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最古の学生映画を観てきた

 俺の出入りしているサークルが主催した『黎明期の学生映画』と題された上映会に行ってきた。
 早稲田大学の学生会館の倉庫からフィルムが見つかった、現存する学生映画では最古と言われる、『九十九里』(1953)と『彦市ばなし』(1954)という2本が上映されたのだが、これが良かった。『九十九里』は文字通り千葉県九十九里を舞台にしたドキュメンタリーで、当時の九十九里浜闘争を記録したものだ。『彦市ばなし』は劇映画で、木下順二原作の童話の映画化である。
 当然どちらも大学生が製作した作品なのだけど、何と言うか、現代の学生映画とは質的にかなり違っている。一言で表すなら、パワーの違いだと思う。
 少し横道に逸れるが、先日NHKで放送された、早稲田大学で大林宣彦が講演した映像を見ていたら、彼は「映画とジャーナリズムは対極の存在」だと言っていた。これは、ある時点までは映画とジャーナリズムは渾然一体の存在だったのだが、作家主義が現れたことで映画は作家個人の作品になった、という事なのだと思う。
 それこそバリバリのジャーナリズムである『九十九里』では、モノローグというかナレーションによって語りが進行していくのだが、その主語は「俺」ではなく必ず「俺たち」だった。『彦市ばなし』にしても、まず冒頭に「みなさんに楽しんでもらえるように童話を題材にしました」との文章が映る。
 どちらにせよ、この2本は前提として監督の個人的な作品ではない。簡単に映画を作れなかった、そういう時代だったと言ってしまえば身も蓋も無いかもしれない。結果的にそうなってしまったという事でもあると思うが、しかし、これらの映画に作用しているのは多くの人が、寄合的に集まった意志の力なのではないだろうか。だからこそ推進力があるし、それが画面にも表れるというか。製作の実態は分からないが。
 今となっては、学生映画も作家の個人的な作品である。余程パワーのある人は別だが、やはりたった1人の意志の下に作られた映画っていうのは、弱い。圧が足りない。それにどうしても内向きになってしまう。
 それに対して、『九十九里』と『彦市ばなし』はエネルギーに満ちていて、くだけた言葉で言えば、圧がハンパない。それに映画の内容だけでなくその質が自ずから社会的であるような気がする。
 個別の映画の話になるが、『彦市ばなし』の役者も良かった。特に天狗の子を演じた子役(名前は失念してしまった)は良い。これぞ熱演であった。
 上映後の講演で聞いた話では、大学の映画サークルの自主製作文化は、日本映画業界の独立プロとも関わりがあったらしい。幸せな時代だったと言うには語弊があるかも知れないが、なんつーか、やっぱりこの時代の人たちには今の若者とは違う、何かパワーがあったんじゃないかな。
 良いものに触れると、自分もやってみようと思える。正に今回の上映会では、そういうバイブスを感じることが出来たし、俺もくすぶってはいられない。一念発起だ。

 実は今、映画美学校の課題で自分が監督する短編の脚本を書いている。コメディというジャンルに自分を規定するつもりはないが、笑える話を書いているつもりだ。しかし、これが難しい。
 一般的な劇映画の脚本に必要なものは主人公の目的を邪魔する葛藤なのだが、脚本の本にもそう書いてあるし、先生にもそう言われて耳ダコなのだが、これが難しい。中々、素人には簡単に出来るものではない。
 普段映画を観ている身としては、プロはいとも簡単にやってのけているように思える。いやはや、実際はどうだか。みんな血反吐を吐きながら書いているのかも知れない。
 ウディ・アレンみたいに、こぢんまりとしておしゃれで軽いノリでクスッと笑えるみたいなの毎年作るやつやりてえええ。多分そんなに金かかんなそうだし。将来的にそうなりたい。
 そしてカンヌへ…、というのは半分本気で半分冗談だが、まあ俺は俺でやれる事やっていきますって話なんで、よろしく。

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