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第16週:ベ=シャラフ(送った/去らせたとき)

  • パラシャット・ハシャブアとは?→ こちら

  • 去年の同じパラシャの記事は、こちら


基本情報

パラシャ期間:2024年1月21日~1月27日
通読箇所
トーラー(モーセ五書) 出エジプト記 13:17 ~ 17:16
ハフタラ(預言書) 士師記 4:4 ~ 5:31
新約聖書 ヨハネ 6:25 ~ 35/ コリI 10:1 ~ 5
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)

奇跡とは―
ユダ・バハナ

現在も予備役兵として、前線に立つユダ・バハナ師。
師の無事と、不在中のネティブヤが守られるようお祈り下さい。

今週のパラシャ(通読箇所)は、イスラエル民族史で最も重要な出来事であるエジプトからの脱出の始まりについて語っている。ここから荒野の旅が始まるが、その旅全体には奇跡と不思議が満ちている。旅の全体が奇跡と不思議と言うことも出来る。民は日中は雲の柱のによってでエジプトの砂漠の強い日光から守られ、夜は反対に火の柱の光に導かれ同時に砂漠の夜の寒さから守られ、そして2つに分けられた葦の海/紅海の間を歩き、岩から水を飲み天からのマナを集めている。
文字通り、奇跡ばかりだ。 

ファラオの心は再び頑なに

さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。神はこう考えられた。
「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」

出エジプト 13:17 

ここで神は、民にはまだ荒野を力強く進んでいくための心身共に準備ができていない、と言われている。民は傷ついた奴隷の寄せ集めであり、まだ同じ経験を共有しておらず、団結した集団ではなかった。そして自衛力も、奴隷だったため持ち合わせていなかった。
そして自身の能力を発揮し試したこともなかったため、優秀な軍をもつペリシテびとに立ち向かうことはできず、直面すれば持ちこたえることができなかっただろう。
 
だから神は、ペリシテびとの領地を通り約束の地に直行するのではなく、適応する訓練期間を持つため、民を荒野に連れて行かれた。
 
そしてここで神は、またしてもパロの心を頑なにした。
イスラエルの民が逃げたと聞いて、ファラオと家臣たちは貴重な労働力だったイスラエルびとの奴隷を失ったことを、後悔したのだ。ファラオは恐らくイスラエルびとがエジプトを離れて行けば、他民族もエジプトに反旗を翻して帰還・独立を求めるのでは、というドミノ現象を恐れてもいた。そこで奴隷たちに脱出を起こさせないように、イスラエルびとを打ち、他への見せしめにしようとした。
そこで頭から足の先まで完全に武装した当時の世界最高の精鋭軍隊を率い、イスラエルびとへの追走を始めた。エジプト軍はもちろんイスラエルびとよりも速く行軍したため、まもなく元奴隷の集団に追いつこうとしている。 

紅海/葦の海の奇跡

そして何が起こったか?

モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。
水は分かれた。 

出エジプト 14:21 

紅海/葦の海が2つに分かれ、割れた―
これはこのパラシャだけでなく、トーラー(モーセ五書)内でも最も偉大な奇跡の1つだ。
 
奇跡の前、イスラエルの子らは海と荒野の間で動けなかった。エジプト軍が刻一刻と近づいており、希望は残っておらず、もう終わりのように思えた。文章を読むと、彼らがパニックを感じ、恐怖で怯え震えている姿が想像される。
 
エジプト軍は逃げだした私たちを罰し、私たちの子供たちをも罰するだろう。エジプトに奴隷として戻れるかどうかも分からず、エジプトに戻れば見せしめとして処刑される可能性が高い。または1300年後実際に起こったようにローマ軍と勇敢に戦って自決した、マサダの要塞の人々のようになるか―
妻や子供たちがエジプト軍の手によってなぶりものにされるより、海に飛び込んで死ぬ方が良いか?私たちはどうなるのか?エジプトに戻っても希望はなく、未来はないだろう…
 
このように考え想像すると、私たちは出エジプト記のイスラエルびとやマサダの要塞の人々の心を、少し理解できるようになる。パニックや絶望に圧倒され絶体絶命で逃げ道がない―
そんな瞬間に突然神が彼らの前に現れ、海を分け、イスラエルは乾いた土の上を歩いて葦の海を渡った。
 
そしてそれを見てエジプトの軍隊は、彼らに続いて同じ道に入っていった。
すると・・・

モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。
エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。
水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。
残った者は一人もいなかった。

14:27~28 

そしてエジプト軍から救出された直後、私たちの父祖たちは海の歌(シラット・ハ=ヤム)を歌った。
そこからこの安息日はシャバット・シラ、「歌の安息日」とも呼ばれている。トーラーの朗読では「海の歌」を、そしてハフタラ(パラシャに対応する預言書)ではデボラの歌を読む。 

歌・賛美の重要性

神殿で歌う、レビびとたち。
(templeinstitute.org より)

(イエスも訪れた第二神殿でのいけにえ+レビびとによる歌を再現した、アニメーションビデオはこちら

神への賛美の歌が聖書に登場するのはこれが初めてだが、ここから神を賛美することが一般的になっていく。

そして今日、ほとんどのメシアニック・コングリゲーションには賛美チームがあり、歌と音楽をもって神を拝し、賛美から集会を始めるのが一般的だ。神とメシア・イェシュア(イエス・キリスト)を賛美するという目的と同時に、霊的な雰囲気を作ることによるメンバーの心の準備という意味合いもあるだろう。
この「海の歌」から現在に至るまで、歌と音楽は私たちの霊と信仰に影響と霊感を与えるのだ。 

(cityofdavid.org.il より)

ちなみに近年、ダビデの街の発掘調査で巡礼者を神殿に導く古代エルサレムの通りが発見された。その宮・都のぼりの道には、巡礼者を励まし、神聖な神殿に上る前の霊的準備のため、都上りの詩篇(120~134篇)を歌う祭司が立ったであろう、小さな演壇を見ることができる。
この都上りの歌は、現在でもユダヤ人にとっては特別な意味を持ったものであり、シナゴグでも唱えられている。
 
ダビデの街を訪れた人は、ぜひその道とその演壇を見て頂きたい。
そこを歩き、またはその演壇に立ち、祈りと歌を捧げたであろう、聖書時代のユダヤ人に思いを馳せることができるからだ。これを想像すると、聖書時代にタイムスリップしたようでとてもわくわくする。エルサレム神殿に向かう多くの巡礼者たちは、イェシュア(イエス)が盲人を癒したあのシロアムの池、町の低い地点から神殿に向かって上って行った。600メートルほどの階段状になっている通りを、ゆっくりと進んでいく。そして通りに沿って設置されていた演台に祭司が立ち、都上りの歌を歌い何万人もの巡礼者を迎えていたのだ。
これらの歌の目的も、人々が神殿に向かうための心の備えをすることだった。
 
教会と同様、シナゴグでの礼拝も(安息日に楽器は利用しないが)賛美と祈りで始まり、私たちはしばしばそれを歌う。歌は私たちの精神を高め、私たちの感情に影響する。それによって私たちは心が奮い立ち、楽しくなったり、または逆に歌や音楽によっては悲しくなったりもする。

黙示録の『モーセの歌』

このように私たちは音楽を必要としており、例えば黙示録にはモーセの歌が登場する。 

彼らは神のしもべモーセの歌と子羊の歌を歌った。
「主よ、全能者なる神よ。
あなたのみわざは偉大で、驚くべきものです。諸国の民の王よ。
あなたの道は正しく真実です。
主よ、あなたを恐れず、御名をあがめない者がいるでしょうか。
あなただけが聖なる方です。
すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。
あなたの正しいさばきが明らかにされたからです。」

黙示録 15:3~4 

モーセ五書(トーラー)には三つの詩があり、今回登場する「海の歌」はそのなかのひとつだ。参考までにもう2つは、「井戸のうた(民数17章)」と申命記32章にある「聞きなさい」だ。
 
では黙示録で言及されているモーセの歌とは、これら3つのうちのどれだろうか?私の意見では、黙示録の文脈・雰囲気により適しているのは今週の『海の歌』だ。
なぜならそれが歌われた時、イスラエル民族は贖われた直後であり、海のそば・海辺に立って、神の贖い・救いと神の栄光について歌っているからだ。
イスラエルでは、伝統的な朝の祈りの一環としてこの海の歌が毎日唱えられ、ユダヤ人はこの歌についてよく知っている。

奇跡と信仰 

カラヴァッジョによる「聖トマスの不信」(1602)

神は目の前で海を分けられてイスラエル民族を海の中を通らせ、エジプト全軍が入るとその壁は閉じられて、彼らを覆うこととなった。
ビリーバーとして私たちは、私たちの信仰の根拠として聖書で起こった奇跡に目をやる傾向がある。奇跡こそ神の存在の証明であり、それを信じる私たちの信仰が真実であることの証拠となるからだ。
 
そして実際に預言者は、しるしと奇跡を行なった。なぜか?
誰かが現れ預言者として主張した場合、私たちはそれをどう受け入ればよいだろう。その人が本当に神から遣わされたと、どうやって確認できるだろうか?多くの場合、それは奇跡だったのだ。奇跡を通して民は、その人が預言者だと知ることができた。
 
人は何か確固たるものを目にするまでは、信じることが極めて難しい。
それはイェシュアの弟子である、トマスからも分かる。彼はイェシュアの弟子だったが、イェシュアが十字架による死からよみがえったとは信じられなかった。 

そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。
しかし、トマスは彼らに
「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」
と言った。

ヨハネ 20:25 

彼はイェシュアに実際に会い、十字架による傷・穴を見た後に信じた。
この箇所は多くの場合トマスの不信仰・信仰の小ささという結論になるが、人がいかに奇跡を必要としているかの素晴らしい例だ。私たちも例外ではない。
そしてもしこの目でイェシュアの手やわきの穴を見ることができれば、世界中が皆彼を信じ、疑いを持たないだろう。 

これはルカの福音書16章の、「金持ちとラザロ」を思い出させる。
イェシュアは、生涯金に困らずぜいたくに暮らしていた金持ちについて語っている。そしてその横には、金持ちの食卓から落ちるものでも良いので腹を満たそうとしていたラザロという名の、非常に貧しい人が生きていた。そして彼らは二人とも死に、地上での生涯を終えた。
 
イェシュアのたとえ話は、彼らの死後が舞台になっている。
ラザロは御使いたちにより、天国のアブラハムのふところに連れて行かれた。
そして金持ちはどこへ行ったのだろう?―地獄だった。そこで苦しんでいる間、アブラハムの側にラザロを見た金持ちは、アブラハムに懇願し始めたのだ。 

金持ちは言った。
『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。
私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
しかし、アブラハムは言った。
『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
金持ちは言った。
『いいえ、父アブラハムよ。
もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』

ルカ 16:27~30 

アブラハムはこう答えている―
彼らにはモーセと預言者とトーラーがある。それに従って生きるならば、彼らが地獄に行くことはない・・・
 
すると金持ちはこう答えた―
「兄弟たちはトーラーを知ってはいるが、信じていない。しかし死者が生き返り、このことを話せば彼らはそれを見ることによって信じ、自らの人生を変えるだろう」 

12世紀のイギリスの讃美歌集の挿絵にある、
「金持ちとラザロ」

しかしアブラハム、いやイェシュアはこう突き放している― 

『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、
 たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、
 彼らは聞き入れはしない。』

16:31 

実はこの譬え話を深く読むまでの長い間、私は「奇跡を見たとしても、それは私たちの信仰を変えることはない」という、イェシュアがここで語った感覚を理解できないでいた。
「奇跡を見れば、信仰がきっと強められるだろう」と考えていたのだ。
奇跡は信仰を強めない、トーラーを信じない人は奇跡をも信じることはない―
こんなイェシュアの言葉を理解せず、共感できずにいた。
 
そして今週、私たちは人類史上最も偉大で有名な奇跡について読んでいる。
イスラエルは海と荒野の間に挟まれ、エジプト軍が近づいている。助かる可能性は全くなかった。しかし突然神が海を開かれ、イスラエルの民は海の中の乾いた土の上を歩き、海を通り抜けた。
 
そして紅海・葦の海の奇跡の直後に、こうある。 

こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。
イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。
イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。
それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。

出エジプト記 14:30~31 

イスラエルの子らが主を信じた理由は何か?
彼ら救われて奇跡を見、体験したからだ。
 
やはり、奇跡は人を信仰に至らせ、信仰を強めるではないか。
しかし続きを読めば、それもほんの少しの間だけだったことが分かる。奇跡によって神とモーセを信じるようになった神の選民は、その後金の子牛の罪を犯している。海が分かれるようなとてつもない奇跡と贖い・救いを経験した民が、だ。 

そしてその前兆は、今週のパラシャの中にも見られる。
出エジプト記15章の後半部を読めば、葦の海の奇跡の3日後にはマラでの水の奇跡が起こっている。しかしこの奇跡がいかに始まったか― それは神への信仰・信頼ではなく、「何を飲めばよいのか」という不平・不満だった。
天からのマナ、岩からの水、破れたりすりきれなかった靴や服、雲の柱と火の柱など数多くの奇跡が、彼らを本質的に変えることはなかった。
そして最終的に出エジプトを経験した世代は荒野で死に、約束の地に入ることはできなかった。 

これらのことを受けて、ユダヤの賢者たちはこう言い残している― 

「奇跡が信仰をもたらすのではなく、
奇跡を見るための心の準備を信仰が行うのだ。」 

人は結局、奇跡に対する合理的な説明を探そうとする。または時間とともにその印象・記憶とその熱は消えていき、風化・忘却されることとなる。それゆえイェシュアは、金持ちとラザロの譬えを通して、神への完全な信仰には生涯を通じた地道な献身が必要であると語っているのだ。
 
真の信仰は、時間を掛けての聖書を学び、そのメッセージに忠実に従い、毎日自分自身と向き合い、時には律することによって得られる。そしてそうして築かれた本当の信仰は、復活や海が割れるなどの奇跡からは得られないものなのだ。
 
信仰は神のことばから始まる。
イェシュアの弟子として、共に御言葉を学んでいこう。
日本の皆さまに、平安の安息日があるように。
シャバット・シャローム。

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