の顔を覗き込む。雨の音がうるさかった。
「ちゃんと言うから」
「何?」
聞こえたとしても何のことやらだ。傘からはみ出た右肩が濡れてしまい、翔吾は前を向いた。
涼香にも全部を知ってほしかった。その方が全員が楽になることを、翔吾は信じていた。


インターフォンで呼び出しても、朝陽は出てこなかった。もちろん鍵はかかっている。ドラマでよく見る展開が頭に浮かび、そんなことになっていないことを今すぐ確かめたかった。
「管理会社に連絡する」
涼香はマンションの名前を検索して、管理会社に連絡を取った。20分で向かいます、という言葉に心臓がペースを乱した。
「不在票とか、先々週の分まであった」
涼香が電話をする間に入口の郵便受けに走った翔吾が、強い目をして戻ってくる。彼も緊張しているのが分かった。手には何も持っておらず、もしかすると相当の量がたまっていたのかもしれない。

到着した管理会社の担当者に部屋を開けてもらうと、真っ先に翔吾が室内に走った。涼香がこの部屋に入るのは初めてだった。
中は思いのほか明るかった。外が薄暗い分、電気が付いた室内の明るさに少しだけほっとする。
涼香が想像していた通り、朝陽の部屋は綺麗に片付いていた。余計なものがほとんどない、シンプルな部屋。その分、机の上に散らばった付箋やメモに目が向いてしまった。
「涼香」
見てはいけないと思った。事務的なメモの他に、乱れた文字がいくつかあった。読んでしまう前に、視線を外してベッドの前で屈む翔吾に近付く。

朝陽は眠っていた。息遣いも顔色もおかしなところはなかった。
「私はこれで」
その声に後ろを振り返ると、鍵を開けた担当者が軽く頭を下げて背中を向ける。慌てて礼を述べた後に、再び朝陽に向き直る。
「朝陽、大丈夫?」
呼びかけるが、眠る彼は反応を示さなかった。体調は問題ないのだろうか。
翔吾が、枕元のマットレスを軽く叩いた。涼香は、翔吾の優しい手つきを意外に思った。
「驚くなよ、それと驚かせるなよ」
驚く。驚かせる。翔吾の言葉が理解できない涼香の前で、朝陽がふっと目を覚ました。突然の訪問者に、寝起きの目を動かして状況を確かめているようだった。
「朝陽、ごめん心配で」
「ちょっと涼香、どいて」
一度立ち上がった翔吾が涼香の前に割り込んで、朝陽に付箋とペンを差し出した。分かってしまう。
「分かったか」
分かったよ。それが声になっていたのか。何かを書いた朝陽が、こちらに文字を見せる。
『何しに来たの』


朝陽は身体を起こして、眠る直前に床に投げたスマートフォンを拾い上げた。紙に書くよりも文字を打つ方が早い。
『それは嘘、ごめん』『翔吾から聞いた?』
「自分で話せよ」
口にした直後に溜息をついた翔吾が、朝陽が投げ出したペンと付箋を手に取ろうとする。朝陽は久しぶりに口元を緩める。 
『今のは分かった』『自分で話すよ』

あの日、4人が集まった居酒屋で、朝陽は急に耳が聞こえなくなった。世界から音が消えると、変わらないはずの視界までもが遠くに感じられた。
『病院には行ったよね』
涼香の文字をちらりと見て、俯きがちに首を振る。周りの音が聞こえない中、外出して病院に入っていくことはどれだけ怖いだろう。外と関わりを持つことの全てが億劫に感じて、朝陽はずっと部屋に閉じ籠っている。
涼香が誰かに電話を掛け出した。目の前で口を動かす彼女の声を見つめようとするが、何も分からなかった。
『病院に聞いた。受付時間のギリギリが空いてるって。』『一緒に行くから、準備して』
見すぎ、と涼香が笑った。多分。


翔吾は、涼香と彼女が何度も通うという喫茶店にいた。悪天候の夕方、店内に他の客はいなかった。
「今日は割り勘ね」
当たり前だ。さすがに奢られる理由が一つもなかった。

タクシーを呼んで3人で向かった病院の待合室で、朝陽は翔吾たちを帰した。遠慮をしている様子はなかった。家を出たときは怯えるように傘を握っていたが、病院に着いたことで腹をくくったのかもしれない。本当に感謝している、と文字を見せて頭を下げる朝陽に頷いて、翔吾は涼香と共に病院を後にした。

目の前でココアを混ぜる涼香に、これ以上の情報を今日伝えるべきか。涼香の疲れた様子に一瞬迷いが生じるが、朝陽の家に向かう途中に約束してしまった。今日のうちに片付けてしまおう、とコーヒーカップを置くと、思ったよりも大きな音を立てた。
「朝陽は知ってるんだ」
スプーンとカップがぶつかる細い音がして、涼香が顔を上げた。
「何を」
「涼のこと、本当は知ってたんだよ」
何故か自分が責められているような気持ちになって落ち着かない。
涼香の目が鋭くなる。
「話したの?」
「まさか、勝手に話すかよ」
涼は、なるべく病気のことは誰にも話さないと言い続けていた。同じゼミの朝陽に対しても。
「夏に病院で見たって」
だから、偶然だよ。
「涼は知っているの」
息をついて、涼香が続ける。
「朝陽が知っていることと、朝陽の耳のことと」
「知らない。涼は自分のことだけを考えていたらいい」
涼香が顔をしかめるが、先程よりも表情は明るい。
「翔吾だけ全部知っていたってわけ。何か悔しい」
翔吾がコーヒーカップを手に取ると、涼香もカップを両手で囲む。
今日すべきことは、全て終えた。

「朝陽のお香の匂い、あれいいよね」
何のことだと涼香の顔を見ると同時に、朝陽の部屋にあった線香のようなものを思い出す。確かに、あの部屋は朝陽の匂いが強くしていた。
お詫びに奢ってよ。席を立ちながら笑顔でねだってくる涼香は、可愛くていい子だと思う。

8


キャンパス内のベンチに、涼が座っていた。隣では翔吾が横になっている。どこでも寝ることができる翔吾が朝陽には羨ましいが、無防備にも大学の屋外で寝ようとは思わない。

朝陽は声をかけない。声をかけられなかった。この後は家に戻るだけだったため、立ち止まってしばらく涼の様子を眺めていた。 
静かなその場所で、涼は自動販売機のボタンが順番で光っていくのを目で追っていた。
優しい人だ。
彼は我慢ができる。いくらでも待つことができるし、きっと自分以外の存在を許す。それを思うと、愛おしさとやるせなさが朝陽を襲う。
涼と話がしたかった。


『息抜きでお茶付き合わない?』
メールを送信して画面を消すと、涼香はコーヒーカップを見下ろした。最近新しくできる店は、どこもコーヒーが薄い。涼香が頼んだのは中煎りだったが、浅煎りはどんな味がするのだろうか。
『それ息抜きじゃないだろ。今福島にいる』
何だ、つまらない。今日は翔吾が捕まらなかった。コーヒーをもう一口だけ飲むと、涼香は席を立った。


秋の東北は、朝陽が普段暮らす土地よりも涼しかった。秋とはいえ暑さが残る都会と異なり、ここは熱が去ったような風が吹く。
観光地を避け、朝陽は古い民家がポツポツと見える場所を歩いていた。
緯度が変わると、時間ごとの空の色がいつもと違っていた。当たり前のことだが、朝陽が一番感動したことだった。

この寒さがあのまちに訪れるまでに、間に合うだろうか。秋の終わりと涼の手術はもうすぐだった。

9


11月2日。涼の手術日が伝えられた。つい先週に涼は入院し、井ノ原ゼミは3人となった。涼は病室でも論文を進めているというが、11月は身体が動かないのではないだろうか。そう心配する翔吾も人のことを言っていられない。卒論というのは必ず行き詰まるものだと、昨年の先輩に聞かされていた。事実、翔吾は今の研究をまとめられる自信がまるでない。 

机を指で叩く音に正面を向くと、荷物をまとめた朝陽と目が合った。綺麗な顔がにやりと口を歪めると、机の上で画面が表示されたスマートフォンを滑らせた。
「おい」
もともと謙虚さとは無縁な奴だったが、文字で話すようになってからも朝陽は図々しさが増した気がする。いつもの調子と言うべきか、元気になったということだろうか。
『きんもくせい咲いた』
朝陽のスマートフォンで彼が打った文字に続ける。
『俺が誘うの?図書館に本の返却、2時にそこらへんで』
同じように滑らせようとして、ふと文字を加える。 
『ポエム?』
朝陽は画面を確認すると、こちらを見ることなく研究室を出ていった。
何て奴だ。翔吾はポケットから自分のスマートフォンを取り出した。


朝陽は、翔吾と涼香と共に大学近くの公園にいた。彼らにとって、甘い金木犀の香りは涼香のものだった。

「金木犀の季節に生まれたから涼香、気に入っているの」
昨年の今頃、涼香は金木犀を見つけると自分の名前について話した。遠回しに誕生日をアピールしたのかと思ったが、涼香は物はいらないと言う。
「歩いていて金木犀を偶然見られたら、それが一番嬉しくて」
朝陽たち男3人は約束をした。来年、金木犀の花を見つけたら涼香をそこに連れていく。

「似合わないな」
短い言葉なら口の動きを読み取れるようになった。涼香が翔吾を軽く睨んで言う言葉も。
「分かってる」
『今なら俺の方が金木犀似合うんじゃない?』
分かってる。朝陽がからかうと、涼香がこちらを見て繰り返す。

涼香は、彼女の友人たちよりも頭一つ分背が高い。顔つきはそこまで大人びていないが、明るくても冷めたところのある涼香は、周りから姉のように慕われていた。
この一年と少しで、朝陽は彼女の様々な髪色を見た。就活期間の黒髪を経て、今は明るい稲のような色をしている。一度そう言うと、涼香に怒られてミルクティーの色だと教えられた。
その髪の毛は胸元でぱつっと揃っている。前髪も同様に、厚めに切り揃えられていた。
大人っぽくも子どもっぽくも見える。
涼香の魅力はそこにあるのかもしれない。

オレンジ色の金木犀を背景に、ミルクティー色の涼香が笑っていた。カメラを向けて写真を何枚か撮る。笑いがこみ上げる。
『ちぐはぐ、子どもみたい』
『なら写真を見せてよ』
カメラを奪われ、涼香が写真を確認する。他のデータを見られないように、手を伸ばしてカメラモードに戻すと、涼香がこちらにカメラを向ける。
こっち、と金木犀の前に誘導されると、3枚ほど写真を撮られた。


「嫌味なほど絵になる」
カメラを覗き込みながら呟く涼香。翔吾は笑ってしゃがみ込むと、下から涼香を見上げた。背が高い翔吾にとって、涼香はいつでも小さくて可愛い。
「涼ちゃんの方が可愛いって」
「ばかにしてる。もちろん朝陽みたいに綺麗じゃないけどさ」
涼香がカメラを下ろすと、その目がこちらを向いた。
二重に隠れた切り傷の跡を、翔吾は久しぶりに近くで確認した。

刃物が苦手だと涼香が話したのは、かなり前だった気がする。真面目な涼香が酒を飲んでいた記憶があるから、二年も経っていないのかもしれない。
「子どものころにお皿を落としてね、破片が刺さった指で焦って顔を触っちゃったの」
左目を閉じてみせると、二重の線に重なるように目尻に傷の跡があった。メイクをしているとほとんど気が付かないが、確かに左右の目で印象が違っている。
「アイラインだった?そんな感じに見えて俺は好きかも」
何それ、涼香が笑うと、傷跡は見えなくなってしまった。
「確かに、左目に合わせて右のアイラインを引いてる。左の方が目力が出ちゃうんだよね。でも」
席で笑い合う学部生をちらりと見ると、涼香は水が入ったグラスを指で弾いた。そのままグラスを遠ざける。
「包丁とか、割れたガラスとかがずっと怖いんだよね。先端恐怖症?ではないんだよ、刃物が嫌なの」
「トラウマになったか」
「ガラスの音も嫌」
厨房で瓶同士がぶつかる音が耳に入る。
「お酒を飲むのは楽しいけど、お店で飲むのは向いていないかもしれない」
乾杯できないしね。
それ以降、翔吾は涼香や涼を頻繁に家に呼ぶようになった。

「貸してみ」
涼香の手からカメラを奪うと、彼女の顔をアップに写真を撮った。明るい髪の毛も、目尻の傷跡も、ほんの少し写り込む金木犀も。
「ちゃんと可愛いって」
お香の匂いを鼻に感じると、朝陽の顔が近くにあった。
笑ってカメラを返すと、朝陽は不機嫌そうにデータを確認する。
『どうよ』
不機嫌な顔がますます険しくなる。朝陽の照れ隠しはとても人間らしい。

10


病院特有の匂いに包まれながら、朝陽は病室の扉の横に立っていた。中の様子が気になったが、開けっ放しの入り口から中を覗くことはしなかった。

『やっぱり俺はいい』
エレベーターを降りて涼がいる階に着いた途端、心臓の音が急にうるさく感じられた。
話すのか。
まだ話せない。
『分かった。顔だけでも見ていったら』
翔吾は無理強いをしなかった。涼香に目配せすると、二人は涼がいる部屋に歩いていった。

『どこ?もう外に出た?』
マナーモードにしたスマートフォンが振動する。翔吾だった。
動きを止めた朝陽は、一瞬迷った後に返事をする。
『扉の前まで来たけど、もう帰る』
悪い、と加えると、送信してエレベーターの方向へ戻っていった。


世間がハロウィンで盛り上がる中、涼香たちは涼がいる病室で穏やかな時間を過ごしていた。
明後日は涼の手術が予定されている。ゼミのメンバーで見舞いに訪れたが、涼に会う手前で朝陽は帰ってしまった。
「卒論は、少しは進めてるの?」
そう尋ねると、涼はベッドの横の台からパソコンを取り上げて、開いた画面をこちらに向けた。見慣れた青と白の画面に、涼香は呆れのようなものを感じた。
「お前が一番進んでるよ」
「時間だけはあるからね」
「翔吾が一番進んでない」
直接井ノ原先生に会えない中で、よくもここまで進めたものだ。もしかしたら術後のことを考えて、動けるうちに頑張っていたのかもしれない。
「朝陽君は」
そろりと尋ねる涼に、彼は忙しそうだからと返す。嘘をついたことに多少の罪悪感を感じるが、今の涼に心配事を持ち込みたくなかった。

扉がノックされると、事務員のような格好をした人が顔を覗かせた。手に小さな紙袋を持っている。
「今、あなたたちと同世代の男の子が渡してほしいって。知り合いらしいけど、受け取ってよかった?」
あっと驚き、涼香は手で口元を隠した。頬が緩んでいくのが分かった。
白い紙袋に控えめに印刷された赤いロゴに見覚えがあった。
「妙に洒落てるけど、だれ、」
見当がついた翔吾が涼香を振り向く。涼香にはすぐ分かった。
真似事でも頑張っているあのカフェは、手土産用の焼き菓子がおいしいと有名だった。


朝陽には会えなかった。
残念だったが、涼香と翔吾が会いに来てくれたことは嬉しかった。
途中で受付の人が渡してくれた差し入れを二人に食べてもらいながら、涼は明日のことを考えていた。
翌日に手術を控えた自分は、一体何をすべきだろう。
当日は眠っているのだから問題なかった。今日は久しぶりに友人と話して、気持ちが少し楽になった。
明日は。
一人で、何を考えてしまうのか。
甘いバターの匂いを認識しても、涼の頭では硬い声が広がっていく。

「手術自体は事例が多い一般的なものです」
その先生は、言いづらいことや大事なことを話す前には、眼鏡を少しずらして下げ、すぐに元に戻す。
「最近、体力が落ちたでしょう」
眼鏡を触った左手が下げられるのを目で追う。そこから顔を上げられなかった。後ろに座る母の顔も怖くて見られない。
何とか口角を上げると、息を吸って明るい声を出す。
「大丈夫です、頑張ります」
何を頑張ればいいのだろう。

「会いたかったな」
はっと気が付くが、声に出てしまっていた。4つの目がこちらを見つめていることに気まずさを感じ、笑って誤魔化す。
「朝陽君に。あの朝陽君がお見舞いに来てくれたら、びっくりして結構嬉しいかも」
目を見開いていた涼香が表情を緩める。
朝陽に会うためには、涼香や翔吾とまた会うためには、涼は頑張らなくてはならない。

11


翌日、朝陽は人気のない階段を上っていた。廊下よりは薄い病院の匂いに甘えるように、ゆっくりと階段に足を乗せていく。腕時計を確認すると11時過ぎだった。
ここまで来ても迷いを断ち切れなかった。翔吾か涼香に連絡したい気持ちを抑えながら、朝陽は涼が寝ていることを祈った。

病室のドアは閉まっていた。緊張感が跳ね上がり、ノックをするまでにひどく時間を要した。
中からの返事はない。
そっと扉をスライドさせると、目を閉じた涼の顔を見つける。ほっとしてベッドに近付くと、朝陽はバッグを涼のパソコンの隣に置いた。
少し痩せた。それでも、まずまずの顔色をしていることに安心する。

バッグから紙とペンを取り出す。旅先や買い物のときに使う付箋ではなく、ここに来る途中にコンビニで買ってきた便箋。
しばらく言葉を考えるが、いざとなると書きたいことが何なのか分からなくなる。つまり、つまりは。

朝陽は便箋とセットの封筒に一枚の写真を入れた。二つ折りにした手紙を続けて入れると、バッグを手に取ると同時に台に封筒を置く。
スマートフォンからファイルを開くと、少し考えて大学のメールアドレスを探す。メールには一言も文字を打たずに、朝陽はファイルを送信した。
間に合った。


気持ちを紛らわせるために本を読んでいたら、いつのまにか眠っていたらしい。気持ちのよい午後の光の中、しこりのような不安を見つける。
手を伸ばしてパソコンを持ち上げると、白い紙のようなものがあった。手に取るとシンプルな封筒だったが、何も書かれていない。
病院からのものだったら、今は見たくなかった。
パソコンを起動し、まずはメールを確認する。
『二宮朝陽 無題』
涼は驚いてメールを開いた。誤って一番上に表示された大学からのお知らせを開いてしまい、指先が焦りだす。

メールには何も書かれておらず、ただファイルが一つ添付されていた。容量の大きさが気になったが、それよりも先に指がファイルを開けていた。

写真。写真、写真。
軽井沢だ。ここは知らない。群馬の温泉。ひまわり。どこかのカフェにいる涼香。田舎の風景。涼香と金木犀。金木犀、翔吾と涼香、朝陽、涼香。

膨大な感情に一度目を閉じると、一つの疑問が生じる。いくらか冷静になった涼は、思い出したように手を伸ばして白い封筒を掴み取った。
写真があった。たった今、ファイルの中で見た水辺の写真と同じものだ。
朝陽君。
便箋も取り出すが、一瞬、こちらも何も書かれていないように見えた。ほとんどが余白になっている一枚に、知った字を見つける。

『軽井沢はよかった』

せめて真ん中に書くとか、あるだろう。声を出して笑うと、一緒に涙がこぼれた。

12


研究を進めていると、あっという間に11月が過ぎていく。テレビからはクリスマスの話題が聞こえだし、昨日押し入れからブランケットを取り出した。
涼香は伸びをすると、パソコンを閉じて窓を開けた。固まった身体に冷たい空気が気持ちいい。
キッチンへ向かい、紅茶を淹れる準備をする。お湯を沸かしながら生姜を薄く切ると、大好きな匂いがすっと鼻に届く。
リビングの時計を見ると、家を出る時間まで30分しかなかった。カップをシンクに置くと、椅子にかけてあったニットを被ってメイクを始めた。


丸椅子を引き寄せると、手に椅子の脚が床に引っ掛かる感触が響いた。椅子に腰掛けた朝陽は、目の前からの視線を感じながら、一度目を閉じる。
今日、やっと涼と話す機会を得た。できれば、ゆっくりと話がしたかった。バッグから大きめの紙とペンを2本取り出し、サイドテーブルに置いた。
『いろいろ話したいことがある』『まず、俺聞こえないから』
朝陽が普段使うボールペンは涼に使わせるつもりで、朝陽は唯一持っていたカラーペンを使う。
涼がペンを握った。
『お待たせ』『パソコンは使っていたけど、文字を書くのは久しぶりで変な感じがする』
『元から綺麗だから別に気にならない』
『朝陽君、字が綺麗になった』
嫌味かと涼に目を向けても、穏やかな顔は変わらない。
『聞くよ』
涼に会えたら何を話すか、ずっと考えていたつもりだったが、本人を前にすると気が重くなった。
『頑張って時系列で話す。途中で挟んでいいから』
涼が頷く。


言い出しを、いや書き出しを迷うように、朝陽のペンが紙の上で止まる。水性ボールペンの先からインクが広がり、水色のシミができていた。
『夏休みに、軽井沢に行った』『帰りの新幹線で、右耳がやられた』
朝陽は苦笑する。
『ちょうど寝不足で耳鳴りがして。ださいけど』『右が聞こえなくなった』

朝陽が8月にゼミを休んでいたのは、確か軽井沢に行った後だと言っていた。では、大学で話していたとき、すでに彼は片耳の聴力を失っていたのだ。当時のことを思い出そうとするが、特に変わった様子がなかったために浮かぶものがなかった。

それから、朝陽はこの数カ月の行動について説明を始めた。
『帰ってから病院に行って、そこで涼を見た』
驚くが、おかしなことではない。夏は何度も病院に通っていた。
『待合室のテレビを見てたんだよ。観光地の映像を、お前は羨ましそうに見ていた。俺にはそう見えた』
覚えがあった。まさか見られていたとは思わなかった。
『その後入っていったところを見て、何となく』
そこで涼の体調を察したらしい。
『翔吾か涼香に聞いた?』
『翔吾に、家に押しかけて聞いた。ついでに俺のことも話して、』
朝陽はペン先で紙をゆっくりと二度叩くと、一気に文字を書いた。涼はその文字をただ見つめた。
『俺は何も知らない振りをする。俺が知っていることは涼香には教えない。俺の耳のことは、涼には黙っておく。』
ああ。この夏から秋の出来事が、涼の胸に一気に押し寄せる。
『翔吾にはかなり迷惑かけた』
いつだったか、涼は翔吾に気遣い野郎と言われたことがあった。お前がそうやって優しそうな顔をするから、と眉を顰められた。
『翔吾は、一番の気遣い野郎だね』
朝陽が小さく笑う。ここへ朝陽が来てから、一度も彼の声を聞いていなかった。それは少し物足りなくもあったが、ちゃんと表情や感情があると分かると安心した。

そこで一つの疑問が生じた。片方の耳が聞こえなくなった朝陽。しかし、涼は朝陽の言葉を待った。
『酔った翔吾、俺らのこといろいろと話すんだよ。気を遣いすぎだとか、もっとストレートに言えとか』
『想像できる、嬉しいね』
『俺も大事にしたいと思った』
朝陽が大事にしたかったもの。それはきっと、研究室の4人がそれぞれ願っていることだ。
『涼にはさっさと元気になってほしい。涼香はわがままでいてくれた方がいい。耳のことは話したけど』
朝陽が手を止めて、紙を裏返した。筆談の痕跡が翻っていく。


どちらを先に話そうか。
一点だけインクが滲んだまっさらな紙をぼうっと見つめながら、朝陽は涼の声が聞きたいと思った。穏やかで優しい声を聞いて安心したかった。
『俺は器用だ。卒論の息抜きとして旅行ができる』
もっと別の言い方がないのだろうかと思うが、どうしても朝陽の言葉は態度が大きくなってしまう。
『手術のことはその頃は知らなかった。それでも、涼にいろんな場所の景色を見せたくなった』
『あれは全部一人で?』
『俺が勝手に始めたことだから。二人には特に言ってない。楽しかった、一番は軽井沢だけど、福島もよかった。田舎の』
そう、東北の旅は朝陽にとって特別なものだった。何も聞こえない中、一人で遠出をすることに初めは不安を感じたが、田舎道を歩いていると心が静まっていくのを感じていた。
『福島に行く前に』
4人で集まった居酒屋で、とは言えなかった。涼が悪いわけではないのに、涼がいた場所であれが起きたと言うことに抵抗があった。
『左の耳も急に聞こえなくなって、さすがにへこんだかな』
朝陽君、涼はきっとそう口にした。
『4人で会ったときかな』

朝陽は全身の力が抜けていくのを感じていた。いつのまに、どうして。
焦りはなかった。もう終わったことだ。
『どっちに聞いた?』
『聞かないよ。何となく、病気になると人は聡くなるんだよ。でも、あの日は気が付かなかった』
『それならいいんだ』
あの時期に、涼に余計な心配をかけなかった。それで朝陽は満足だった。
『涼香は何も知らなかった?』
『片耳が聞こえないことはすぐ話した。でもその後は言えなかった』
結果的に一番格好悪いかたちで知られることになった。涼香に関しては、話さなかったことでむしろ困らせたかもしれない。涼香にわがままでいてほしいというのは、朝陽のわがままだ。
『筆談ができるまでに、どれくらいかかった?』
『俺、字は書けるよ。上手くないけど。スマホもある』
『気持ちのこと』
そこを突かれると気まずかった。大きな病気と闘う涼と比べると、自分が取った行動は何て甘えていたのだろう。
『しばらく家にこもってた』
「こもる」の漢字が思い出せずに結局は平仮名で書くと、涼が字に線を引いてご丁寧に『籠る』と書き加えた。一瞬の間の後に二人して笑う。

『気に入った写真はあったか』
話を戻すと、涼は手で待ってと伝えてパソコンに手を伸ばす。朝陽がパソコンを渡してやると、涼はデスクトップのファイルを開いた。
『毎日見てるよ』
『さすがに嘘だ』
『嘘じゃないよ、暇だから』
それこそ嘘だ。入院、治療、卒論、大学院への進学と、今の涼は誰よりもハードな生活を送っている。
これ、と涼が画面の中の一枚を指さした。朝陽は顔をしかめる。
『可愛いよね。やっぱり素が出るのかな』
『俺にそんな顔は見せない』
決して上手くはないが、翔吾が撮った写真は確かに魅力的だった。朝陽はこんなに涼香に近付けない。
『翔吾ね。朝陽君が写ったこっちもいいよ』
『撮ったの俺じゃないけど』
涼が楽しそうに笑う。痩せた頬はこちらを不安にさせるが、左のえくぼが変わらないことに安心する。

『これ、農学部だった?』
涼が示した写真は、眩しさを感じるひまわりの写真だった。頷く朝陽に、涼が微笑む。
『朝陽くんの影が気に入った。こうやって写真を撮ってくれていたんだって分かって、何か嬉しい』
何だそれ。朝陽は可笑しくなってきた。さっきから、遠くに出かけた日と関係のない写真ばかり。
『そんなのでよかったの』
『旅行の写真も嬉しいよ、ここにいる間楽しませてもらった』
本当に、と唇が動く。
腕時計を確認すると、そろそろ時間切れだった。
朝陽は『また来る』と書き残して立ち上がった。
『いいの?』
目を見開く涼に書いたばかりの文字を指で叩くと、涼は頷いて手を振る。それに朝陽は曖昧に手を上げて返した。
病室を出ると、廊下の先に髪の毛まで冬色になった涼香が見えた。


涼香は、病室から歩いてくる朝陽を見て驚いた。これから面会できるというのに、どうして。翔吾だってもうすぐ来るはずだ。
『もう帰るの、いつ来たの?』
『結構前に』
朝陽がスマートフォンに何かを打っていく。久しぶりに4人で会えると思っていたのにと、不満気な気持ちで朝陽を見上げると、彼が画面をこちらに向けた。
『今日は話せば。俺は俺で話はしたから、また今度』
朝陽が気を遣った。それが嬉しくて、涼香は急いで言葉を返した。
『忙しいからすぐに集まれないのに』
苦笑する朝陽を残して、涼のいる部屋へ向かっていく。翔吾は忘れずに来るだろうか。

13


年の暮れぎりぎりまで、大学4回生は忙しい。明日も明後日も、年が明けてもパソコンと向き合わなければならない。
今日だけは、と気が済むまでベッドから出ないつもりだった。大学に行かない日が続くと、下手をすれば一日中だらけてしまう気がして、一応は毎日アラームをセットしている。
翔吾は着信の音に目を覚ました。最近は着信自体が少なかったため、驚いて飛び起きると一気に覚醒した。冷たい空気に手を伸ばすと、画面に表示された名前に動きを止めた。
「え?もしもし」
人が動く音がしたと思えば、そのまま通話が切れる。意図的に切ったようだ。スマートフォンを耳から離すと、すぐに通知が届いた。
『間違えた』『少し話せる?』
外で会うのか、それともこのままやり取りをするのか。翔吾は寒さが嫌いではないが、今日は家を出る気分ではない。
『何?こっち来る?』
二宮朝陽は可愛げがない。
『10時半に』


身体が小さくなったと感じる。頭と指先は使っているが、確実に痩せて体力が落ちている。今、風邪をひくなど冗談でもない。涼は、先日涼香からもらったニットのカーディガンの前を合わせた。部屋はそこそこ暖かくしているが、さっきから寒気に似た寒さを感じる。

『来年もよろしくな』
昨日、朝陽からのメールを見て涼は首を傾げた。彼は年末の挨拶をするようなタイプではない。もちろんそんなときがあってもよいのだが。『よいお年を』と打つ間に次のメッセージが届いた。
『あと2年な』
目を閉じると、寂しさから解放されるのを感じた。涼は一人ではない。
『じゃあ、頑張って早く大学に顔を出せるようになるよ』
返事はなかった。涼は、再びよいお年をと打つと、送信してスマートフォンを手放した。


『院にいく。翔吾と涼香は社会人の先輩だ』
進学への準備は当然夏ごろから進めていた。黙っておくつもりもタイミングを迷ったつもりもなかったが、各々の卒論が忙しいために言いそびれていた。さすがに今年中に言っておこうと、今日になってふとそれぞれに連絡を取った。
朝陽は久しぶりに翔吾の部屋にいた。こんなに寒いのに、この部屋には暖房器具の類が見当たらない。当然、床がひんやりとしてどんどん身体が冷えていく。
『いいんじゃない。何となく知ってたけど』
驚いて翔吾の顔を見つめると、翔吾は立ち上がってキッチンへ向かう。湯を沸かしていたらしい。

不思議な部屋だ。古いアパートはどこか薄暗く、壁の色も中途半端だ。こだわりのない部屋かと思えば、物は少なく床はきれいに掃除されている。
目の前に黒いカップが置かれた。知った匂いに溜息をつく。
『何で二人でココア飲むんだよ』
『一人だとなくならないから、協力してよ』
『俺だって一人だ』
涼香だ。クリスマスに、生姜の入ったココアを二人してもらったのだ。確かに風邪の予防にはよさそうだとちょこちょこと飲んではいるが、一人暮らしだとそうはなくならない。味はおいしい。
『井ノ原先生か』
『直接は聞いたことないけど、たまにこそこそやってるから』
『涼香も?』
『多分。でもちゃんと教えてやれよ』
いつもよりココアの味が薄い。カップを回すと、底に茶色の塊が見えた。
『それだけ?』
翔吾も朝陽も暇ではない。頷くと、朝陽はカップを置いた。
『一応報告したかったから。悪いけど残す』
ココアを指さすと、床に畳んで置いてあったコートを手に取る。表面がひんやりと冷たくなっていた。
振り返ると、翔吾が2つのカップをまとめて立ち上がるところだった。

14


寒すぎる。しかし、涼香は開放感でいっぱいだった。疲れ切って回らない頭で、こういうときは解放感と開放感のどちらが正しいのだろうかとぼんやりと思う。
ベッドに倒れ込むと、軽く頭痛がした。昨年からブルーライトカットの眼鏡を掛けたり、ルテインのサプリを飲むようになったが、目の疲労から完全に免れることはできなかった。目を閉じるが、すぐに起き上がってクローゼットを開ける。
甘いものが食べたい。一度思うと我慢ができなかった。久しぶりに外でケーキか何かを食べよう。最近は履いていなかったスカートを手に取ると、気持ちが高まっていくのを感じた。

いつか翔吾とも訪れたお気に入りの喫茶店に入ると、ドアに付いたベルの音とコーヒーの香りに出迎えられた。何度か話をした店員が気が付いて、笑顔で挨拶を交わす。寝不足の顔はメイクでは隠れなかったが、ここへ来るとそんなことはどうでもよくなっていた。
二人用のテーブル席に座ると、ポップに書かれた新しいメニューが目に留まった。長年愛されるメニューや定番のものが多いこの店では珍しい。数量限定の柑橘のパイ。想像すると、爽やかな柑橘の味が魅力的だった。これとコーヒーを頼もう。
「このパイとブレンド、お願いします」
「ああ、ごめんなさい」
心の中でお姉さんと勝手に呼んでいる店員が、申し訳なさそうにポップを回収する。
「ちょうど今日の分がなくなって。久しぶりに来ていただいたのに、すみません」
「いえ、ちょっと遅い時間ですもんね。甘いものかさっぱりしたものが食べたくて。アップルパイにします」
「ありがとうございます。3月まではメニューに置いておくつもりですので、よかったらまた召し上がってみてください」
お姉さんが去ると同時に、カウンターからお待たせしました、と声が聞こえた。柑橘のパイとブレンドコーヒーです。
あの人で最後だったのかとカウンターに目を向けると、一番端の壁に近い席に細身の背中が見えた。

メールを送ると、カウンターに座った男が振り向いた。軽く眉を上げるが、特に驚いた様子はない。
朝陽とは、年末に進学の報告を受けて以来だった。顔を見たのはそれよりも前、クリスマスまで遡る。
そっちに行っていいかと指をさすと、朝陽は首を振って前を向き直した。そのまま無視をされるのかと思えば、朝陽は荷物を持ってこちらに移動してくる。その様子に気が付いた若い店員が、トレーを持ってカウンターのケーキとカップをこちらへ運んでくれる。
『珍しいね』
『昨日卒論提出したから、気分で』
『ここ、私がよく行くところだよ』
『涼香にも何度も行く店があるんだな』
にやりと笑うと、足元の紙袋に目を落とす。正方形の小さな袋には高価なものが入っているように見えた。
『形だけ補聴器作ってきた』
形だけ、というと周囲が一目で分かるようにということだろう。見せてと手を差し出すと、白い箱が机の上に乗せられた。中から現れたのはシルバーの補聴器だった。
『やっぱり高いの?眼鏡だと度が入っていないと安かったりするけど』
『機械だから高い』
『朝陽なら黒にするのかと思った』
『さすがに主張しすぎ』
お待たせしました、と声が聞こえてお姉さんが涼香の前にケーキの皿を置いた。何度か頼んだことのある手作りのアップルパイは、果物などの盛り付けはなく、センスのいい皿にパイだけが載せられている。
「あれ、アイス」
「たしか卒業論文を頑張っていたんじゃないかなと思って、甘いものを足してみました。余計じゃなければ」
「嬉しいです、ありがとうございます」
アップルパイの横にはバニラアイスが添えられていた。彼女は、涼香が以前同じものを温めて出してもらったことを覚えていたようだ。柔らくなったパイの横で、アイスの一部が溶け出している。
「いただきます」
早速フォークとナイフを手に取ると、ほかっとしたアップルパイを口に運ぶ。一瞬で優しい甘さに満たされる。
朝陽がふっと笑った。今度はパイ生地にアイスを絡めていると、朝陽が画面を差し出す。
『コーヒーより先にケーキ、まじで子どもに見える』
むっとするが、無視してケーキを頂く。それに、いつもはコーヒーや紅茶から飲んでいる。今日は特別なのだ。

器用に切られていく黄色のパイを見ていると、涼香も柑橘のパイを食べたくなった。今度、きっと食べることになるだろうが、目の前にあるのだから。
『一口ちょうだい』
朝陽が差し出した皿を引き寄せ、お礼に涼香の皿を渡そうとすると、朝陽は不自然に顔を横に向けていた。
『潔癖だっけ』
『食べていいから』
そんな嫌そうな顔をされると、どこを突いていいのか。一口食べて皿を返すと、朝陽は神経質そうにケーキを確認する。それでもとりあえず感想を述べることにする。
『普段食べる柑橘よりいい種類だよね。さっぱりしておいしい』
頷いた朝陽が、しれっと涼香が食べた箇所を除いた。その様子に涼香は呆れるが、こちらはもらった身だからと余計なことは言わないでおく。
既にミルクを入れたコーヒーに残りのミルクを加えると、朝陽が思いきり顔をしかめた。

⑵ 
ぼんやりとしていると、ノックの後に扉が開いた。普段より荒い音にそちらを向くと、翔吾がベッドに近寄って丸椅子に座る。彼の周囲にはひんやりとした外の空気が漂っていたが、翔吾はそこまで寒そうに見えない。
「来てくれてありがとう、でもドアの開閉は静かにね」
「普通に開けたらああなるんだよ」
翔吾が手に持った袋を布団の上に置いた。涼がそれを手に取る前に、彼自身が中身を取り出す。プラスチック製の袋の音が耳にうるさい。
「なんと、俺本屋に寄ってさ。いい本持ってきた」
「珍しい、でいいの?卒論を書く間は行かなかったの」
「その言葉はしばらく言うなって」
彼のことだ、必要以上に熱心に研究をしていたわけではないのだろう。涼自身もそうだが、卒論に対して「解放された」という気持ちが強そうだった。
「小説?しかも上下巻だ」
どんな本だろうと背表紙を見ると、どちらにも穏やかではない言葉が並んでいる。
「なかなか闇が深そうだけど、おすすめのポイントは?」
「あー、俺後ろのあらすじ見たことないわ」
涼には信じられない。本を選ぶとき、背表紙を確認しないのだろうかと思って、苦笑する。そんなに本を読まないのなら、あり得ない話ではない。
「病人に人が死ぬ話はやばかったか」
「それを聞くのが一番失礼。俺、死ぬつもりないんだけど」
翔吾は気を遣うが気が利かない。
「まあ、そういうの気にしないよ」
「焦ったわ」
翔吾が鞄から何かを取り出す。たった今涼に渡した本と同じものが翔吾の手にあった。一冊だけだから、上下どちらかだろう。
「それは、」
「俺の。読んだことあるんだよ」
「気に入ってるんだ」
「まあ。珍しく頑張って読めたし」
「貸してくれるんじゃなくて、わざわざ新しいものをくれるんだね。だったら結構気に入ってるでしょ」


「あげられないから」
翔吾は、涼の手元の本を見つめた。こいつは、この本をどんな風に読むのだろう。自分より頭のいい奴に本をあげるのは怖い。初めて知る感情だった。自分にとっての大事な一冊を、つまらないと言われたら。それでも、涼に知ってほしい。
「俺の、モチベーション?そんな感じ」
「家族愛とか友情がすごいとか」
愛か。
あらすじと少しの情報だけで本の内容を見抜く涼には、やはり大したことのない本なのだろうか。
「あい、ね」
翔吾にとって、それが愛だという自覚はなかった。情があるとは思っていたが、こうやって人から指摘されると、もしかするとそれは愛だったのかもしれない。
「涼」
涼が本から顔を上げる。涼の目は22歳になってもまっすぐだ。翔吾には少しだけ眩しい。
「出てくる人とか、関係とか、何ていうか全部がモチベーションだった。この半年のな」
顔が熱くなっているのが分かる。翔吾は顔が赤くならないタイプだが、恥ずかしいことには変わりがない。
「まあ、読めば」
「ありがとう。そんなに特別な本なら、読んだら感想言うね」
「いいって」
じゃあ、と鞄を持って立ち上がる。この後も行く場所があった。
「ねえ」
声に立ち止まって涼を見下ろすと、涼が目で本を指してくる。
「おもしろかったら朝陽君に貸してみるね」
またこれからも会うし、と笑顔を見せる。
翔吾は止めようとして、それが不自然なことに気が付く。朝陽が知ったら鼻で笑うだろうが、涼の優しさを予想できなかった翔吾の負けだ。
「興味ないんじゃないの」
今度こそ病室を出ていく。
ありがとう、と背中に声が届いた。

エレベーターの中で、翔吾は本を取り出す。鞄の中には文庫本が3冊入っていた。厚みがあるせいで鞄が少し膨らんでいる。新品の本に袋はなかったが、問題はない。
朝陽にメールを送る。不発の方が今はありがたかった。
『今どこ?』
病院を出る寸前に返信が来る。
『家』
翔吾は溜息をつくと、『渡すものがあるから、今から行ってすぐ帰る』と返す。そうしながらも涼香に渡してしまおうかと考えがよぎるが、涼香こそ興味がないだろう。
『何が?』
相変わらず短くて素っ気ない文章に舌打ちする。何って。
『プレゼント』
スマートフォンをしまった後に通知の音がしたが、翔吾は確認しなかった。


よう。ドアの外には、手を上げた翔吾が立っていた。
プレゼントを渡すと言ったきり返事のなかった翔吾は、少し落ち着きがないようにも見えた。もっとも落ち着かないのは朝陽も同じで、プレゼントに何の心当たりもない。
翔吾の姿を見るが、いつもの鞄以外に荷物はない。朝陽が訝しげな顔を向けると、翔吾は鞄から文庫本を取り出した。とんでもない厚みに驚くが、よく見ると同じタイトルの上下巻だった。
何も言わずに本を渡される。とりあえず受け取るが、さっぱり意味が分からない。やばいものが挟んであるかもしれない。
『プレゼント?』
翔吾が頷く。
『ふざけてんの』
『俺の大事な本だ』
『それをくれるの?』
『それは新しい。涼にも渡したけど、涼ちゃんにはあげてない』
『何で』
翔吾がにやりと笑う。翔吾らしい、軽くてどこかかっこいい笑い方。
『読めば分かる』
踵を返して立ち去る翔吾の耳が少し赤いことに気が付いた。
表紙に目を落とす。女の子とモチーフ。
よく分からない。

15−0=15

ふと不安になる。これは真似事ではないか。
既存のものをなぞった、素人の創作。

でも、これは手紙なのだ。
本の世界の人物に生かされる人がいることを伝えたかった。
しかし、文章をそのまま引っ張ってくると問題になってしまう。あの中に含まれない、でもちゃんと伝わるタイトルが必要だ。

ぎこちなく文字を打って、ある言葉を検索する。ゼブアノ語というらしい。これでは伝わらないかもしれない。でも、誰かが分かったときのことを想像するとこれしかなかった。

今、ここに本を読んで生きている人がいる。


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