第8週:ヴァ=イシュラフ(送った)
基本情報
パラシャ期間:2023年11月26日~12月2日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 創世記32:3 ~ 36:43
ハフタラ(預言書) ホセア書 11:7 ~ 12:11
新約聖書 マタイの福音書 2:13~23
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
天の力vs 地の力
ユダ・バハナ
今週のパラシャ(トーラー通読箇所)は、ヤコブが兄エサウに再会する前の準備―どのようにエサウに贈物を送り、陣営を二つに分けたか―について語っている。そしてそこからの劇的な再会、抱擁と涙そして許しについて読む。
そしてその後はディナが乱暴されたことにより兄弟であるシメオンとレビが、冷酷にもシェケムの住民を殺害する一件もこのパラシャでのストーリーだ。そして最後には、ベニヤミンが誕生する。しかしラケルが難産のすえ死に、その後まもなくしてヤコブの父イサクも亡くなる。
このパラシャで最も重要かつ神秘的な話は、私たちの国の原点とも言える出来事だ。どのように、私たちにイスラエルという名前が付いたのか。イスラエルとは「私たちは人・神と争って、勝利した」という意味がある。
人/御使いとの格闘
そんな名前が付けられた、ヤコブとみ使い/人と格闘したという劇的な出来事を読んでいこう。人という物質的・地上の力が、天の力と戦う。勝つのは誰だろうか?
ヤコブがヤボク川のほとりに一人でいたとき、突然謎の人物が彼の前に現れ、ヤコブはその人と戦った。暗闇におおわれた場所で、ふたりは夜明けまで格闘した。もしかすると、ヤコブが負ける可能性というのもあったのだろうか?
そしてその格闘の前にヤコブは、家族や人生で得た全てのものにヤボク川を渡らせており、自身以外は川の向こう側だった。妻と11人の子供たち、すべての財産がすでに向こう側だった。ヤコブのこの格闘は自身のためだけでなく、家族やすべての持ち物全てのための戦いだった。
文字通り背水の陣、勝たなければならなかったのだ。
先週に引き続きここ2週間のパラシャを読んで受ける印象は、ヤコブがとても強かったということだ。先週のパラシャで彼自身が証言しているように、彼は暑さ寒さに耐え、厳しい自然の中で働く羊飼いだった。数人の羊飼いがみなで一緒に押して動かした井戸の重い石を、ヤコブは一人で動かした。つまり彼は、何人分かの力を持っていたということだ。
そして今週、彼は天からのみ使いと戦って打ち負かした。
そしてみ使いは、次の言葉でヤコブを祝福している。
ここで私は想像する―
神がヤコブに対し、こう言ったのだ。
「私の子よ、あなたは勝った!」
天から与えられた、地における権威
さて最も有名なタルムードの話のひとつに、「アクナイのオーブン」というのがある。
数人のユダヤの賢人(ラビたち)が座り、きよめの規則について論じていた。そんななかラビ・エリエゼルは少数派で、彼の意見は他の人々に受け入れられなかった。そこで彼は自然の力に語り掛け、彼が正しいことを他のすべての人に証明しようとしたが、それでも他の賢人たちは同意しなかった。
律法は永遠のものであり、神はその律法(トーラー)に人という要素を加えた。そうして時代を越えてトーラーはどの時・場所においても意味のあるものとなり、変化と不変性を併せ持っている。そして律法は天ではなく今はこの地上にあり、人に与えられたことにより神の権威が与えられた。
ラビ的ユダヤ教はこんな律法/トーラー観を持っている。
そして新約聖書においてイェシュアは、ケパ(ペテロ)を通して人に与えられた権威についてこう教えている。
そしてこの権限は、人に対して責任を有する者すべてに、また家族の長など多くの人々に与えられていると思う。より大きな、しかも霊的な責任がある会衆・教会・シナゴグの指導者などであれば、それはなおさらだ。影響を与えることができる人が多ければ多いほど、その人の持つ責任は重いのだ。
聖書には「百人・千人隊長/百人・千人の長」という言葉がよく出て来る。その多くが軍事的文脈だが、この原則はさまざまな責任を伴う分野に対して適用されている。
普通、人は管理を任されることを良いものとして捉える。決定権や権力を持つことに魅力を感じ、リーダーとして持つ責任の重さ(夜眠れないことがあること)を忘れがちだ。実際にはほとんどの指導者・監督・上司など人の上に立つ者は、他よりも長時間働き、仕事を家に持ち帰ることも多い。
例えば軍隊の部隊の指揮官で考えてみよう。
彼は指揮下にある兵士たちの世話をし、不足しているものがないことを確認しなければならない。そこでおのずと、下につく兵士たちよりも睡眠時間が少なくなる。また次の訓練日の準備をし、地図で地形などを調べて頭に入れ、道を学び、戦闘規則に目を通す。司令官は、兵士が寝ているときにこれらすべてのことをしているのだ。
そしてより大きな権威を持つと、それに伴いその責任も倍増する。
霊的な場で考えれば― 私たちの神に対する説明責任が増し、重くなっていくのだ。
それは、新約聖書に書かれているとおりだ―
どの信仰による共同体でも、善良で神を畏れる指導者を持つことは重要だ。
ヤコブの恐れ
今週のパラシャはヤコブの強靭さを示すと同時に、兄エサウが四百人のしもべ=軍団とともにやって来ると聞いた時、彼が抱いた大きな恐れについても包み隠さず語っている。ヤコブはこの知らせを聞いた時、非常に恐れた。
そして彼は神に祈り、懇願している。
私たちが抱く恐怖は、しばしば主観的な想像に基づいている。
そして恐れを抱くと私たちは、最も苦痛で破壊的な結果=最悪のシナリオを想像してしまう傾向がある。それは合理的でない例が大半だ。
例えば私と娘は、一緒に犬の散歩に行っている。
そしてその散歩で行く公園には、低いフェンスがありその幅は30センチほどで、娘はその上に乗り前後に走るのが好きで、よくしている。彼女にとってその幅は十分なもので高さもないため、恐がることなく毎日のようにその上を走っている。
しかし同じ幅だったとしても高さを2倍・3倍にしたら、どうだろう。それは高く細い命の危険がある橋となり、その上を同じような気持ちで歩けるだろうか?
このように恐怖は私たちの感覚を変え、時として麻痺させる。低い壁なら問題ないが、手すりのない高い壁・橋は皆が怖がり、その上を走る子供・大人は皆無だろう。
ブレスレブ(ウクライナ中部の町、ブラーツラウの名で知られる)のラビ・ナフマンに、こんな有名なことわざがある。
これはイスラエルの有名なヒットソングの歌詞にもなっており、私は個人的にイェシュアの教えに基づいている、または(間接的にでも)影響を受けているものだと思う。
ビリーバーとして私たちは人生を旅し、その旅路の大半はラビ・ナフマンが言うような狭い橋の上だ。
深淵や洪水に落ちないように自身を救いつつ、大水・深淵・危険を超えて安全な場所へと向かうのだが、決して恐れてはならない。私たちは困難を克服し成功する力を持っており、それをよく知る必要がある。イェシュアへの私たちの信仰は、恐れることなく歩む力と自信を与えてくれるのだ。
ヤコブ・エサウの再会
ヤコブとエサウの話に戻ろう。
長い時間を経た後でエサウがまだヤコブ対し腹を立てているというのは、合理的だろうか。20年が経過した後、単なる怒りや失望ではなく、まだ殺人の意図を持っていたのだろうか。
とにかくヤコブは、少なくとも半分が生き残ることができるようにと、陣営を分割した。
ここで私たちは、イサクとエサウの特別な絆を理解する必要がある。彼らは互いを愛しており、良好な親子関係を築いていた。そして、長子のための祝福とそのための儀式は、非常に重要なものだった。
ヤコブとリベカが行ったことは詐欺的なものではあるものの、それを勝ち取るために多大な努力を彼らはした。そして彼らの行為やその努力が、長子の地位の重要性を物語っている。
しかしヤコブは間違いなくエサウを傷つけ、この長子への祝福・任命の儀式を壊してしまった。何が起きたのか理解した時のイサクとエサウのショック具合・失望の深さを、トーラーはこう描写している―
しかしイサクは、人が違ったとしても1度行った祝福には価値があり取り消すことができない、という祝福の本質を理解しており、愛する長男エサウにこう言った― もう祝福は与えられた。その言葉・祝福を繰り返すことはできな、と。
これは自身の母リベカによってエサウに対して行われた、策略・陰謀だ。母からのこれより大きく、苦痛を伴う仕打ちがあるだろうか?
私はそれがどれほどのものか、頭でしか分からない。
そしてそれは、ひどい怒りと燃えるような憎しみを生んだ。最も近い親族である、母による裏切りだから当然だ。そんな気持ちが、すぐに消えるわけはない。
そこでヤコブは、エサウが積年の恨みを晴らす、復讐の機会をまだ狙っていると確信していた。
神もこれを重要なものだと捉えており、したがってトーラーにおいて創世記33章全体がエサウとの再会の準備に捧げられている。そして彼らの再会は、抱擁とくちづけという感動的な結果になった。
それは、どうしてだろうか?
恐怖についての話に戻ろう。
恐怖の多くは自分の想像からのもので、そういった場合になされる選択は最悪の結果に基づいている。ヤコブとエサウの再会が良い結果となった理由の1つは、それら心理的な要因を両者が克服したうえで、兄・弟として向かい合うことができたということだ。
そしてもう1つに理由として、ヤコブが兄をなだめるために取ったさまざまな積極的な動きも特筆すべきだ。
ヤコブは積極的にエサウの好意を得ようとした。ヤコブはどうして兄をなだめ、好意を持たせることができたのか?
第一に多くの贈り物を送り、エサウの前にへりくだり、自身を低く弱く見せた。もしかするとエサウはヤコブに対して仕返しの1つとして、何か痛めつけたいと思っていたかも知れない。しかし謙虚な態度は怒りをやわらげ、復讐する気持ちが冷めたのだろう。
ヤコブは兄の好意と恵みを得ることに成功した。
人と神の目にかなうためには
人はしばしば家族内で、親と子、夫と妻の間の権力闘争に陥ってしまう。これらの闘争は何なのか?
そのきっかけや爆発するトリガーは、些細なことだったりする。質問に答えなかったり、何気ない質問や批判のやり取りだったり。「なぜあれこれを買わなかったのか」あるいは「なぜ遅れたのか」など、こういったことはどの家庭にも自然と出てくるシチュエーションだ。
そしてそのような質問ややり取りは、悪意から出た結果ではない。疑問に感じたりちょっとした苦言を呈すことは、私たち人が持つ性質の一部だ。近所や友人の子供と自分の子供を比較したり自分の伴侶を他の人々と比較したり。
そして私たちはこう言う―「なぜ~さん/君はこれをするのに、うちの~はそれをしないのか/できないのか?」
これが発展して激しい論争・言い合いになると、どうなるか。一方が他方を言い任せれば、言い負かされた方がより多く/大きなものを失うが、それは言い負かした方にとっても損失であり、結局は両方ともが何か大きなものを失うことになる。
解決策は徹底的な衝突ではなく、お互いをなだめつつ、認め理解し合うことだ。では、どうすればそれができるか?
人は自身が他者に貢献している、その他者にとって自身の存在が重要なものだと感じたいものだ。自身のことを重要だと思ってくれている人間を愛し、自分に対して何にも感じ/考えていない人間に対しては愛を注ぐことは難しい。
そして家族や信仰者の共同体であれば、私たちはお互いにそれぞれが重要な存在だと感じている。
ヤコブはエサウに対してそれを行ったのだ。20年間の間2人には全く接点がなくお互いのこと、そしてお互いに「自分はどう思われているのか」についても全く知らず、ゼロの状態だった。そこでヤコブは自身がエサウの存在を重要に思っており、好意を持っているということを表現したのだ。
さて他人に好意を持ってもらうことが重要であるならば、神に好意を持って見てもらうことは、それよりも何十倍も重要だ。
では、神の目にかなうためにはどうするべきだろうか。
自分の生活の中心に主を据えなければならない。
そして自身を純粋に聖く保つべきだ。
テサロニケ人への第一の手紙で命じられているように、神のみ言葉にしたがった慎み深い生活をする。神のみ言葉は、創世記から黙示録まで、メシア・イェシュア(イエス・キリスト)を通して神の目に恵みを見いだす道路地図だからだ。
皆さまに平安の安息日(シャバット・シャローム)があるように。
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