原稿用紙5枚の掌編小説「柿の実」
バスを降りて母の入院する病院に向かう途中で、空き家となった民家の柿の木が、たわわにその実を実らせていた。大きく伸びた枝が、垣根を越えて道にまで張り出している。手を伸ばせば容易にもぎ取れる高さに、色も形も申し分ない柿が重そうに枝をしならせている。
私は母の見舞いの品を何も用意してなかった。あれこれと考えてはみたが、母の喜びそうなものが何も思い浮かばず、今日に至ってしまった。体の不自由を覚えてからは、読書が母の一番の楽しみだったので、母の日や誕生日には私はいつも本を贈っていた。しかし最近は眼も衰え、老眼鏡もあまり役に立たなくなると、本を手にすることもなくなった。いつものように、病院前のスーパーで母の好きな甘いものでも仕入れようかと思ったが、私が選んだもので母が喜んだことなど、ついぞなかった。
私は柿の木の下をくぐりながら、あることを思いついた。あの柿を母に食べさせてやりたい――。
私は辺りを見回し、人気がないのを確かめると、手を伸ばしてその柿の実をもぎ取った。ひとつ、ふたつ・・・みっつ。
私は手に取った柿の実を素早くバッグに忍ばせ、その手ごたえのある重みを感じながら病院へ向かった。
食べやすいように小さく切りそろえた柿を皿に並べ、ベッドのオーバーテーブルに置くと、母はフォークを手に取り、そのひと切れを口に入れた。
「おいしい。秋の味がするね」
「甘いかい」
「すごく甘い。あなたも食べて見たら」
私は半分残った柿を手でつかみ、齧りついた。たしかに甘く豊饒な味がした。母はやや硬めの実を辛抱強く嚙み砕きながら私に訊いた。
「どこで買ったの?」
「職場の同僚からいただいてね。食べきれないほどあるもんだから、母さんに食べてもらおうと思ってさ」
私はとっさに言い繕った。
「そう、よくお礼を言っておいてね」
母が何の疑いも持っていない様子に、私は安堵した。そして私たちはしばし無言で、秋の味覚を味わった。すると母が、今度はふっと吹き出すような笑い交じりに言った。
「思い出しちゃった」
「なにを?」
「あなたが子供のころ、お隣の柿を盗んでお父さんからひどく叱られたこと」
私は思わずむせそうになるのを堪えた。
「そんなことあったかな」
母はゆっくりと、まるで御詠歌を詠うような口調で続けた。
「あったわよ。泥棒だって言うお父さんに、うちの庭までせり出している実を採ったのだから泥棒じゃないって言い張って、あなたはがんとして譲らなかったじゃない」
そう言えばそんなことも確かにあった。思春期に入る前の私は、滅多に父に反発することはなかったが、そのときは珍しく言い合った記憶がある。いずれにせよ、私はあの頃からまったく成長していないようだ。
私はそんなことを考えながらふと思った。母は私がこの柿をどうやって手に入れたのか、とっくにお見通しなのではないかと。それを遠回しに咎めるために、昔の話を言い出したのではないか。
――かなわないな。
私は母に気づかれぬよう苦笑した。
「ああ美味しかった」
母は実の半分ほどの柿を時間をかけて食べ終えた。そして窓の外を眺めると、ため息をつくように言った。
「まあきれい」
陽の傾きかけた西の空に、鮮やかな鱗雲が帯のように横たわっている。その白い帯の端がオレンジ色に輝いていた。
「毎日こうして空を眺めているとね、雲の向こうお父さんがいるような気がするの」
私は母の顔を見た。母は遠くを見つめる目で、独りごとのように言った。
「そろそろ迎えに来てくれてもいいのに」
私はお道化た言葉のひとつも言い返すべきなのかもしれない。しかしその言葉が見つからず、ただ口ごもるだけだった。母のジョークに過ぎないとは思うが、その奥底には母の本心が込められているようにも感じられた。日々の病との戦いは、母をそんな心境にさせるほど過酷なものだったのだろう。
空に視線を移すと、鱗雲を横切って一筋の飛行機雲がまっすぐに伸び始めるのが見えた。その先端を飛ぶ飛行機の窓から、父が手を振っているような、そんな気すらした。
母と二人の時間が静かに過ぎていった。私は窓辺に立ち、銀色の光を放つ飛行機に向かって呟いた。
――おやじ、母さんを迎えに来るのはもうちょっと待ってくれ。このひと時を、もう少し俺に味わわせてくれ――。
――完――
俳優の高倉健さんのエッセイ集「あなたに褒められたくて」の中で、ただただお母さんに褒められたい一心で役者業を全うしてきたという下りがあります。私もこの掌編小説を書いているとき、心のどこかにそんな思いがありました。
褒めてくれる母はもうこの世にいませんが、これから書く小説や詩は天国にいるその人に向けて書く手紙のようなものなのかな――そんな気がします。
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