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第3週:レフ・レハ(行きなさい!!)

(パラシャット・ハシャブアについてはこちらを)

基本情報

第3週のパラシャ期間:2022年10月30~11月5日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 創世記12~17章
ハフタラ(預言書) イザヤ書40:27~41:16
新約聖書 ヘブル書11:6-11
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)

ヨセフ・シュラム師のパラシャ考察―


ヨセフ・シュラム師
ネティブヤ(エルサレム)

アブラハムのルーツ―

アブラハムはメソポタミア、現在のシリアで生まれた。ユーフラテス川の近くで、その周辺はバビロン、ウル、カランなど、当時の大都市が集まっていた。
バベルの塔の失敗の後、民族が分かれ、それぞれに異なる言葉や文化、宗教が誕生した。その過程で偶像礼拝も生まれた。バベルの塔以前に、偶像礼拝はなかったのだ。偶像礼拝の誕生は、人々が1つの民族から分かれ諸国・諸民族となったことに関係がある。
 
そんなバベルの塔の後に、アブラハムの系譜が記載されている。ペレグ、レウ、セルグ、ナホル、テラ、アブラム…
これには特別な意味がある。
 
アブラム(Abram/אברם)がアブラハム(Abraham/אברהם)に、
サライ(Sarai/שרי)がサラ(Sarah/שרה)に
名前を変えられたことも大いに意味がある。神の名前に二つも入っているヘイ(ה)が加えられたからだ。
(YHVH/יהוה ユッド‐ヘイ‐ヴァヴ‐ヘイ) 

アブラハム時代のカナンの地―

さて、カナンの地は全くの混沌状態だった。だから神は、アブラハムにその行き先がカナンの地であることを告げなかった。当時のエジプトは、現代のヨーロッパのように、多くの難民たちが向かう場所だった。しかし結局エジプトには入れず、その手前に当たるカナンの地で足止めされてしまった人々も多かった(日本における江戸の手前にある箱根を少し連想させる)。
そのためカナンには、エジプトに入れなかった多くの民族が住んでいた。
カナンの地にいた人々をまとめると、以下のようになる。

  • ペリシテ人: 
    ギリシャやクレタ島などから来た人々。

  • ヘテ人: 
    今日のトルコや中央アナトリアから来た人々。

  • アモリ人: 
    西小アジアやシリア北部からきた人々。

  • ギルガシ人: 
    詳細は謎だが、バビロン捕囚の時代までは存在していた。中央アジアから来たと推測される。

  • エブス人: 
    中央ヨーロッパ、スラブ人の地域、バルト海沿岸諸国から来た人々。

  • ペリジ人: 
    北ペルシャ、ジョージア、ウズベキスタンから来た人々。

  • アモン人、モアブ人、エドム人、アマレク人=遊牧民族

アブラハムの部族~アブラハムは伝道者だった~

アブラハムには、サラやロトとその家族、その他に318人(創世記14: 14)の訓練された人々(20~50才の戦力となる男たち)がいた。それぞれに妻と子供1人が最低いるとすると、彼の一団(キャラバン)は少なくとも千人以上の大所帯だったことがわかる。これらの人々は偶像礼拝から脱却し一神教に立ち返った人々であり、ハランからアブラハムについて来た人々だった(創世記12:5)。つまりアブラハムはハランで、彼らに唯一神を伝道したのだ。
 
ユダヤ人やラビで、神の御子であるイェシュア(イエス)以外にトーラー(律法の書)や預言書を世界に伝道した人はいない。神がアブラハムに約束された「福音=良い知らせ」をこの地上の多くの家族たちに、地の果てまで広めた『伝道師』は、十字架につけられたイェシュア、一人だけだ。
しかしイェシュアの前に、聖書の神(一神教)を世界に広く伝道したのは、アブラハムにまでさかのぼるのだ。 

アブラハム契約と神の約束―

さて、アブラハムとその子孫への祝福は3つの約束から成り立っており、それらは

  • 神が共におられること

  • 彼の子孫によってすべての国々が祝福されること

  • 神が土地と境界線をくださること

これら3つがアブラハム契約・神の約束になる。 

さて神がアブラハムと交わした約束、特に創世記15章の約束は一方的な契約になる。そこでアブラハムは、神からしるしを求めた。契約が承認され履行されるように、神は山羊や羊や他の動物を捧げる(殺す)ことを求めた。
これは、もしご自分=神がこの約束を守らず契約が破られたら、この動物達と同じように真っ二つに裂かれ・焼かれてもいい、ということを意味している。現在、私たちの手には多くのアッシリアやバビロニア、北シリアやアナトリアなどの発見された古代文書があり、これらを通して古代中東の契約に関する世界観がよりクリアに理解されることとなった。
この割かれた牛・やぎ・羊の意味するところは、一方的に神が契約を結んだのでその約束の内容が果たされないという事態になった場合は、神が約束に反したことになり、神が全ての責任を取ってくださる、というものだ。 

アブラハムの心配と子供たちの重要性―

神と祝福の約束を(一方的に神側から)結ばれたのだがアブラハム自身は、自身の子孫はその約束に加えられるのか、子供たちは神の目にかなうのかと心配した。神の民として、自分たちのアイデンティティを果たして守り抜くことができるか―アブラハムにはそれが気掛かりだったのだ。
 
アイデンティティに関して、社会学的に周りに敵がいる所では同化は起こりにくいというのが通例だ。逆に宗教的に孤立していない場所・環境では、同化が起こりやすい。例えば迫害の少ないアメリカに目をやると、若者はその地に共在する多(他)文化と同化しやすく、現実にそれが現象として起こっている。
そんな人の心理をよくご存じの神は、そこでイスラエルの民を異質な民にし、同じ地に住む他の民族から分離させた。エジプトでは奴隷という形=ヒエラルキーという観点で分離され、イスラエル人としてのユニークさを保ち、その後彼らは約束の地へと導かれた。
そして現代でもユダヤ的な祭儀様式や習慣、コーシャーなどの食文化、割礼や例祭などという時のサイクルは、全てユダヤ民族を他の民族から区別するためのものである。
ユダヤ人たちにとって、自身の特異なアイデンティティを最も表している聖句が、『シェマ・イスラエル(聞けイスラエル)』で知られる、申命記6:4~7である。

聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神、主はただひとりである。
… これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。

申命記6:4-7

ここシェマに見られる子供たちの重要性は、イェシュアの教えの中にもユダヤ的側面として見られる。

子供たちをわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。

マタイ19:14

また過ぎ越しの祭(ペサハ)ではいくつかの重要な質問がされるのだが、その中でも重要なものに「神はなぜ1つではなく、10の災いをエジプトに下されたのか?」というものだ。
そしてその答えは次の聖句に見られる― 

その日、あなたは息子に説明して、『これは、私がエジプトから出て来たとき、主が私にしてくださったことなのだ』と言いなさい。
… 後になってあなたの子があなたに尋ねて、『これは、どういうことですか』と言うときは、彼に言いなさい。『主は力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから連れ出された。

出エジプト 13:8, 14

このようにエジプトに下された10の災いは、子供達に教えるためのものだった。仮庵の祭(スコット)もまた、子供たちに出エジプトの出来事と、出エジプトの間に先祖を守られた神に対する信仰を彼らに教えるためのものである。安息日(シャバット)もまた、子供達に天地創造とその教訓を教え、それと同時に出エジプトも思い出させるためだ。
 
ヨーロッパで起こった異端審問ではユダヤ人への宗教迫害が行われたが、これはユダヤ人をキリスト教に無理やり改宗させることによってユダヤ民族の「神の民」というアイデンティティを剥奪するための試み、と見ることも出来る。異端審問の間、彼らはクリスチャン(カトリック信者)となり先祖が守り続けてきたユダヤ的伝統的生活は、全て禁止された。 

アモリ人から見る、倫理観と土地の関係―


シリア・マリ遺跡にある、アモリ人の牧者たち

では(アブラハム契約に見られる)子孫に対する土地の約束とエジプトで起こった奴隷の身、そしてアモリ人の罪がもつ意味とその関係性を考えてみよう。
神はアブラハムに対し、最も夜空がきれいに見える真夜中に天にある全ての星を指し、アブラハムの子孫に対しても約束・契約を誓われた。しかしそれらの約束が成就し始めたのは、出エジプトという400年後だった。そしてその400年に関して、創世記15:16はこう理由を述べている―
それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。
 
つまりその土地に住む住民・民族に対して罪の総量を神は割り与えており、もしその量に達した時に神は宇宙の創造主である神は、最終的な判決を下され執行されるのだ。
その後の申命記2:20では、この地方にすでに住んでいた先客・居住者について言及されている。

そこもまたレファイムの国とみなされている。以前はレファイムがそこに住んでいた。アモン人は、彼らをザムズミム人と呼んでいた。
これは強大な民であって数も多く、アナク人のように背も高かった。主がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいた。

申命記2:20~21

モーセはザムズミム人がもともと住んでいたこの地をアモン人が受け継ぎ、そしてアモン人からイスラエルが受け継いでいった、としている。アモン人の手からイスラエルに渡る前の、ザムズミム人からアモン人にカナンの地が渡った際にも、おそらく神が決めた罪の総割り当て量があり、それに達したためザムズミム人はこの地を追われることとなったのだろう。
この、民の行いが神の目にかなう・倫理的なものかどうかと、その土地にその民がどれぐらいの期間定住できるかということに、関連性があることは特筆すべきポイントだ。
 
神はおそらく、このようなことを私たちに語り掛けているのだろう―あなたはここに住んだ最初の民ではなく、今定住したからとて明日の身は知れず、つねに私からの警告を受けている立場なのだ…
これは聖書時代においてもバビロニア捕囚をはじめ、ペリシテ人やアッシリア人、エジプト人やアラム人がこの土地の覇権を握り、そして追い出されていった歴史的事実からも明白である。そしてその後の歴史を辿っても、この土地は多くの帝国がやってきは去って行った― ペルシャ人、ギリシャ人、ローマ人、トルコ人、イギリス人と、そうそうたる顔ぶれだ。
 
全ては創造主の御心次第であり、私たちの定住者としての地位もそれに100%依存している。しかし同時に、そんな創造主の「どの民を、どれだけの期間、ある場所に留めるのか」という決定には、その土地に現在住んでいる定住者の罪や不義・不正(と神が測られるその総量)が関係している。なので全ては創造主次第であると同時に、私たち次第でもあるのだ。
私たちはそれぞれの与えられた場で現在、定住者ではある。しかし常に神に見られ、また警告されていることを忘れないでおこう。 

結論―

アブラハム契約にも見られるように、土地に関する神からの約束はその地の人々の道徳レベルに左右される。もし聖書的な観点からの道徳・倫理・公義を守らなければ、イスラエルが経験したのと同様、捕囚が待っている。しかしユダヤ民族の民族的アイデンティティは今までも守られ、これからも守られることだろう。400年のエジプトでの奴隷生活でも、70年のバビロンの捕囚でも、紀元後の大半を離散の地で過ごしたのちも、そして21世紀の現在でも、それは変わらない。

そして神はアブラハムとそのすえ、そして信仰によってアブラハムのすえに加えられたもの、全ての約束を結ばれたものに対して、
① その約束をどんなことがあっても守られ、
② 私たちが約束に反した場合には、常に悔い改めの機会を備えてくださる
のだ。

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