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コロナ第五波を生き抜く為に#3[DAY 7] ホテル療養開始

週が開けて月曜日。日に日に咳も酷くなり不安に駆られる。だがこの日、いよいよ薬も切れることから、保健所から「オンライン受診可能なサービスを紹介する」と言われ、電話越しに薬を処方してもらい、それも家まで届けてくれた。少しだけ助かった。だが結局食料がないのも事実......。保健所からの定期的な連絡はあるが、症状も何も改善もせず、一抹の不安がよぎる。

「絶対にこのままではまずい......孤独死してしまう」

運命が変わったのはこの日の夕方。保健所の担当者から電話が鳴る。

「ホテル療養先が決まりました。お迎えに上がりますのでご準備ください」

数時間後、歌舞伎町のアパホテルに収容されると、まず最初に夕飯を食べた。だがもうこの時点で意識は朦朧としている。食事後にようやく待望のパルスオキシメーターで「血中酸素飽和度」を測るときがきた。急いで測ってみると......。なんと数値はすでに80%前後だった。

「え? 測り間違いでは? 再度お願いします」

「何度やっても同じですよ」

するとホテル内にいる看護師2名が部屋にやってきた。そこで目の前で数値を確認してもらい、ようやく救急搬送が決まった。

「大田区の病院に受け入れが決まりました。ただし人工呼吸器は対応可能だが、ECMO(エクモ)は対応できないがそれで良いか?」と聞かれた。

「僕に選ぶ権利なんてありませんよ。それでお願いします」

そして救急車に揺られ約1時間......。ようやく運命の地、某大田区の病院に緊急搬送された。

もうここからはあまり記憶が定かでなかった。断片的に覚えているのは「緊急連絡先」に兄の名前と連絡先を書いたこと。そして今からすぐに「レムデシビルを投与します」だった。

数時間後......。兄と母が病院にやってきた。レントゲンの結果、すでに重症化状態で、かなり危篤な状態だったらしい。これから人工呼吸器を取り付けて、ICU(集中治療室)での治療になるから、これで最後の可能性があるからと、病院内のロビーからのビデオ通信を使った、最後に泣き崩れる母と、気丈に振る舞う兄の顔だけが目に写った。

「必ず生き残れるから心配するな!!大丈夫だから!!がんばれ!」

そういう兄の声に励まされつつ、最後に目に浮かんだのは親友の顔だった。彼とは6年前にバンドでアメリカツアーを実現した親友だった。もしお互いどちらかが先に死んだ際には「必ず残った者が音楽葬をする」という約束を取り付けてある生涯の友人だ。

「まあ......。あとは運だけか。死んだら死んだで彼に任せりゃいいや」

そして僕は10日間の長き眠りに落ちた。

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