第7週:ヴァ=イェツェ(出て行った)
基本情報
パラシャ期間:2023年11月19 ~11月25日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 創世記28: 10 ~ 32:2
ハフタラ(預言書) ホセア書 12:13 ~ 14:10
新約聖書 ヨハネによる福音書 1:41 ~ 51
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)
ヤコブのはしごの意味とは
ユダ・バハナ
ユダヤの祈り=父祖たちがルーツ?
ラビ的ユダヤ教は、モーセ以前にも律法が守られていたと信じている。したがって出エジプトの数百年前に生きていた父祖たちは、まだ成文化していなかった律法を守っていたことになる。例えばユダヤの伝統的な祈りは、アブラハム・イサク・ヤコブの3人の父祖たちによって成立した、とされている。
朝の祈りは、アブラハムがソドムとゴモラの崩壊後に祈り始めたとされている。
イサクは、午後の祈りを祈り始めたとされ、それは初めてリベカに会う直前だったとされている。
そしてラビたちの伝統によると、今週のパラシャ(パラシャ)でヤコブは夕方の祈りを確立させたという。この結論には、どんな彼らなりの根拠があるのだろうか?
打つ=祈る・執り成す
しかし、まずはパラシャ全体を見てみよう。
ヤコブは、安全かつ豊かかつ裕福な家を離れなければならなかった。周知のとおり、アブラハムは裕福で、息子のイサクが神の約束だけでなく、地上の富も受け継いだ。
しかしヤコブは急いでそんな家から出ざるを得なくなり、まったく何も持たずにハランに向かった。冒頭で、トーラーは非常に簡単な言葉で、ヤコブのハランへの旅を説明している。
ここで「ある場所にたどり着き」となっている箇所は、ヘブライ語から直訳すると「彼はその地を打った」となる。ヘブライ語では彼が特定の場所に『来た』とは言わないが、彼は特定の場所を『打った』と言い、この打ったを意味する単語(イフガア)は、執り成しを意味する「ハフガ」と同じ語根になるのだ。
そこからラビたちは、この聖句の動詞を「祈った」と解釈し、「この場所で祈った後、一夜を明かした」と読むようになった。
そして「打つ」という意味の動詞が、「祈り」や「執り成し」も意味することもあるというこのヘブライ語の理解は、ヘブル人への手紙を含む多くの聖書のベースになっており、例えばヘブル書の著者は、イェシュア(イエス)こそ「レハフギア=(信者のために)執り成しする天の大祭司」であると述べている。
その他ローマ人の手紙にも、同様の例がある。
ここで使われているヘブル語の動詞は、語源が「パガア=打つ」でそれから派生している。
エレミヤ書にも、神が民のために懇願しないようにとエレミヤに求めたときも同じ言葉が出て来ている。ここでも祈り、嘆願、とりなしを表すため、同じ「パガア」が使われている。
賛美・祈りが聞き入れられるために
さて、エレミヤが国のために祈っているとき、神はこんな修辞的質問をした―
エレミヤ、なぜ祈るのか?
この人々の行動、義の欠如、そして道徳の低下を見ていないのか?彼らには恥は残っていない、そして彼らは自分の腐敗した行動を隠しもせず、今それはエルサレムの通りとユダの町で、公然と行なわれている。私はもう彼らの言うことを聞きたくない。
この人々のために祈ったり、嘆願・執り成ししたりするのをやめろ。
国として、またある地域や世界全体として、私たちが恥や道徳的羅針盤を失い、兄弟愛を忘れるのは恐ろしいことだ。憎しみや虐待・弾圧が日ごとに増し、暴力や、弱者を利用することが日常茶飯事となり、助け貢献したいという意欲と犠牲の精神が無くなることは、大きな恐れだ。
私たちが生きる人間社会は急速に利己的なりつつあり、より多くの人が自分のためのみに生きている。イスラエルでさえこの国を作った先駆者たちが払った犠牲が、風化し忘れ去られつつある。しかし他の人々を助けるため、また自分ではない将来の世代に対して投資するのには、犠牲が常に必要になる。
宗教的なものと世俗的なもの、政治的右派と左派の間に深い亀裂や、さらに憎しみがあるとき、神は私たちの祈りを聞いてくださるだろうか?私たちは社会の癒しに向けて努力し、お互いを受け入れる努力をしなければならない。
神は私たちすべてを、自身のかたちに創造された。したがって、私たちは兄弟なのだ。他に対し憎しみを語り、唇を開けば誰かをののしり、その直後には同じ汚れた口で神を賛美し、神に祈る― そんな人も多いだろうが、そんな賛美や祈りに神は耳を傾けないだろう。そんな口から出る神への言葉は、文字だけであって中身は無いからだ。
イェシュアの兄弟ヤコブはこう言っている。
さらにヤコブは、私たちの舌を馬のはみや船の舵と比較し、ヤコブは馬のはみや人々の舌のような小さなものに大きな力があり、私たちの行動を制御したり、影響を与えると言う。また舌は火に例えられており、火の力がどれほどのダメージ・被害を与えるかはよく知っている。子供たちに火遊びをさせないのは、万国共通だ。そして同じことが、私たちの舌にも言える。間違った言葉や誹謗中傷の炎が火のように広がって、森全体を破壊する可能性がある。
イェシュアもマタイの福音書でこう教えている―
イェシュアは言葉が人を汚すと言った。それゆえ、敬意を持って言葉を発する必要がある。言葉が汚れ、傷つけたり呪ったりする口とその舌をもってして、私たちは神を賛美することはできない。
深い淵から祈り、主は現れる
ヤコブの物語に戻ろう。
他の父祖と同様、ヤコブが夕方の祈りを初めて行ったという確実な証拠はない。したがって、聖書に直接書かれていないラビ的見解に対して、確実なことは言えない。だからヤコブがここ(ベエル・シェバからハランまでの道中の「ある場所」)で祈ったかどうか、そして祈ったとして何を祈ったのか― 私たちには分からない。
しかしこの道中とその前後における、ヤコブの考え・頭の中を理解するのに、脳科学の専門家・心理学者である必要はない。ヤコブの兄エサウから命を狙われており、両親は彼を守ることができなかったため、遠く離れた母方の故郷へと送り出された。孤独で何も持たず、間違いなく彼は大きな苦難に陥っていた。
そういう状況では、詩篇に書かれているように、人々は心の底から祈る傾向がある―
深い淵という絶望的な状況に置かれた際、私たちは後ろ盾や守ってくれるものを失い、脆弱で無力に感じる。こんな時こそ、まさに神の啓示に対して開かれている時だ。誰かが私たちを傷つけたとき、私たちが暗闇の中に一人でいる時、暗闇が私たちを完全に打ち負かすとき、神は私たちにご自身を明らかにされる。
神が私たちと共にいるのは、祈りの家(教会・シナゴグ)限定ではなく、贖罪の日などの聖日だけでもない。私たちが一人で旅をする荒野にも、同じように共におられる。私たちが疲れ果ててそれ以上進むことができないとき、このまさに最後の瞬間、主は私たちにご自身を明らかにされる。
そしてヤコブと同じように、私たちはこう言うだろう―
ここで旧約の父ヤコブから、新約聖書の主の兄弟ヤコブに目をやろう。
困難に直面したとき、時として人はそれへの対処法を知らないこともある。そして筆者であるヤコブはそれについて、よく知っている。
ヤコブはその手紙の中で、現在の状況・試練・困難を超越した目でものを見るように求めている。苦難を経験することを糧に、私たちは成熟し、忍耐と強さを養うことができる。
可愛い子には旅をさせよ
人生は難しい。
それでもヤコブは、私たちに起こるすべてのことは神の意志であると語っている。だからこそイェシュアの兄弟ヤコブは、目の前に集中するように勧めているのだ。
例えば親が子供を過度に保護すると、弱くもろい子供に成長する。親として私たちは時として子供に(ある程度の/計算された)リスクを意図的に負わせ、彼らが成熟し強く育つよう働く義務がある。
私たちが住むイスラエルでは、軍隊に入隊する前の十代の若者と、戦闘兵役を務めた若者との間には、大きな違いがある。訓練、困難、挑戦、そして直面した危険は人を大きく変え、兵役は大人(男性・女性)らしさや内なる強さ、そして人生のための重要な道具を与える。
もちろん親は子供を、彼らのキャパを越えた危険にさらすべきではないし、軍の指揮官も兵士に過負荷をかけるべきではない。テストはある程度の難易度があるものでなくてはならず、それを受ける者が耐えられないほど困難/越えられないほど高いバーであってはならない。
新約聖書にも、神は私たちの能力を超えた試練に会わせることはない、と約束されている。
このトーラーの箇所と新約聖書から、私たちは神に信頼することを学ぶ。私たちは、すべて神の権威の下にあることを理解している。したがって問題や困難に直面したとき、私たちは主に頼り、主を信頼することを学ぶのだ。
困難な時こそ、主に委ねる
私はよく、最初に超正統派の学校に入った時に見た壁に書かれた短い話を思い出す。
それは正統派ユダヤ人、キリスト教徒、そしてメシアニック信者、すべての人に知られている有名な話だ―
メシアのビリーバーとして、私たちはイェシュアと一緒に歩いている。そして横に居るイェシュアは、ピリピ人への手紙にあるように、私たちを力と希望で満たす。
祝福・約束を継承
トーラーに戻ろう。
その夜ヤコブが祈ると、夢の中で神の答えがあった。こうしてベテルで、ヤコブは有名な幻を見た。彼は天使がはしごを上下するのを見て、神が彼にご自身を明らかにされたのだ。
神はヤコブを祝福し、祖父アブラハムと父イサクへの祝福をヤコブに対しても約束された。ヤコブの祈りが答えられた、とも言えるだろう。これはヤコブが兄エサウから『盗んだ祝福』ではなく、彼がハランに向けて出発する直前にイサクが彼に与えた第二の祝福へのものだ。先週のパラシャの最後に、ヤコブは兄エサウの怒りから逃げてハランに向けて出発した。その出発の直前に、イサクはアブラハムの祝福でヤコブを祝福している。
そこで最後に、イサクは約束の地と大きな(多くの)民となるという祝福・約束をヤコブに授けた。
これが、イサクが息子ヤコブに対して意図的に与えた祝福だというのは、本当に重要だ。私の意見では、ヤコブが子やぎの毛皮を身に着け盗んだ祝福は、そもそも彼に向けられたものではなかったので、その祝福の実を100%得ることはできないので、この祝福が必要だったのだろう。
そんな有名な天のはしごの幻を見たあとの翌朝、ヤコブはこの場所で神がともにいることを理解した。
イェシュアこそ、私たちのはしご
ここで私たちは、イェシュアが新約聖書で言われたことを思い出す。
私たちは、イェシュアが私たちの祈りに対する神の答えであることを理解している。
イェシュアは私たちを天国につなぐはしごであり、御子であるイェシュアを通して私たちは生ける神とつながることができる。
そしてヤコブに財産や約束の土地、そして子孫と大いなる民としての未来を約束したのと同時に、神は彼とともに歩き、彼の人生の旅路において彼を守ると約束した。
そして同様の約束がメシア・イェシュア(イエス・キリスト)を通して、私たちには与えられている。
ヨハネ1章でイェシュアは、ついてきた二人の弟子に対して「何を求めているのか?」と尋ねた。そしてその直後イェシュアに従った両方の弟子は、「私たちはメシヤに会った」と宣言した。
(ヨハネ1: 38、41)
そしてヨハネの言葉を通して、私たちも同じ宣言をしている。
ナタナエルと同様私たちも、メシアであるイェシュアに出会ったのだ。
共に力強く、歩いて行こう。
皆さまに平安の安息日(シャバット・シャローム)があるように。
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