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第15週:ボー(行け)

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基本情報

パラシャ期間:2023年1月22日~1月28日

通読箇所

トーラー(モーセ五書) 出エジプト記 10:1 ~ 13:16
ハフタラ(預言書) エレミヤ書 46:13 ~ 28
新約聖書 ルカの福音書 2:7 ~ 30
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所) 

単数形の子羊―
ヨセフ・シュラム

ヨセフ・シュラム師
(ネティブヤ エルサレム)

エジプトでの430年間

聖書の中には何百もの災害が出てきており、先週と今週の2つのパラシャではそのうちでも良く知られた10個が登場する。そのどれをとっても、すべては神から来たものだ。したがって、それを終わらせられるのも神ご自身だ。しかしこれら10の災害『エジプトの災い』はあくまでエジプトの地のみで起こったもので、地球規模で起こった災害はノアの洪水だけだ。
(現代で言えば、記憶に新しいパンデミックは地球規模ではあったが・・・) 

さて今週のパラシャは、イスラエルの子らがエジプトから出発した瞬間を切り取っている― 

四百三十年が終わった、ちょうどその日に、
主の全軍団がエジプトの地を出た。

出エジプト 12:41 

このようにイスラエルは430年間をエジプトに過ごしたが、その後半の約半分=約200年は奴隷として過ごした。 

この出エジプトの物語で興味深いのは、当時はカナンもエジプトの領地・植民地だったという点だ。それにもかかわらずファラオは、イスラエル民族がエジプト本国を出て(自身の領地である)カナンの地に行くことを許さず、拒否した。ファラオとその補佐役・家臣たちが強硬に反対したのは、イスラエルを奴隷の重労働から解放することへの拒否反応からだった。

青銅器時代は紀元前3300~1200年で、この時代にエジプト王国は地中海からイタリア、ビクトリア湖(ウガンダ・タンザニア)から紅海、そして中東までと、当時考えられていた世界のほぼ全体を統治するほどの、まさに『世界の盟主』だった。
したがってエジプトが奴隷にしていた民族はイスラエル民族だけではなく、他にも数多の民族(アジア人やアフリカ人)が奴隷になっていた。しかしイスラエル民族がいなくなると、エジプト本国の経済にダメージを与えるほどイスラエル民族は奴隷として重要なマンパワーだったのだ。 

イスラエルの神がどういう神であるか

ファラオとエジプトの賢者・呪術者は、イスラエルの神がどういう神であるかを知らなかった。それ故に、神はファラオの心をかたくなにされた。天と地の造り主で王なる神が、地における最大の支配者であるファラオですら天の王である自身の足元には全く及ばないということ、自身こそが最も力ある全能の支配者であることを明らかにするのが目的だった。 

神は専制君主ではあるが、人による専制君主とは違い非常に慈悲深く寛大であり、御心に欲するところを必ず完全な形で成し遂げられるお方だ。このイスラエルの神は、私たちの住むこの星全体の創り主であり、太陽と月と星々、宇宙全ての創り主だ。そして私たち人類が発見していない星も全てが神のわざによる結果である。 

神はいつも自身の道を、被造物に対して示される。生き物などの自然に対して、そしてもちろん自身のかたちにしたがって創造された人類に対してもだ。神は自身のみがこの世界を創造しコントロールしておられると世界中が知ることを望んでおり、エジプトに対してもこの世界は(ファラオではなく)神だけのものであることを知るように望んでおられた。
そして神が何かを要求された時には、同時神は必ずご自身の道を示し、その上を私たちが通るように示されるのだ。 

重要なのは子供たち、次の世代

(pjlibrary.org より)

出エジプトから私たちが学べる別のポイントは、神は私たちだけでなく、私たちの子・子孫とその世代を気にかけておられる、という点だ。
聖書において「イスラエルの子ら」というのは当時のイスラエル民族をまずは指すが、そこにはその先の子ら・未来の世代のことを考えての言葉だ。
イスラエルの子らという表現からも、重要なのが子供たちや次の世代であることが分かる。そして子供たちを見ればその親と、その世代がどれだけ健康な世代かが(現在でも)わかる。 

したがって子供たちは、律法(トーラー)の中心的テーマになっており、今週のパラシャにはこうある― 

主はモーセに言われた。
「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。
また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る。」

出エジプト記 10:1~2

出エジプトの奇跡や災いなどという壮大なドラマは、ただ単に当時のイスラエルの民を奴隷から解放するためだけでなく、子孫たちが― 21世紀を生きる私たちも含め ― 神の御業を聞かされ、主を知るためでもあったのだ。 

神がファラオの心を頑なにされたのはフェアか? 

(bibleask.org より)

10章1節で神は「ファラオの心を硬くした」とあり、それについてトーラーは繰り返し語っている― 

① 7:13~14:(杖がヘビになったことを受け―)

それでもファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。
主が言われたとおりであった。
主はモーセに言われた。「ファラオの心は硬く、民を去らせることを拒んでいる。」

② 7:22: (ナイル川の水が血になったことを受け―)

それで、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。
主が言われたとおりであった。 

③ 8:15 カエルを這い上がらせる災いの後―

ところが、ファラオは一息つけると思うと、心を硬くし、彼らの言うことを聞き入れなかった。
主が言われたとおりであった。

④ 8:19: (血のちりがブヨになったことを受け―)

呪法師たちはファラオに「これは神の指です」と言った。
しかし、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。
主が言われたとおりであった。 

⑤ 9:7 (家畜の疫病の後―)

ファラオは使いを送った。すると見よ、イスラエルの家畜は一頭も死んでいなかった。
それでもファラオの心は硬く、民を去らせなかった。

 ⑥ 9:34~35 (雹と雷の災いの後―)

ファラオは雨と雹と雷がやんだのを見て、またも罪に身を任せ、彼とその家臣たちはその心を硬くした
ファラオは心を頑なにし、イスラエルの子らを去らせなかった。
主がモーセを通して言われたとおりであった。 

このように、6度にもわたってファラオは自分の心を頑なに/硬くしている。ファラオは地上における最高位の人間として、誰にも指図されたことがなく自分の思いを貫いてきた。

モーセはファラオの妥協案に対して、心からの応答で交渉していたが、ファラオにとってはモーセの言い訳がでまかせのように思われた。そこでファラオは、モーセとのやりとりの中で次第に心を頑なにしていったのかも知れない。
 
ファラオは全イスラエルを行かせることを拒み、壮年の男子だけが行っても良いとの譲歩案を出したが、結果的には交渉は決裂し新たな災いがもたらされることとなった。女性と子供たちを残して行けと要求した後にはいなごの災いが、家畜と財産を残していけとの要求の後には闇の災いが続いた。 

10の災いはいったい何のためか?

10の災い(ヘブライ語では神からエジプトが撃たれたということから、「エジプトの(受けた)打撃・ショック」と呼ばれる)を朗読する際、常に疑問になるのが「いったい何のために、このような10もの災いが(一撃ではなく)必要だったのか」というものだ。
その理由に対しては、聖句からいくつかの答え方ができる。 

理由1)  出エジプト記 10:1

ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。
それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。

→ A. 神がしるしをエジプトに対して行うため。

ヘブル語でこの一節の前半部は、「パロの中に行け」とも読める。
中に行け―この神の命令は、モーセに対してただファラオのいる場所行き神の言葉を伝えろ、というだけでは十分ではない。「ファラオの心の中に割って入って行け」という意味が、込められている。 

これはファラオと、彼が代表するエジプトに対するテストだった。エジプトがしるしと災いの意味を正しく理解するか、全能の神は警告としてこれらのしるしを行っており、

  1. イスラエルは神の民であること

  2. 彼らをエジプトに送ったのも神であること

  3. 神が父祖に対して土地を約束されており、それを成就時が来たこと

を彼らが知り、理解するためだった。 

創世記15:16で神はアブラハムに対し、「4代目がここに戻ってくる」と約束されている。
ファラオは「約束を守られる神」というものを、知らなかった。エジプトにはそのようなコンセプトが、おそらくなかった。

そしてその神は現在、アリヤ(イスラエルへの帰還)という形で100か国以上から、ユダヤ人がイスラエルに戻ってきている。これはシオニズムという運動の枠にとどまらない、まさに「神の業」なのだ。
 
今週のパラシャの冒頭で神がモーセに命じたのは―

モーセよ。
ファラオの心の中に割って入って行き、
ファラオが私について理解できるように話せ。

ということだったのだ。
 
この箇所から分かるのは、神は人の心を熟知されておられるということだ。人は試練・テストそして痛みなしには本当の意味では何も理解しないことを知っておられる。それはエジプトに限らず私たち(ユダヤ人・異邦人を問わず)も全て同様だ。
しかし私たちは御言葉を反芻して学び、それから経験することにより、理解できるようになっている。聖書を通じて私たちは、頭と心で理解するのだ。
 
神は、エジプトも愛しておられた。
しかしエジプトは世界帝国として思い上がり、自分たちの利だけを押し通すようになり、ヨセフを通してエジプトに繁栄をもたらした「神」を忘れ敵対するようになる、その民を奴隷として迫害し始めた。
ゆえに神は遂に歴史の舵を切って、エジプトに対して文字通り『鉄槌』を下されたのだ。 

理由 2) 出エジプト記 10:2

また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。
こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る。 

→ A. イスラエルとその子たちが主を知るため

出エジプトは壮大なドラマや劇場でのショーのように捉えられがちだが、この物語の核は魔法や奇跡・恐ろしい災いではない。出エジプトの中心は常に家庭、子供たちにあるのだ。それは、この聖句からもクリアだ。 

あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、
あなたがたはこう答えなさい。
『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。』

出エジプト記 12:26~27 

過越の祭を祝う理由は出エジプトとそれによる贖い・救いの記憶だが、それは子供たちに話すという継承のためだ。子供たちが質問したときに答え、過ぎ越しの祭の意味を次の世代、100年後そして1000年後と、世の終わりまで伝えていく― これ以上の理由と意義はない。
そしてイスラエルを通して、世界が主を知るためだ。

このように出エジプトのドラマ・災いには、エジプトに向けた理由とイスラエルに向けた理由があり、これは神のわざが持つ2つのベクトルでもある。神はイスラエルと諸国民(エジプト/異邦人…)の両方に対して同時に、しかも同じわざを通じて働き掛けられるのだ。

単数形の羊が意味すること―

ゲリジム山で行われた、サマリア人の過ぎ越し(פסח/ ペサハ)のいけにえに行ってきました。

Posted by シオンとの架け橋 on Sunday, April 25, 2021

(↑ サマリアびとは現在でも、出エジプトの記述にあるように過ぎ越しの子羊のいけにえを行っている。2021年の様子。)

もう一つ興味深いのは出エジプト記12章にある、最後の災害だ。これは第一の月、現在のニサンの月の14日に起こった。神の使いたちが降りてきて、鴨居に血の塗られていないエジプト人の初子を打ち、カナン人でもエジプト人でもイスラエル人と同様に鴨居に血を塗った人々は助かった。
 
イスラエルの子らは神の命令に忠実に従い、10日に羊を選び14日にほふって、鴨居にその血を塗り、その後焼いて夜中までに食べ(残してはいけなかった) 、イーストが発酵する時間がないので種なしパンを作り、エジプトで得た財産を持って、夜明けに急いでシナイ砂漠へと出て行った。
これが、『最初の過越』だ。
 
そんななかに、こんな一節がある。

あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。
そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り

出エジプト記 12:5~6 

ここで奇妙なのは「それを屠り/ kill (slaughter) it」 と、子羊・ヤギが単数形になっていることだ。
これは注目に値する。
イスラエルの全会衆が集まって一匹の羊を殺すのは物理的に不可能なので、文法的にはここは「それらを屠り/kill (slaughter) them」 となるべき所だ。
なのになぜ単数形なのだろうか? 

ユダヤの賢人たちはこの単数形に対して疑問を持ち、様々な解釈を展開している。
しかしビリーバーである私たちはこの聖句が特別な意味と秘密を持っており、後に起こったことを前もって暗示しているという事実に気付くことができる。

その約1200年後の同じニサン月の14日そして同じ時刻の午後に、神による究極的単数形の小羊であるイェシュアが、ユダヤ人たち(サンヘドリン)とローマ人(ローマ総督・異邦人)により死刑に処された。
まさに私たちの主、イェシュア・マシア(イエス・キリスト)は過越の小羊なのだ。 

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

ヨハネ 1: 29 

Iコリ5章にあるよう、私たちにとって究極的かつ単数形の過越の小羊、キリスト(メシア)は既にほふられた。なので悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、皆さまと過越を祝えればと思う。
 
日本の皆さまに、平安の安息日があるように。
シャバット・シャローム。

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