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第33週:ベ=フコタイ(私の掟に従い)

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基本情報

パラシャ期間:2024年5月26日~ 6月1日 

通読箇所

  • トーラー(モーセ五書) レビ記26:3~27:34

  • ハフタラ(預言書) エレミヤ16:19~17:14

  • 新約聖書 II コリント 6:1~18
    (メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

ヨセフ・シュラム師と読むパラシャ
『ベ=フコタイ』

ネティブヤ創設者のヨセフ・シュラム師

今週はレビ記最後のパラシャになり、来週は民数記に入ることになる。
そしてこの箇所は、計画に従ったものになっている。「計画に従ったもの」とは、そこに重要で貴重な情報があるということだ。そしてその情報は出エジプトの時代にモーセと40年間荒野をさまよった、その世代のためだけではない。この箇所は、この世界を生きた/生きる全ての世代のための神のプログラムのー部だ。神が天地を創造した一日目から、新しい天と新しい地が来るまで、まさに全世代にとっての。
そしてこの箇所の名前は、ベ・フコタイ=私のおきてに従って、という意味だ。まさに神が「もしあなたが私のおきてに従って歩むなら(26:3)」という、言葉を掛けているようだ。 

神からもたらされる『繁栄』

アメリカにおける繁栄の神学の人気とその実情については、
数年前にはイスラエル公共放送のニュースで特集が組まれた。
(@KAN11NEWS より)

福音派の教会で広まっているものの1つに、『繁栄の神学(福音)』と呼ばれるものがある。
教会を通して神に仕え、自身を捧げる(金銭的な意味も多分にある)なら― あなたは繁栄する、というものだ。またイスラエルを愛するクリスチャンであれば、「エルサレムの平和のために祈るなら、あなたは繁栄する」といった感じだろうか。これはヘブライ語のもともとの聖句の最も適した・良い翻訳ではないが、多くの教会でこのようなメッセージが語られることがある。
 
そしてもし繁栄についての神の計画・メカニズムについて知りたければ、レビ記の最後の二章のこのパラシャは、私たちの行ないの肯定的そして否定的な側面について教えてくれる。
 
この世界で「なぜ人々が苦しむのか」という疑問についてはいくつかの理由があり、詩篇にもそういった概念がある。なぜ悪人が繁栄し、義人が苦しむのだろうか。そのようなことも実際にあり、その理由は様々だ。
一つには、私たちは神の子であり、父である神は時々私たち子供たちを試し、吟味されるという理由だ。私たちがどこに立っているのか、礼拝する動機は何なのか。神は正しい行いだけでなくその動機をも見られることから、行為自体がその動機よりも重要ではない。これはマタイ23章のイェシュア(イエス)の教えに見られる。彼はパリサイ人はX・Y・Zを行うが、彼らは間違った理由でそれを行っていると言われた。またイザヤ書1章、エレミヤ書7章、そしてアモス書にもある。ホセア6:6には、神はいけにえより互いの恵み・いつくしみを好まれると話されている。
 
物事は見かけよりも複雑なことが大半だ。しかしこの章では、物事は明白であると書かれている。 

もし、あなたがたがわたしの掟に従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、わたしは時にかなってあなたがたに雨を与える。それにより地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。
あなたがたの麦打ちはぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れは種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかに自分たちの地に住む。

レビ記 26:3~5 

この聖句には何が書かれているだろうか? ― 繁栄だ。
農業とそこで働く労働者、そして実を結ぶ畑を祝福される。収穫すべき穀物のの量があまりに大量で、ぶどうを摘んでぶどう酒を作る準備ができるまでの長い間、つねにぶどうの実がなるのが続いて困らない。
私たちが神の教え・律法の中を歩み、神の命令を守るなら、その人と地には繁栄があるのだ。
 
するとある人は、「私たちは信仰と恵みによって救われた」と言うかも知れない。山上の垂訓や福音書の中のイェシュアの教え・たとえ話・使徒の手紙、特にヤコブの手紙、ヨハネの第一の手紙の教えを読むなら、神の御心を行うことは、礼拝よりも重要だということが分かる。
 
そしてその根拠は、マタイ25章のイェシュアの言葉だー
「主よ、主よ、私たちはあなたを礼拝し、あなたの御名によって悪霊を追い出しました」という人々がいるとイェシュアは言われ、「不義の働き手よ、私から離れて行け。ここに来ることはできない。」すると彼らは言うだろう、「主よ、なぜですか。」主は答える、「なぜなら、わたしが空腹であったとき、食べるものをくれず、わたしが裸であったときにも着る物をくれなかった。」彼らは言う、「いつそんなことをしたのでしょうか?」「あなたがたが互いにしたこと、またあなたの共同体の貧しい人々にしたのは、わたしにしたのです。」と言われるだろう。
 
だから、真の意味での繁栄という考えは、神の命令や使徒の教えに対する従順、イェシュアの教えへの従順と結びついている。そして悲しいことに、多くのクリスチャンはイェシュアを礼拝の対象とはしているが、彼自身に従えてはいない。人の陰で噂話をしないや、兄弟に問題があるなら牧師や教会に行く前にまずその兄弟のところに行けなど、新約聖書に命じられている多くのことを、私たちはしていなかったりする。 

また、わたしはその地に平和を与える。あなたがたはだれにも脅かされずに寝る。また、わたしは悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの地を行き巡ることはない。
あなたがたは敵を追い、彼らはあなたがたの前に剣で倒れる。
あなたがたの五人は百人を追い、百人は一万人を追う。あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。
わたしはあなたがたを顧み、多くの子を与えてあなたがたを増やし、あなたがたとのわたしの契約を確かなものにする。

レビ 26:6~9 

何という素晴らしい神の約束だろうか。これが本当の繁栄だ。繁栄は、もし私たちが神に従い御心を行うならば、神からもたらされるものだ。 

祝福から罰へ

(biu.ac.il より)

日本をはじめ世界中の親愛なる兄弟たちに対して、私はこの聖句を根拠にユダヤ人の律法をあなたたち異邦人も守るように言っているのではない。もしあなたが望むなら、旧約聖書・トーラーでじはなく、まずは新約聖書の命令・教えを守るべきだ。
 
その真髄はヤコブの手紙の中にあり、ヨハネの第一の手紙の中にあり、イェシュアのたとえ話・教えの中にある。岩の上に家を建てた賢者は誰だろうか?
神のことばを聞き、それを行なう人だ― 愚かな人は嵐に耐えられない砂の上に家を建てるが、すると直後に倒れ粉々になってしまう。神のことばと福音を聞き、イェシュアやその弟子たちから教えを受けても、それを実行しない人だ。
 
従順は神の恵みの一部であり、贖いのプロセスの一部だ。それはトーラーのこの部分にも見られる― 

あなたがたは長く蓄えられた古いものを食べ、新しいものを前にして、古いものを片付けるようになる。わたしは、あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。わたしの心は、あなたがたを嫌って退けたりはしない。
わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

レビ記 26:10~12 

この聖句は「主は私たちと共に歩く」という意味だ。
そして実際に私は、イェシュアの手を実際に取り、彼の(おそらくゴツゴツとした)手を握り、エルサレムをイエスと共に歩きたいと切望している。私はそれが現実になる、終わりの時を心から待ち、見たいと思っている。 

わたしはあなたがたの神、主である。
わたしはあなたがたを奴隷の身分から救い出すために、エジプトの地から導き出した。わたしは、あなたがたのくびきの横木を砕き、あなたがたが自立して歩めるようにした。

レビ記 26:13 

ここまでは祝福に関しての11節で、その後には33節にも渡って罰と呪いについて述べられている。
私はこの場で、もう1度強調したい― イェシュアは私たちすべて(ユダヤ人異邦人)に対し、律法の呪いを取り除いてくださった。たとえ罪を犯したとしても、私たちはまだ恵みの下にいる。たとえ私たちが過ち・罪のために非難・罰を受けても、私たちはまだ恵みの下にあり、神に拒絶はされない。
私たちはそれでも神の子供であり、神の恵みと私たちを贖うメシアの犠牲・血によって私たちが持っている契約のゆえ、救われていると言えるのだ。
 
しかしもし私たちが神の言葉・教えに従わないなら―26:14にあるようなことになる。 

しかし、もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらすべての命令を行わないなら、また、わたしの掟を拒み、あなたがた自身がわたしの定めを嫌って退け、わたしのすべての命令を行わず、わたしの契約を破るなら、わたしもあなたがたに次のことを行う。

レビ記 26:14~16a 

ここからの聖句は恐ろしく、ビリーバーとしては読みたくもない部分だ。しかし勇気と祈りをもって、この章に向き合いながら読み進めよう。私たちが主と共に歩み御心を行なう際の祝福の11節から、ここから始まる恐ろしい33節への変化は恐ろしいのだが、私たちが知るべき内容なのだ。 

ネティブヤ創設者の兄弟たち

2019年にはNPO法人としての40周年を記念するツアーも行われ、
会堂ではメシアニック・バンド「ミ・ケデム」のライブが行われた。

私たちのミニストリー『ネティブヤ』は1971年にエルサレムで始まったが、当時は6人のユダヤ人の集会だった。そのうちの3人は宗教的な正統派ユダヤ人で、そのうちの2人はナチス占領下のヨーロッパであの死の収容所を生き延びた、生存者だった。彼らはハンガリーのブダペストで育った兄弟で、彼らの家庭は裕福でビジネスをしており、少なくとも兄弟の一人には家族がいて、子供もいた。しかし彼らはホロコーストで家族を失い、父親、母親、兄弟姉妹を失い、ハンガリー語の新約聖書を読んで、ベルゲン・ベルゼン収容所でビリーバーになった。
彼らが信仰に至るまでに呼んだのは新約聖書、それ1冊だけだった。彼らがそれを読んだところ聖霊が彼らに触れ、彼らはビリーバーになった。
 
一人はダビデと呼ばれ、もう一人はヨセフだった。
兄のヨセフは、恐ろしいことに人が自分たちの子供の肉を食べるというような、想像しがたいことが死の収容所で起こっているのを見て来た。彼はそれらを経験したなかで、「神は約束するものは何であれ― もし良いことを約束するなら、その良いことを。悪いことを約束するなら、その悪い呪いを― 必ず守られる」と何度も言っていた。
この境地は普通のビリーバーの間では、なかなか見られないことだ。しかしこれは新約聖書の教えでもある。 

肉体を持ったイェシュアが裁き主に

ユダヤ的な最後の審判のモチーフ。
ユダヤ教の中には終末にメシアが自身の嗅覚を用い人を裁く、という考えも。

いずれ裁きの日があり、その時の裁判官は父ではなく、イェシュアだ。主は私たちを裁くために裁きの御座に座られる。愛する兄弟姉妹、主は私たちを裁かれるのだ。
なぜ父ではなく、主なのか。なぜなら、もし父が私たちを裁かれるなら、私たちは恐らくこう言うからだ―
「どうしてあなたは、私たちを裁くことができるでしょうか。あなたは肉体をもって、私たちのように歩んだことがありません。あなたは、私たちの気持ちを理解はできないでしょう。例えば、あなたは病気になることを知りません。疲れも、軽蔑・拒絶・迫害されるといった境遇も理解できないでしょう。
あなたは、額に汗してパンを得たことがないではありませんか」
 
したがって私たちと同様に肉体を持ったイェシュアが、私たちの裁き手になる。彼は私たち以上に軽蔑され、拒絶され、飢え渇き、悪魔に誘惑され、人の手によって十字架につけられた。したがって上記のような『言い訳』を、言うことは出来ない。
主はそのすべてをご存じだ。主はここにおられ、ここを歩き、ここに住まわれた。私たちは裁きの日、主の前で一切の言い訳をすることはできない。
 
マタイの福音書の裁きの場面で弟子たちがイェシュアのところに来、「主よ、愛する主よ」と言うと、主が「不義の働き手よ、わたしから離れよ」と言われた場面を思い出す。
彼らは言った、「なぜですか?私たちはあなたを礼拝し、あなたの御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をしました」
すると主は言われる―
「わたしから離れて行け、わたしはあなたがたを全然知らない、呪われた者ども。私が空腹のとき、あなたは私に食べさせなかった。私が裸のとき、私に服を着せなかった。あなたは自分の仕事を正しく行わなかった。立ち去れ。」
 
従順は公式の一部分だ。従順は私たちを救うものではなく、恵みと信仰が私たちを救う。しかし、従順なくして恵みはない。恵みは神の戒めを守るために最善を尽くし、そして失敗した人々のみに対して与えられる。愛する兄弟姉妹よ、恵みが訪れるのはこの時だ。恵は、刑務所から出るために、無料で簡単に得られるようなチケットではない。
恵みは試みて失敗し、悲しみに暮れた人々のためのものだ。善を行おうとしたが、罪を犯した。その時、恵みが初めて私たちに注がれる。それこそが、イェシュア・メシア(イエス・キリスト)の犠牲と血の意義だ。
 
したがって、私たちの前に33節にも渡ってひどい罰・仕打ちが与えられているのも、驚くべきことではない。これも、恵みというメカニズムには必要不可欠なのだ。 

もし、それでも、わたしのこの懲らしめをあなたがたが受け入れず、わたしに逆らって歩むなら、わたしもあなたがたに逆らって歩む。
また、わたしは、あなたがたの罪に対して七倍重くあなたがたを打つ。

レビ記 26:23~24 

数年前のコロナウイルスは世界、特にキリスト者として神のことば・福音によって生きているはずの、西洋世界を目覚めさせるための神からの疫病だと私は信じている。だから、もしあなたが間違ってではなく、意図的に、計画的に神に逆らって歩むなら、神はあなたの罪に従って七倍の災いをもたらすだろう。
それが世界を創造し、アブラハムにご自身を現された神であり、私たちイスラエル民族をエジプトの地から連れ出した神であり、全人類の父なる神だ。そんなお方がレビ記の最後の章、ここで私たちに語り掛けている。 

レビ記26章に見るユダヤ人史

神の定めに従い(べ・フコタイ)、イスラエルに再び集められたユダヤ人たち。
1947年のアリヤ(イスラエルへの帰還)の様子。

そして33節には、「わたしはあなたがたを国々の間に散らす」とある。そして実際に私たちユダヤ人は、1世紀に世界中に離散して行った父祖たちの子孫だ。そして預言・神の約束、神の言葉を借りるとパラシャ名のように「私の定めに従って」、祖国に連れ戻すため再び集められた民だ。
 
この憂鬱な26章後半の中で、最も心強いことがある。ウクライナ、ロシア、ポーランド、東ヨーロッパでのポグロム、スペイン、ポルトガル、南米の異端審問によって国々の間で滅びて行ったユダヤ人は数知れず、これは恐ろしいことだ。しかし神は依然として神であり、まだ私たちを愛しておられる。そして私たちが世界に離散していたにもかかわらず、神は私たちを連れ戻してくださり、私たちは40節であるように自身と先祖の不義を告白し、神に反して歩んできた不誠実さ・罪を告白する(40節)。
そして、私たちが十分に苦しみ、自分の咎のために十分な支払いをしたとき、自分が誰でどこに属しているか、私たちの家がどこで父が誰かを理解することになる。 

わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こす。
またイサクとのわたしの契約を、さらにはアブラハムとのわたしの契約をも思い起こす。わたしはその地を思い起こす。

レビ記 26:42 

そしてイスラエル・ユダヤ人は悔い改める。しかしユダヤ人だけでなく、クリスチャンもだ。彼らも平和の君、全世界の罪のために死んだイェシュアの良い知らせを信じているからだ。
 

それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるとき、わたしは彼らを退けず、彼らを嫌って絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。
わたしが彼らの神、主だからである。
わたしは彼らのために、彼らの父祖たちと結んだ契約を思い起こす。わたしは彼らを国々の目の前で、彼らの神となるためにエジプトの地から導き出したのだ。わたしは主である。」

レビ記 26:44~45 

このメッセージはエレミヤ記31章にもあり、イザヤ書にもある。イスラエルの神は、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚えられる方だ。
 
さて、これをもってレビ記の教えが終わり、来週から民数記に入る。
民数記も、日本の親愛なる兄弟姉妹と共に読み進めていければと思う。
 
日本の皆さまのうえに、豊かな週末があるように。
シャバット・シャローム!

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