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姿は似せ難く、意は似せ易し|『考えるヒント』

たしか代々木上原の古本屋で出会った、小林秀雄『考えるヒント』文春文庫(1974)を読み終わった。

散文ってこんなに味わい深いものになるものなのか。これが小林秀雄か。岡潔との対談『人間の建設』なら読んだことはあるけれど、小林秀雄が書く散文はまた全然違った。こんな散文、インターネットではそうそうお目にかかれない。

『考えるヒント』というのは編集者がつけたタイトルらしい。実際、小林秀雄は世の中で当たり前に使われている言葉や概念から蝶のように軽やかに飛び立っていく。その様を文字で聞く読者は、思考がほんの少し自由になった軽さを味わい驚く。

内容は実に様々で、「ヒトラーと悪魔」とか「批評とは人をほめる特殊の技術だ」なんて発言のある「批評」、列車で出会った人間を抱える老夫婦の思い出話「人形」なんかを楽しみながら頁をめくっていた。

どれも面白いのだけど、なんとなく印象に残ったのが「言葉」という話だった。その中で、本居宣長の「姿は似せ難く、意は似せ易し」という反直感的な言葉が引かれている。小林秀雄よりうまく説明できるわけがないから素直に引用する。

言葉は、先ず似せ易い意があって、生まれたのではない。誰が悲しみを先ず理解してから泣くだろう。先ず動作としての言葉が現れたのである。動作は各人に固有なものであり、似せ難い絶対的な姿を持っている。生活するとは、人々がこの似せ難い動作を、知らず識らずのうちに幾度となく繰り返すことだ。その結果、そこから似せ易い意が派生するに至った。

これは結構、衝撃的だ。これが衝撃的に思えるのは、自分がインターネット時代を生きていることと関係があるかもしれない。インターネット世界では、あらゆる「姿」が簡単に複製される。このテキストなんて、マウスをドラッグするだけでそっくり真似できる。スタイルだってデベロッパーツールでCSSを真似できる。

でもきっと、本居宣長や小林秀雄が言っている「似せる」はそういうことじゃないんだろう。純粋に内的な圧力によって具現化される表現は、表現者と切り離せない。その表現にはどうしたって表現者が映し出される。世紀単位の自然選択を生き残ってきた絵画や小説に、作者を感じられないものなんてあるだろうか。

これは浅はかな結びつけかもしれないが、本居宣長のこの言葉を具体讃歌として捉えたくなる。世の中、100歳まで生きてもインプットし切れない情報があふれているが、一部をインプットしてみると既視感があることは多い。つまりは、多くのものが同じような「意」を伝えようとしているということだ。自己啓発本はその顕著な例だと思うが、それは小説だって絵画だって写真だってそんなに変わらないんじゃないか。

実は世の中が思ってるよりも「意」は似通っているんじゃないだろうか。少しばかり「意」を敬いすぎなんじゃないか。結局、「意」を自らこその「姿」にすることが生きることなのではないか。あるいは「意」から「姿」をつくるという思考そのものを疑ってみるのも良いのかもしれない。

そういえば最近観た「プロフェッショナル仕事の流儀」に出ていた、梅原大吾さんも羽生善治さんも、勝ち負けの世界に生きながらそれ以上に自分こその表現にこだわっていたのが印象的だった。

「姿は似せ難く、意は似せ易し」

自分だからこその「姿」を言葉やピクセル、色々な形で探っていこうと改めて強く思った。

学生時代に読んだ『カラマーゾフの兄弟』も記憶がだいぶ薄れているし、本居宣長や日本初期の文学はまだ読んだことがない。数年後、お気に入りのブックカバーを着せてまた持ち歩きたい本だった。


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