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第34週: バ=ミドバル(荒野にて)

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基本情報

パラシャ期間:2024年6月2日~ 6月2日 

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 民数記 1:1~ 4:20
ハフタラ(預言書) ホセア 2:1~ 22
新約聖書 ローマ 9:25~ 33
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

荒野に構造・秩序を―
ユダ・バハナ 

11月下旬~12月上旬に来日予定の、ユダ・バハナ師
(ネティブヤ イスラエル)

今週、私たちはトーラー(モーセ五書)の新しい書『民数記』に入る。
この書では、ドラマチックでもあるが痛ましい出来事や痛み・対立も多く見られる。コラとスパイ/斥候の罪、バラムとバラク、そして真鍮の蛇。そしてその後には、特別なアロンの祝福もある。

荒野に導かれた意味

abraham.trave より

今週のパラシャ(朗読箇所)である「バ=ミドバル」は、人口調査でイスラエル民族が数えられるところから始まる。規則・秩序もない荒野と、そんな場所での秩序・規則をもたらすための人口調査は、まさに正反対・コントラストだ。
 
このパラシャの大部分は、部族ごとに整理された名前と人数に関するリストだ。どの部族にも宿営内に割り当てられた特別な場所があり、荒野を旅する際には行進の順序がある。すべての人々は部族ごと、家族ごとに組織されている。彼らは独自の旗のもとで旅をし、また立ち止まる。こうしてイスラエル民族の構造(ストラクチャー)が、できあがった。
 
あと1月少しで、バラクに関する箇所になる。そこを見ると、ここで定められた組織体系は機能しているという印象を受ける。イスラエルの民はよく組織されており、バラムは呪いによって分裂を引き起こすために、『抜け穴探し』に苦労している。バラムは様々な場所を移動して見晴らしの良い場所から、あらゆる角度でイスラエルの民を見下ろしている。それでも彼が目にしたのは秩序だった。部族・家族ごとに組織され、各人がそれぞれの旗の下に居た。
そして最終的にバラムは、イスラエルの民を祝福した。かの有名な祝福だ― 

なんとすばらしいことよ。
ヤコブよ、あなたの天幕は。
イスラエルよ、あなたの住まいは。

(24:5) 

荒野という大自然が国家を団結させ、強化するのに役立った可能性は非常に高い。このように民数記は、混乱・反乱・対立とは対照的に、秩序・組織・相互責任にフォーカスしている。
 
そして民数記には、出エジプト物語で最も悲劇的なエピソードが描かれている。
私たちの父祖たちが荒野に居るのは、本来は数年間のはずだった。しかしその後、スパイの罪がおきイスラエル民族は40年以上も荒野をさまようこととなった(13~14章)。そしてそのなかの最初の二年間で神はイスラエルの民を再建し、彼らに希望を植え付けパートナーシップと集団責任を教えた。
 
イスラエル人は奴隷の民だった。
彼らは自尊心のない不安定な人々で、民は異文化と偶像崇拝に染まっていった。どうすれば修正できるのか?― その答えが外部からの影響、異文化というものから守られた『無菌地帯』である、荒野に身を置くことだったのだ。そしてそのような環境で神は、誰もが国家建設に携わるための共通のプロジェクトを与えた。幕屋建設はその中の最も良い例で、これによって民は強固な団結・協力を経験した。

ひとりひとりが神の前に重要

荒野での人口調査
(thetorah.com より)

このパラシャで私たちがまず学ぶべきことは― すべての人が神によって数えられており、神の計画において『勘定に入れられている』ということだ。神にとっては私たちの中の誰もが重要なのだ。そして皆がひとつとなって、私たちは国や民族として成り立っている。人口調査は社会学的観点からの、秩序のためだけに行なわれたわけではない。人の所属欲求を満たし、人々の自尊心や帰属意識を築くのにも役立った。
そしてここで重要なのは、イスラエルの子らは奴隷・捕虜としてではなく、自由の民として数えられたということだ。こうして彼らは氏族・部族・家族として長年忘れ去られていたアイデンティティーが、復活することとなった。 

イスラエルの全会衆を、氏族ごと、一族ごとに調べ、すべての男子を一人ひとり名を数えて、その頭数を調べよ。

民数記 1:2 

人口調査によって人々は、アイデンティティーを再確立した。
そして、その中心は私たちが最も帰属意識を強く感じる家族だった。イスラエルでは特に「私の父/母/祖父母は~から移民した」と、自身のルーツについてこう話したりする。こうしてイスラエリーは、家族の誇りを現在でも強く持っている。
 
この人口調査で気になるのは、「すべての男子の名を、ひとりひとり数えて(1: 2)」というものだ。ある聖書解釈によると集められた全員が自身の名前を言い、それが書き留められた後、その『名前』が数えられたと言う。実際にそのような方法だったのであれば、これは必要以上に複雑で非効率的な方法だ。
ここからも人が人口調査のために数える対象物ではなく、1人1人が神の前に重要だったことが分かる。

旗・しるしの重要性

それぞれの種族の旗
(tali.org.il より)

全員が一致団結して宿営を設営し、また出発の際には「それぞれの旗の下」つまり自分の部族の旗の下で行進した。そしてこの旗は、それぞれの部族を表す要素で構成されている。
たとえば、ルベンの旗は赤にマンドレイクの絵が描かれ、シメオンの旗は緑で剣とシェケムの門が描かれていた。そしてレビの旗は背景が赤・黒・白で、祭司の胸当てがモチーフになっていたと言われている。しかし旗の色・モチーフ・エンブレムよりも重要なのは、それぞれの旗が人々のうちに生じさせる帰属意識や誇りだ。旗は自尊心を与え、各部族は誇りを持って旗を振ったことだろう。
 
私は兵役に就いた経験から、国旗や記章を掲げることへの誇りを体感してきた。自分たちの基地を、部隊の色のペンキで塗るようなこともあった。現在私は予備役の兵士だが、部隊の紋章が入った帽子やTシャツを子供たちに渡すのを誇りに思っており、彼らがそれを着ているのを見ると誇りに思う。これも、旗や印が与える誇りだ。
 
このように荒野に居たイスラエルの子らも、同じ誇りで満たされたのだろうと想像する。そして今日、どの国にも国旗とその扱いに関する独自の法律がある。イスラエルには「国旗・国章・国歌法」があり、いつ・どこ・どのように国旗を振らなければならないかを定めている。国旗を燃やしたり傷つけるのは、犯罪だと規定されている。

イスラエルの国旗についての逸話

現代イスラエルの国旗が最初に考案された、リション・レツィヨンの博物館。
当初は青い線が上下に2本ずつだった。
(nessziona.net より)

国の象徴としての国旗の重要性については、テオドル・ヘルツェルによってこう話している。 

そして最後に旗について、そしてどのように旗を振ればよいのかについて話さなければならない。もし誰かが冗談めかして、「旗とは何か」と尋ねるなら、それは竿につけられた布きれにすぎない。
しかし、旗はそれ以上の存在だ。
旗によって人々は、指導者の意思に対して導かれるのだ。 

人々は旗のために生き、そして旗のために死ぬ。国家とそのビジョンのために自分自身を捧げて貢献する。今日、私たちはイスラエルの旗の下に生きている。その背後にある考えとは何だろうか?イスラエルの国旗にはどんな物語があるのだろうか?イスラエルの国旗をデザインしたデビッド・ヴォルフソンは、こう言い残している― 

「指導者ヘルツェルの命令で、シオニスト会議の準備をするために私はバーゼルに来た。当時私を悩ませていた多くの問題の中に、ユダヤ人の本質についての問題も含まれていた。
また、国会議事堂にはどんな旗が掲げられるだろうか?
その時、ある考えに至った― 私たちには青と白の国旗があるではないか。それは、私たちが祈るときに身を包むタリートだ。それこそ、私たちのシンボルだ。このタリートを取り出し、イスラエルとすべての国の目の前で広げよう。
そこで私はダビデの星が描かれた青と白の旗を注文した。こうして国旗が誕生した。」 

祈りの際に男性が着用する、タリート。
(mountsinai.co.il より)

そう、イスラエルの国旗は祈りのためのタリート=ショールなのだ。
そしてイェシュアの信奉者として、私たちは旗に対して召されているだけではない。そのビジョンのために奉仕するよう、召されているのだ。私たちは旗・灯台として、イェシュアと彼の教え(トーラー)の光を照らし、人々を信仰に近づけるよう求められている。
マタイ5章の、イェシュアの言葉を見てみよう。 

あなたがたは世の光です…
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

マタイ 5:14~16

世の光として―

(soundcloud.com より)

このイェシュアの教えを実践すれば人々は私たちからインスピレーションを受け、生き方を改善し神に近付こうとするだろう。そしてこれが、私たちのあるべき姿だ。ここでのイェシュアの教え・命令は非常に明確だ。人々は私たちの信仰を『行ない』を通じて目にし、それらを通して神を知る。私たちはそのために親切かつ、忍耐強くあるべきだ。また愛・喜び・平和・純粋さを実証するため、新約聖書はさらにこう命じている。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

ピリピ 4:4

帰属することと相互間の義務責任を果たす重要性を、イスラエルは荒野の中で学んだ。そして真の意味での喜びを実践するためには、良心が清く神と人に対する霊的な負い目があってはならない。良心が清ければ、私たちは平安でいられる。
そして私たちには、贖い主であるイェシュアが居る。彼は私たちの良心を清める力があり、私たちを喜びで満たす。そして私たちはこの事実とそれによる喜びを共有し、人類全体がイェシュアの平和を見つけられるよう働く召しが与えられているのだ。
 
そのためにもちろん私たちは、イェシュアの言葉を守って歩み努力し続けなければならない。イェシュアは私たちが寄り掛かり、頼ることのできる岩だ。そしてその信頼・神の言葉を、実際の生活に適用する― これこそがイスラエルが荒野を旅した目的だ。邪悪なエジプト文化とその偶像から決別し、精神的にも肉体的にも成長するため。
 
信仰は基礎だ。そしてその基礎は、御言葉を生活に適用・実践するという、行いに昇華した時に本当の意味で価値を持つことになる。
シナゴグや教会での祈りは、週に1度ですぐに終わる。重要な問題は、それ以外の時・場所でどのように行動し、ふるまうかだ。実際の家族、そしてより大規模な家族である地域コミュニティでいかに互いに助け合い、支え合うか。出エジプト記にあるように、積極的かつ相互的なパートナーシップと当事者意識を通じてのみ、霊的にも健全なスムーズに機能する社会を構築することができる。
 
メシア・イェシュア(イエス・キリスト)を信じる者として、私たちは神の働き人で、神の働きに参加する必要がある。自分の家族、大きな意味での家族である会衆・教会やコミュニティ、そして民族や国まで、それぞれが所属しているその旗の下で奉仕することが求められている。
私の場合であれば、イスラエルのメシアニック・ジューという一族だ。私はメシアニックという旗の下に立ち、そのために働く一員だ。そしてもちろんその上にあるのは、イスラエルという旗であり、その義務を果たし奉仕している。
 
トーラーの学びと同時に、『イェシュアに仕える者たち』という旗印の下、皆さまと一緒に歩みを進めて行きたいと思う。
日本の皆さまのうえに、豊かな週末があるように。
シャバット・シャローム!

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