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第28週:メツォラ(ツァラアト/らい病に冒されたもの)

  • パラシャット・ハシャブアとは?→ こちら


基本情報

パラシャ期間:2023年4月14日~ 4月20日

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 14:1~15:33
ハフタラ(預言書) 列王記第二7:3~20
新約聖書 ルカ 1:5~25
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

ヨセフ・シュラム師と読むパラシャット・ハシャブア

ヨセフ・シュラム師
(ネティブヤ エルサレム)

今週のパラシャ(通読箇所)はメツォラ、ツァラアトになった/らい病人という名前になっている。そしてそのパラシャ名の通り、らい病にかかった人がきよいと宣言をされたとき、何が起こり、何をすべきかという内容になっている。 

ナアマンの癒し・きよめより

アラムの軍を率いていた、ナアマン

ますツァラアトが完治した人は祭司のところに行き、様々な方法で彼のらい病が治ったかの検査・チェックを受けなければならない。先週のパラシャのハフタラ(パラシャに関係し朗読される預言書)には、ナアマンについての物語がある。
彼はアラム/シリア軍の将軍でイスラエルと戦い、若いイスラエル人の娘を捕えて連れて行き、自分の妻の召使いにして働かせていた。しかし彼は、ツァラアトになった。するとこの若いイスラエル人女性が主人に対し、イスラエルの預言者エリシャであればナアマンを助けることができると告げた。
 
それで彼は、アッシリアの王からイスラエルの王への手紙を持ってイスラエルにやって来、エリシャはナアマンにヨルダン川に7度身を浸すように告げる。すると彼は馬鹿げていると思い、起こり出した。すると彼のしもべたちが彼に、「やってみて何の損があるでしょうか、とにかくやってみて、どうなるか見てみよう」と説得した。
そこで彼はヨルダン川に身を浸し、その結果きよめられた。彼は預言者エリシャにお礼を言いに戻って行く。
 
この話は、ストーリーとしてとても面白い。
そしてその流れを引き継ぎ、今週のパラシャもナアマンのようにツァラアトを患った人=メツォラについてだ。

ツァラアトの人がきよめられるプロセス

今週のパラシャは、レビ記 14章1節から始まる―

主はモーセにこう告げられた。
「ツァラアトに冒された者がきよめられるときのおしえは、次のとおりである。彼が祭司のところに連れて来られたら、

レビ記 14:1~2 

ここでルカ17章(11節~)を思い出そう。
イェシュア(イエス)はサマリヤの山々を通り、エルサレムに行かれた。険しい道だが春には水が豊かで野の花々が美しく、赤や紫の花々・ラベンダーや黄色い野草に包まれる美しい道だ。
イェシュアは多分春の季節なので、サマリヤを通る道を選んでエルサレムに行ったのだろう。そしてそこで十人のツァラアトに冒された人に会い、彼らを癒し、祭司に見せるようにと送り出した。今週のパラシャは、まさにそのきよめの過程だ。イェシュアに癒された10人は、このプロセスを実際に行った。
 
このきよめの過程には、いくつかの段階がある。
最初にツァラアトになり汚れた人々は、宿営の外の囲まれた場所にいなければならない。
そしてレビ14:3にあるように、祭司が宿営の外に出て行き彼らを調べる。そしてもしツァラアトが癒されていたら、祭司は二羽のきよい小鳥と、杉の木と、緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるよう命じる。ヒソプは野生のオレガノで、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの丘に生える植物・ハーブだ。
 
それから祭司は、その小鳥のうちのー羽を、土の器に入れた湧水の上でほふるように命じる。そして二羽目は野に放すのだが、この小鳥二羽は犠牲・いけにえの1つだ。そしてこれはルカ2章の、ヨセフとマリヤが幼子イェシュアのために神殿で捧げたいけにえ、二羽の家ばとを連想させる。鳥のいけにえは、羊や牛を捧げる経済力はないが酷く貧しいわけでもない、中産階級からそれより少し下のイスラエル/ユダヤ民族が捧げる犠牲だった。
 
実際にパラシャにはこうある―

12祭司は雄の子羊一匹を取り、それを油一ログと一緒に献げて代償のささげ物とし、それを奉献物として主の前で揺り動かす。

21もしその人が貧しくて、それらのものを手に入れることができなければ、自分のための宥めとなる奉献物とするために、代償のささげ物として雄の子羊一匹を、また穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の一エパと、油一ログを取り、
22また、手に入れることのできる山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取り、その一羽を罪のきよめのささげ物、もう一羽を全焼のささげ物とする。

レビ記14章 

牛や羊・はとを犠牲に捧げる他にも、ツァラアトが治った人の上に祭司が捧げる動物の血を注いだり、服を脱ぎ、衣服を洗い、2度体の毛をすべてそり落として水を浴び、そして7日間きよめのため天幕の外にとどまる。 

ツァラアトと祭司任命の関連性

(nicecarset.xyz より)

ここで興味深いのは14:14~の、祭司が代償のささげものの血を取って、それをきよめられる人の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指にその血を塗るという行為だ。
また祭司は油を手に取る。オリーブ油を左の手のひらに注ぐ。祭司は左の手のひらにある油に右の指を浸しその指で、油を七たび主の前に振りかける。
 
ここで、エリシャがナアマンにヨルダン川に行き、7度身を浸せと言ったことを思い出そう。この場所にも「七回浸す」という同じ行為が出てくる。祭司がきよめられたツァラアトだった人のためその手を油に浸し、油を七度主の前に振りかけることと、エリシャのナアマンへの指示はリンクしているのだ。
 
そして祭司は、残りの油をきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指― つまり血が塗られた場所の上に塗るのだ。ここで、彼らはそれら同じ部分に油注ぎを受けるのだ。耳と親指と足の親指に油注ぎを受け、残った油は頭の上に注がれる。
これはとても興味深いことだ。
最大の疑問は、なぜこのような油注ぎをするのか、というものだ。これはレビ記8章のアロンの子ら=祭司が受けるのと、同様の油注ぎだ。
 
そして、血と油で油注ぎをするという行為の意味は何か。これは主に対する捧げ物である、という大きな意味がある。捧げる目的は、あなたが主から聞き、主のための仕事をし、主の道を歩むためだ― まさに祭司のように。
そしてそのためにはきよさと誠実さを持ち、献身の明確な目的と共に祭司によって、右耳と右手の親指と右足の親指に血の油注ぎを受ける。
 
そして油注ぎは聖霊を象徴しており、油注ぎには純粋な油、オリーブ油が使用される。あなたがきよくなるために犠牲となったいけにえのように犠牲心を持った人生を送り、主のために働かなければならない。そしてそのためには、油注ぎに象徴される神からの聖霊が必要なのだ。
 
それであなたは主からの声を聞き、そしてそれを基にあなたの手を用いて主の仕事をし、あなたの足で主の道を歩く。この教えは、祭司が任命された時から彼らが歩むべき道であり、レビ記8章にその油注ぎについてが規定されている。 

プロセスを経て、神の道を歩む重要性

ルカ17章で十人のらい病人が癒された後、イェシュアがしたことを思い出そう。イェシュアは彼らに、行って祭司に見せ、あなたが癒されたことを確認してもらい、奇跡が起こったことを確認し、きよめの手順を行なうようにと、彼らに告げた。今週のパラシャにあるように、癒されただけでは十分ではない。
癒されたという証明が必要なのだ。そしてその癒しの証明は祭司から来るもので、そのためにはこのプロセスを行わなければならない。そして自分自身で見える形で献身の決意をし、神から聞き、神のわざをし、神の道を歩む。
 
私たち全員にとって、これは非常に重要な教訓だ。
例えば私は神に仕えて64年になるが、イスラエルやその他の国々で集会を行い、若い人々を神に対して捧げて働き人とし、ミニストリーの中で育ててきた。事実、現在エルサレムのネティブヤを支える2人は、私たちのコングリゲーションで生まれ育った私の霊的息子たちだ。そして私は、彼らを非常に誇りに思っている。
 
彼らは多くの点で、私よりずっと優れている。このパラシャット・ハシャブアについても、私はこれからのネティブヤを担うユダに大半を任せている。日本の兄弟姉妹の皆さま、彼らこそが次世代のネティブヤだ。
 
彼らがミニストリーのために油注がれた時、私たちはこのパラシャにあるような形で彼らに油注ぎを施した。いけにえの血はなく羊やはとも殺さず祭壇もなかったが、私たちはオリーブ油を用い、彼らの右耳・右手の親指・右足の親指に油注ぎをした。
彼らが主から聞き、主のわざをその手で行い、主の道を歩むように…
そしてこの油注ぎは、油注がれた張本人だけでなく、会衆・コミュニティの人々にも大きなインパクトを与える。

祭司は祭壇の上で、全焼のささげ物と穀物のささげ物を献げる。祭司はその人のために宥めを行い、彼はきよくなる。

レビ 14:20 

らい病だった人は、最終段階として自分の罪の贖いのために特別な捧げ物をし、ついにきよいとされた。
聖書では、罪と病気はいくつかの点で関連している。最も有名なのはヤコブの手紙だ。そこでヤコブは、長老たちがその人のために祈るとその人は癒され、罪が赦されると語っている。 

それぞれの状況を考慮される神

ハトを飼育するための洞窟、コルンバリウム。
ハトは食用・犠牲用など、古代では最も飼育された動物の1つ。
(イスラエル南部ベイト・ゴブリン)

しかし21節に目をやると、こうある。 

21もしその人が貧しくて、それらのものを手に入れることができなければ、自分のための宥めとなる奉献物とするために、代償のささげ物として雄の子羊一匹を、また穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の一エパと、油一ログを取り、
22また、手に入れることのできる山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取り、その一羽を罪のきよめのささげ物、もう一羽を全焼のささげ物とする。 

これらのことはとても興味深い。
主は私たちを、釣鐘曲線を通して見てくださっていることが分かる。もし私たちが貧しく主が規定したことができない場合、主はある種の(良い意味での)『ディスカウント』をしてくださるのだ。これは本当に素晴らしいことで、トーラーはまさに神の御心を反映している。神はもし私たちにその余裕や能力がなければ、恵み深い値引きをして下さるのだ。
祭司は全焼のいけにえを捧げ、穀物の捧げ物を祭壇に捧げる。そして祭司はその人のために、金銭的余裕があり豊かなささげ物をした人と同様に贖いをするのだ。するとその人は、まったく同じようにきよくなる。実際に捧げた動物の種類や質に関わらず、だ。
 
神は私たちを均一な冷たい物差しではなく、それぞれに合った物差しを用いて見られているのか― これは新約聖書にも同様のことが見られる。
デナリを捧げたパリサイ人とレプタを捧げたやもめの話、前にもすでに話したように、それはとても重要な原則だ。あなたが何をどれだけ捧げるかではなく、私たちが置かれた状況の中でどれだけ主を愛するかだ。そして私たちのできる最善のものを捧げる。
例えばあのやもめは2レプタを捧げた、または2レプタのみしか捧げられなかったが、それは、彼女の全財産だった。その反面、富裕な人は有り余る中から捧げた。
 
これが主が私たちをどのように見られているか、についてだ。
私たちが最善を尽くす時、捧げる量は重要ではない。重要なのは、そこにあなたの心がどれだけあるかだ。もしそこにあなたの心がなければ、主はそれをもちろん把握しておられる。あなたと神との関係は、あなたがどれだけ自らを捧げるかによって変わって来る。
神は私たちの心・中身を見ておられる。
 
今週のパラシャでは、2つの重要なことを学んだ―
1つめは、もしあなたが主に仕え自分を捧げて献身するならば(牧師、伝道師、長老などそんな役職かは関係ない)、このツァラアトとそのベースとなっている祭司の油注ぎを思い出し、①主から聞くための耳、②主の仕事をするため手、そして③ 主の道を歩むためのあなたの足に、油注ぎを受けていることを思い出して欲しい。
そして2つ目は、神が私たちをどのように見ておられるかだ。神は私たちに対し均一の基準を課しているのではなく、私たち1人1人を別々に見ておられる、ということだ。
 
主の祝福が、親愛なる日本の兄弟姉妹すべてにあるように。
トーラー(モーセ五書)と、預言書、そして新約聖書を読み続ける、原動力が引き続き与えられるように。
主の祝福があなた方すべてと共にあるように。
シャバット・シャローム! 

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