第45週:キ・タボ(あなたが入った/来た時)
基本情報
パラシャ期間:2023年8月27日~ 9月2日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 申命記 26:1 ~ 29:8
ハフタラ(預言書) イザヤ 60:1 ~ 60:22
新約聖書 ガラテヤ 3:1 ~ 3:14
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
ヨセフ・シュラム師と読む、
パラシャット・ハシャブア
シャブオットに関するパラシャ
先週のパラシャは、キ・テツェ=あなたが(戦いに)出て行った時」だった。そして今週は「あなたが(その地に)来た/入ったとき」という意味のキ・タボと、対になっている。そして今週のパラシャの初めの部分は、初物の祭であるシャブオットと関係している。
シャブオットは、トーラーがイスラエルに命じている三つの巡礼祭のーつだ。
これら三つの主の聖日・例祭はイスラエルだけでなく、世界中のユダヤ人コミュニティでいまだに重要なものとして祝われている。神殿があった時代のイスラエル民族は、シャブオット/ペンテコステの祭に神殿で礼拝するためにエルサレムに来るよう命じられていた。これが三大巡礼祭一つと知られている、理由である。
シャブオットになると初穂の実を携えて神殿で神にささげ、祭司とレビ人に渡すように命じられていたのだ。
2023年に神殿はないが、シャブオットはとても重要な祭りであり続けている。
夏の初めにあるシャブオットになると毎年、キブツの共同農場で小麦の収穫の終わりを祝うシャブオットが、現在でも祝われている。現代シオニズム的な祭りではあるが、これも聖書に着想したものだ。
初物を捧げる時に口にする、意外な言葉―
このパラシャの冒頭部分は、明らかにペンテコステ/シャブオットの祭を指している。そしてその祭りに関するここの聖句は、聖書の中でも非常にユニークなものだ。イスラエルびとたちはペンテコステに初物の実が入ったかごを持って神殿にやって来、でそれを祭司に捧げるのだが、その時にはただ渡すだけでなく指定された言葉を口にしなければいけなかった。この命令は、他には見られない。
ここで神はイスラエル民族に対して命じているため、この箇所の二人称=あなたとは、イスラエルを意味している。それは他の誰かを意味するものではない。天と地の創造主であるあなたの神・主は、エジプトから出てきた奴隷の身だったイスラエルの民であるあなたに対して、カナンの地を相続財産として所有させてくださった。
「主が御名を住まわせるために選ばれる場所(2節)」とは、エルサレム神殿のことだ。申命記において「神・主が選ばれた場所」とはエルサレムのことをさし、この表現は同書の特徴となっている。
そして3節以降が、イスラエル民族が口にすべき言葉になり、このような内容になっている。
3節: 主が約束した地に入ったという、結果の報告
5節: エジプトに下った後、大いなる国民になった
6節: ファラオによって奴隷の身になった
7節: イスラエルが主に叫び、神が労苦を見る
8節: 出エジプト・神による救い
9節: 神が私たち(イスラエル)に蜜の流れる地を与えた
10節: それによって実った、大地の初物
その後の11節には、「あなたがたのうちの寄留者とともに喜べ」と、イスラエルに住む異邦人もこの祭を祝う対象になっているのが分かる。
そして続く12~14節には、「あなたの収穫の十分の一をすべて納め終え、これをレビ人、寄留者、孤児、やもめに与えて」と、現在の什一献金の聖書的根拠ともなっている箇所になる。
ここで皆さんにお聞きしたい。イスラエルびとがエルサレムに携えて来たそのかごは、初物という収穫物の中で最も上質で美しいものでいっぱいだったのだが、そのかごはその後どうなったのだろうか?
かごを祭司が受け取り主の祭壇の前に置いた(4節)、という記述から神殿に捧げられたのだろうと考えるのが普通だ。しかしそれは祭司のためだけではなかった。それは親のいない孤児たち、在留異国人である寄留者、そしてやもめのためでもあった。
捧げられた初物は、現代風に言うと『人道支援物資』だったのだ。
これは、素晴らしいことだ!
しかし、それよりも素晴らしいと私が考える箇所は、イスラエル人としてのルーツについて語り告白する、ということだ。
ここの私の父=アブラハムだが、イスラエルびとはアブラハムについて「さすらいのアラム(古代シリア)人」と宣伝するのだが、ヘブライ語では「失われた/失われそうになったアラム人」とも読める。イスラエル民族が飢きんによって滅びそう(失われそう)だったので、エジプトに下ったことからこのような表現になっているのだろう。
ここの箇所では私の父=アブラハムだけでなく、イサク・ヤコブを含む「3人の父祖たち」と、定義が拡大されている。
カナンの地を襲った飢饉のために滅びそうになっていたので、彼らはエジプトに下って行った。そしてこの告白によると、エジプトにおいて私たちは小さな家族から大きな強力な民族へと成長した。するとエジプト人は私たちを虐待し、苦しめ、厳しい圧迫に陥れた。そこで私たちは主に叫び求め、主は私たちの叫びを聞き、エジプトから救い出し、アブラハム、イサク、ヤコブに約束された土地をお与えになった。
私はこの文章を読むたびにとても感動するのだが、それは私がユダヤ人という父祖たちの(血統的な)子孫だからかもしれない。または私が、現在実際にイスラエルの地に住んでいるからかもしれない。または私は神を知っており、しかもそのひとり子であるイェシュアを、私たちの主・聖なるメシヤ・世の救い主と知り、それを日々告白しているからかもしれない。
謙虚な小さき者たちのささげ物―
そして什分の一を捧げることについてが、この文脈の中で登場するのは大きな意味を持っている。
什(分の)一を捧げる前にイスラエルの民は、「私たちは滅び(失われ)そうだった、わずかばかりの小さな集団に過ぎなかった」と、自身のお世辞にも自慢できないルーツについて告白する必要があった。什一とは己を誇らず低くする、謙虚な人々によって捧げられるものだったのだ。
ちなみに現代のユダヤ人は自身の民族的ルーツへの誇りを持ち過ぎ、選民主義から自身を他民族より優れたものとして見る傾向があるが、この箇所を読めばそれが大きな間違いであることが分かる。この御言葉によると、そうではないからだ― 私たちのルーツは、何も誇ることのない「失われたアラム人」に過ぎなかったのだ。
さて、この箇所から私たちは何を学ぼうか。
私たちは神に対してだけでなく、この社会・このコミュニティに対して恩があり、義務を負っている。神から受けるすべての祝福に対して、恩義を負っている。これは私たちイスラエル・ユダヤ人だけでなく、クリスチャンの兄弟姉妹も、もちろんそうだ。私たちはみな、神の恵みの下のみにあり、自分自身に対して誇るものは何もない。私たちが誇りにできるのは、私たちをこよなく愛し、天地において豊かな相続財産を与えてくださっている、神のみだ。その誇りは自身によるものではないため、もちろん己の鼻を高くする権利は私たちにはない。謙遜し、己を低くするだけだ。
私たちはどんな善良さでも、どんな果物でも、どんなお金や家や物質的財産でも、どんな仕事でも、どんな家族でも、すべてのことに対して、全能の神に対して恩義を負っている。そして、己を低くして什分の一をささげる特権、贈り物をささげる特権、あるプロジェクトやミニストリー、特定の教会やその会堂を支援する特権を、与えられている。
モーセの律法、預言者、新約聖書で命じられているように、孤児ややもめ、自分より恵まれてない人々の世話をするように命じられていることを、私たちは感謝しへりくだる必要がある。
このようなことを考えると、初物を手にした礼拝者がエルサレムに来たときに言う言葉は、とても重要で素晴らしいものだと思う。時にはガリラヤから、ネゲブから、時にはキプロスから、ギリシャから、アッシリアから、ペルシャから、古代世界の四隅から人々がやって来る。そして什分の一を納める度に、自身の小さなルーツを口に表し、己を低くするのだ。
全ては神が与えられた―
11節に着目してみよう。
これはどういうことだろうか?
私たちが今手にしているもののなかで、自分・自力で得たものは何もない、と言っているのだ。日本の方々には、この考えは特にしっくりくるのではないだろうか。私の命や息でさえも、視力・話す能力も、私の家族も子どもたちも、妻も家も。これらすべてのものは、神から受けたもので、自分で獲得したものは何一つない。個人の成功・自己による成功といった西洋的なパラダイムは、聖書には存在しない。教育的にも、経済的にも、家族環境であっても、私たちは自身で脚本を書き、監督・主演を務めている訳ではない。
私たちは神・主が与えてくださったすべての善いことを喜び、与えられている賜物と憐れみに感謝すべき、それだけだ。それは私たちに命、そして私たちが楽しむ全てのものを与えてくださる。
十分に感謝できているだろうか?
最後に、申命記26:15を読んでみよう。
初物を捧げる、これは豊かな収穫への感謝を表現する行為であり、神への感謝は最も重要な私たちが持つべき感情だ。
私たち、特にイスラエル人は不平を言うことにおいては非常に長けている。しかし(そんな私たちだからこそ)、苦しい状況の中でも感謝する必要がある。ルカ17章にガリラヤからサマリヤを通ってエルサレムへ向かう途中で、イェシュアに癒やされた十人のらい病人が登場する。
非ユダヤ人であるサマリヤ人のみが戻ってき、イェシュアの前にひれ伏し、足にくちづけした。イェシュアは言われた―
奇しくも、ここも10分の1になっている。
さて親愛なる兄弟姉妹の皆さま、私たちはこの場面に置かれたとするならば、どこにいるだろうか、そしてほかの九人はどこにいるのか。自分を見つめ直し、問いただそう。
イェシュアのもとに帰ってきて感謝した、サマリヤ人だろうか。十分に感謝しただろうか?それとも、祝福を享受するだけし感謝の気持ちを忘れたほかの九人のうちの一人だろうか?
神が私たちすべてを祝福してくださるように。
私たちが初物・什一を携えた時にも誇らず、己を低くすることができるように。
また神に対して感謝する時、このサマリヤ人のようになるように。
そして万が一、他の9人のようになってしまった時― 主イェシュアの御名により、私たちを赦してくださいますように。
アーメン。
シャバット・シャローム!!
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