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第32週: べ=ハール(山で)

  • パラシャット・ハシャブアとは?→ こちら


基本情報

パラシャ期間:2024年5月19日~ 5月25日 

通読箇所

トーラー(モーセ五書) レビ記 25:1~26:2
ハフタラ(預言書) エレミヤ32:6~27
新約聖書 ルカ 4:16~30
(メシアニック・ジューが合わせてよく読む新約の箇所)

信仰と霊的に健康な社会とのバランス
ユダ・バハナ

ユダ・バハナ師
(ネティブヤ エルサレム)

ユダヤ的祈りに見る、4つの要素

レビ記も、もうすぐ終わる。この書は、さまざまな捧げ物やいけにえの説明から始まっていた。そしてその後には聖所での祭司の礼拝に関する順序・勤務内容が続く。ソロモン王以降の王国時代のイスラエルでは、このいけにえの制度は幕屋ではなく神殿で行われることとなった。西暦70年に第二神殿が崩壊して以降は、私たちには神殿がない時代が続いている。しかし私たちがシナゴグで捧げる祈りの不可欠な部分として、いけにえとその順序が残っており、宗教的なユダヤ人たちはいけにえを捧げる代わりに、『いけにえに関する祈り』を捧げている。
 
ユダヤ教の朝の祈り「シャハリート」は、 四つの部分に分かれている。その最初の部分は、毎日の捧げものと神殿での礼拝を思い出させるものになっている。この祈りは、神の前に立ったときに神聖・純粋さと私たちの現状である罪や汚れといった、2つの間の大きなコントラストを私たちに突き付けている。
 
そしてその次の二番目の部分には詩篇が含まれており、これは魂を高揚させ神の前に立つ準備を整える。これは教会での礼拝で言う、ワーシップ・賛美の目的と同じだ。
そして次の部分は「シェマ(聞けイスラエル)」と呼ばれ、礼拝参加者たちは神の国のくびきを負い、神を王として戴冠させる。そして、「私はここにいます。喜んであならに耳を傾け、奉仕します」と宣言するのだ。
そして最後の4つ目のセクションは、「シュモナ・エスレ(18)」または「アミダ(起立)」と呼ばれる祈りだ。礼拝者は神の前に文字通り起立し(アミダ)、すべてのことについて神を賛美し、願い、感謝するのだ。
 
こんなユダヤ的な朝の祈りとよく似た方法で、多くのキリスト者は霊性を高めて神との出会いに備えるため、賛美と歌で礼拝を始める。 

パラシャのメインテーマ『安息年』

少数だが、安息年を守っている畑も…

今週のパラシャでは、主にシェミタとも呼ばれる「安息年」と「ヨベルの年」について話す。これは農業を1年間休業するだけでなく、土地の償還・元の所有者への返還も行われる年だ。また無利子でお金を貸し他の人を助ける、という考えについても学ぶ。最終的な目標は、隣人からの支援を受け経済的に自立することだ。しかし状況が特に厳しい場合には、自らを奴隷として売ることもできる。
 
今週のパラシャの、始まりを見てみよう―

主はシナイ山でモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。六年間はあなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の刈り込みをして収穫をする。
七年目は地の全き休みのための安息、主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の刈り込みをしたりしてはならない。
…これは地のための全き休みの年である」

レビ25:1~5 

この聖句から、有名なヘブライ語のことわざが生まれている。 

「シナイ山で安息年について議題にするとは?」 

シナイ山でモーセを通じイスラエルが律法を受け取った時、彼らは自身の農地を所有しておらず7年に1度自身の農地を休ませるという「安息年」は、全く無関係であり現実味のないものだった。
したがってこのことわざは、遠く離れ・無関係に見える2つの問題のつながりに関する驚きを表現したものだ。そしてこのことわざは、この聖句にとそれが与えられた文脈について有名なラビ・聖書解釈者ラッシーが抱いた、疑問から来ているとされている。当然ながら全ての戒めはシナイ山で与えられており、ではなぜシナイ山でこの安息年に関する戒めが与えられたのだろうか。 

メシアニック・ジューと口伝律法

イスラエルで最もユダヤ的な、メシアニック・コングリゲーション
である『ネティブヤ』
(公式HPより)

ラビたち、そして彼らが司っているユダヤ教では「書かれた律法=モーセ五書」と後にラビたちによって成文化された「口伝律法」の両方がシナイ山で与えられたと結論付けている。しかし聖書のみが神の霊感によって書かれたと信じるメシアニック・ジュー、そして多くの福音派の兄弟姉妹たちにとって、口伝律法もシナイ山で与えられた神のみ言葉とする、ユダヤ教の主張は受け入れられるものではない。
タナハ(旧約)と新約聖書こそが、唯一神からの直接的霊感を受けた神聖なものであり、私たちのいのちに対する最高の権威だからだ。
私は個人的に、聖書への理解に有用な口伝律法やラビ文献に関しては伝統的かつ重要なものとは考えているが、神からの拘束力のあるものとは決して考えていない。
(注:これはメシアニックの中では非常にユダヤ的なネティブヤの基本スタンスであり、メシアニック運動の主流派では口伝律法・ラビ文献自体は、その内容にかかわらず重要視されず一蹴する傾向が強い)
 
私たちもイスラエルの地におけるメシアニック・ジューという運動に参画しているが、その中にはよりユダヤ的な人(戒律を一部分守るような人)もいれば、全くユダヤ的な生活を送っていない兄弟姉妹もいる。ライフスタイルなど目に見える形では、完全に世俗的な人も多い。そして私はこれに関しては、個人と神の関係性で自ら決めるものだと思っている。なぜならユダヤ教でもハッキリと分かるように、外見上の宗教性と神や神のみ言葉に対する信仰心とは関係がないからだ。最も厳格なユダヤ教的生活を送っている人=最も強い聖書的信仰を持つ人、であるとは限らないからだ。
 
私も含めて一部のビリーバーは、「それなりに厳格にユダヤ性を守る人」だと考えている。
私たちはユダヤ教の社会という物差しを当てると、「世俗的な人」と「宗教的なユダヤ教徒」の中間の「伝統的な人」というものに位置し、ユダヤ教の主要な伝統や習慣を守るが完全にハラハ(正統派ユダヤ教の宗教法)に則った生活ではない、ということを意味する。アイデンティティや帰属意識の一部、そして家族の価値観や過去・現在・未来においてイスラエルが生存するために、(神が聖書という形で与えられたものであれば特に)一定の伝統は重要であるという立場だ。
 
口伝律法は神のみ言葉ではないが、ユダヤ人の霊的文化として古くからある豊かな伝統や習慣の根幹になっており、聖書やイェシュアのメッセージに相反していないのであれば、リスペクトするのが良いと私たちは考えている。そこで私たちは、過ぎ越しの祭/ペサハの夕食=セデルでは伝統的な式次第である『ハガダ』に従い、過ぎ越し(ペサハ)を祝っている。
そしてこれら(完全な世俗派・無神論者でなければ)多くのユダヤ人たちが行う習慣の多くは、イスラエル国家・ユダヤ民族に属する一員であるという、私たちの帰属意識を高めてくれる。私たちはイスラエルという地・社会でイェシュアの看板を背負う者として、子供や孫たちにもこの国の未来の一員にであり続けて欲しいと願っているのだ。 

神の戒め・トーラーが人によって変わる?

ユダヤ人史で最も偉大なラビの1人、大ヒレル。
国会議事堂(クネセット)前にある、メノラにもからのモチーフが。

さて、安息年(シェミタ)における負債の帳消し・徳政令を見ると、トーラーの変わらない側面と変化する側面を考えさせられる。天における原則は変わることがないが、私たちが生きるこの地上での生活は動的・ダイナミックであり、神は時として地上の責任者に対して変化を付ける権威を与える場合もある。
イェシュア自身、人々に与えられた神からの権威の重要性について、次のように示している。 

わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。
あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、
あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

マタイ 16:19 

イェシュアのペテロに対する言葉は、時代・場所に従って人々は戒めを取り消したり、変更したりする権限を持っているということを物語っている。もちろんこれは、人が恣意的かつ自身の益のために神からの戒めを変えることができるという意味でも、「神がひとり」や「イェシュアが神の子」などという聖書的信仰の根幹を変更できる、という意味では決してない。
しかしそれぞれの世代・生きている時代から、私たちにできるのは何なのか、必要なのは何かを見極めたうえで、律法の中の戒めという表面・結果だけに囚われず、その裏にある本来の意図・神のみこころに焦点を当て、それに沿った変更などは歴史的にもされてきた。
 
その一例が、安息年による徳政令・借金帳消しというトーラーの部分的廃止だ。これは大ヒレルと言う、イェシュアよりも一世代前の著名なラビによって取り決められた変更だ。
 
本来の安息年とは、経済といった観点からの社会的弱者に対して重い負債という終わらないループから抜け出し、再スタートを切る機会を与えるものだった。しかしそれは時間と共にうまく機能しなくなり、大ヒレルはそこに1つ問題を見た― 裕福な債権者が、安息年によって7年ごとに貸していた自身の財産を失なうことを恐れ、貧しい人々に対して融資をやめるようになっていたのだ。
皮肉な話ではあるが、借金を出来なければ野垂れ死にしてしまう貧しい人々もいる。そこでヒレルは、貧しい人々が借金ができる状況と作るため=富んだ人々が融資し続けるためにも、7年ごとの安息年による徳政令を中止するのが最善との判断を下した。
 
当時は賛否両論あったこの決定だが、今日ではイスラエルの大部分で安息年による負債免除は無くなっている。家や車を十年単位のローンで購入した際、翌年が安息年だからと言って1年間の支払いだけで家や車をじしんの物とし、借金が消えることはなくなっている。 

安息年・安息日をどう考えるか

安息年になると、宗教的なスタンスによって買える野菜・果物が通常の年以上に複雑に…
(jpost.com より)

ちなみに安息年の命令は、25:2に「わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき」とあることから、イスラエルの土地に対してのみ適用されたものだ。したがって近代になりユダヤ人がイスラエルの地に、土地の主として戻ってくるまではユダヤ人にとっては関係がない問題だった。
 
しかしユダヤ人がイスラエルの地に再定住するため帰還し始めたら、ユダヤ人の農場が7年に1度1年間の畑仕事をやめるという命令に従ったら、どうなるだろうか?― アラブ人たちの農業に対抗できず、経済的に生き残ることはできない。
そこで解決策としてラビ・クックは、ユダヤ人の所有する土地を安息年の間だけ一時的に売却することで、「自分の土地ではない」という状況を作り、安息年もユダヤ人が同じ畑を耕作し続けられるようにすることを決めた。
これに対しては保守的な人々は、土地を一時的に売却するという解決策に反対した。神の命令に従うには自己犠牲が必要、というのが彼らの主張だった。しかしラビ・クックはすでに多くの課題や困難・貧窮に直面しているユダヤ人農民を支援するため、この決定を下した。
 
この『リベラル』にも見えるラビ・クックにも、神に仕える信念があった。イスラエルの土地においてユダヤ人の存在・社会を回復、復興することが国家救済、そして終末における贖いの兆候と信じていたのだ。そのためにはユダヤ人入植地の設立と、農業の発展は必須だった。私も個人的にユダヤ人開拓者たちに寄り添い支持し、入植地を崩壊から救ったラビ・クックの判断に全面的に同意している。
 
神のトーラー/教えの目標は人々を互いに近づけ、また人々の住む社会と神を近づけることだ。したがって指導者は信念を持ちつつも、人々の住む社会に注意を払わなければならない。法律やトーラーを一時的に変えなければならない必要性を認識し、そうしなければ公衆に害を及ぼす可能性がある場合に対しても備えなければならない。
 
今日は、安息日に関しても同じことが言える。安息日とイスラエルの経済的な能力・競争力は、常に大きく重要なトピックだ。安息の期間であっても、経済や農業に支障をきたさないように創造的な解決策を見つける必要がある。
 
安息年には現在、海外から農産物を輸入すれば問題はない。しかしイスラエル国内の農民は、どうなるだろうか。彼らが破産してしまえば、元も子もない。それを防ぐため、イスラエルの農業の今と未来を守るためにはどするべきか? 社会として私たちは共に肩を並べ、一致団結する義務がある。安息年も、私たち民族が一致して『安息』を享受できなければ、その例的意味は果たせないままだ。
 
私たちが団結し、イスラエルの農民が安息年を守ることができれば、それが本来は理想の姿だ。私たちが財布の許せる範囲で地元の農産物を購入できれば、再びこの戒めを守り約束された神の祝福を受けることができるだろう。この命令で約束されている成功と繁栄に加え、社会内における相互責任もより強力になり、協力的な社会も結果として形成されるだろう。 

バランスとリーダーに与えられた責任

(freeself.co.il より)

リーダーに与えられる権威という概念に戻ろう。
神から与えられた権威を祝う前に、リーダーには大きな責任が伴うことを覚えておく必要がある。最終的には誰もが神の前に立ち、自分のあらゆる言葉と決断について、神という裁き主に対して説明責任が生じる。そしてその影響力が大きければ大きいほど、神に対する責任と犯した場合の過ちも大きくなる。リーダーが受ける裁きと罰は、その影響力に比例する。
イェシュアの兄弟ヤコブは、こう言い残している― 

私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。
あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。

ヤコブ 3:1 

教師や指導者はより厳しくさばかれるため、私たちの権力への欲望に対しての強い警告の言葉となっている。このジレンマは、非常に難しい。一方でトーラーで定められたことは、詳細な指示を含み、指定された時間・場所で忠実に従わなければならない。 

私があなたがたに命じることばにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。
私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を守らなければならない。

申命記 4:2 

しかしその一方で人々は、この現実世界で克服できないような困難に直面する。
例えば、ユダヤ人が祖国に帰還を開始したときの安息年のようなものだ。7 年ごとに全ての借金を免除するのは現実的か。では、どうやって 20~30年の住宅ローンを組むことができるのか?それは、不可能だ。
または安息年を現状で守ったとして―資本主義・経済競争において、イスラエルの国産の農作物は輸入品に対抗できるだろうか。それも正直、不可能な話だ。
 
このように法律・戒めを正確に履行するということと、社会・コレクティブとして置かれた状況・その戒めを守れる能力という、この2つの間の適切なバランスを見つける必要がある。そして時としては、難しい決断を下す必要もあるのだ。これは、人の上に立つ権威を天から与えられた、指導者・リーダーの義務だ。
字義通りの律法・戒めを守ることと、その奥にある神のみこころを汲み、それに従って行動することは、時としてイコールではない。前者への度を過ぎた固執は、律法主義へと繋がる可能性もある。
 
では人またはコレクティブが正しい道を歩いているかどうか― どのようにして知ることができるだろうか?人はどうすれば命令の順守・御心の実践・霊的に健康的な社会構築、の適切なバランスを見つけることができるだろうか?
ヨハネ第一の手紙はこの質問に次のように答えている― 

子どもたち。
私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。
そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。

Iヨハネ 3:18~19 

新約聖書に響き渡る答えは、「愛」だ。
愛に基づいて行動するなら、私たちの良心は清いため、正しい道を選んだことがわかる。または間違ったとしても、適切な形で正しい道へと私たちは戻されるだろう。
 
日本の皆さまのうえに、豊かな週末があるように。
シャバット・シャローム!

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