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ひとの変化可能性を思い出す     ~平野啓一郎『富士山』を読んで~

私とこだま


私は仕事で月2往復は東海道新幹線に乗っている。
コロナ下の新幹線はガラガラで、ひと車両に数人しかいないこともざらだった。
ここ半年くらいはその状況も変わり、休日はほぼ席が埋まってしまうこともある。ひかりは特にその傾向が強く、特に急いでもいない私は空いているこだまに乗るようになっていた。
そんな私にとって、平野啓一郎『富士山』はまるで日常のすぐ傍にあるように錯覚する物語だった。
 
 

『富士山』に編まれた変化可能性


『富士山』を一読して私が感じたもの。
それは、“人間は人間を変えてしまう”という極々当たり前なことである。
ただその極々当たり前なことは、実際に経験するということ、Playすることが軽視される昨今、何処か信じられなくなってしまっている。
もちろんそうではないひとも大勢いるが、作中の加奈のように人間や物事をデータや言葉に削ぎ落としてPlayしたつもりになるひとが増えているのではないか?
そして、この流れは、新型コロナウイルスの蔓延によって加速されたように思う。
私たちは近しい人こそ接触に気を払わなければならないという環境を強いられ、多かれ少なかれ皆それに適応を余儀なくされた。この適応はひとを実際のPlayから遠ざける要因になってやしないだろうか?
『富士山』はこうした流れに浚われた人々に改めて、“人間は人間を変える”ということを思い出させてくれる。
 
 

自分のルールでひとを採点する 


『富士山』で津山は富士山の特等席E席を抑えるためにこだまを選んだ。
〈富士山をみるために席に拘る〉
これまでそんな発想すらなかった加奈は、その拘りを面倒なものだと感じてしまう。富士山をみるという行為をPlayする前から想像し、何処か軽蔑すらしているようだった。
そもそもマッチングアプリでの出会いから、加奈の津山に対する感情は彼女の計算法に基づいた減点方式によって形成されていたように思う。
・そこそこ面白そうな仕事を持っている。
・妙にへりくだった返しをするわけでもない。
こうした津山のデータは加奈にとっての及第点をギリギリクリアするものだったのだろう。
だから、関係は保留され、ダラダラと続いていった。
結局、彼女は津山の中身を受け取ることなくただ観察して、それを採点し続けていたに過ぎないのだろう。
そんな終わりのない審査の中、
偶々富士山のくだりまで津山は及第点を越え続けるわけだが、
きっと遅かれ早かれ加奈の減点により及第点を下回ることになっただろう。

加奈はずっと審査員のような目線で津山をみていたのだから。

加奈は津山という完成した作品を自分が傍に置くに足るかどうか。そんな目線でしかみていなかったように思う。
 
  
向かいの新幹線に偶々映った助けを呼ぶ少女。
彼女を巡った判断は人間の根源に関わるものであり、それを受けて生まれた決裂は決定的なものだ。
そもそも加奈の真に迫った言葉よりも自分の旅行プランを優先する逡巡は、津山という人間の浅ましさが透けてみえるようであり、加奈が許容できなかったのも頷ける。
この決定的な瞬間のみをもって関係を切断することにした加奈の決断自体は彼女の友人がジャッジしたように妥当なものであるだろう。
この瞬間を切り取ったならば、私だって彼女の選択を当然支持する。 
 

津山が置いていったもの 


この別離が根源的なものであるが故、私は二人の人生がその後決して交差しないことを予感した。そして、交差しない以上、当然加奈が津山によって変えられることなど何もないのだろうなと、何処か物語の終わりも感じとっていた。
しかし、物語は思わぬ形で彼らを交差させる。
津山が無差別殺人の被害者として、また、加奈の世界に現れてしまったのだ。
しかも、少女のSOSには呼応しなかった彼が、反射的に自分の命を賭して二人の少年の命を救ったという。

誰しもが想像し難い変化である。

当然、加奈はまざまざと津山の変化を見せつけられたのではないだろうか。
到底変わり得ないと加奈が信じる人間の根幹の部分、反射的に試されるその部分、津山はそんな根幹も変化し得ることを証明してしまったんだろう。
変化が根幹に関わる部分だからこそ、この証明は加奈の根幹を揺さぶったに違いない。
事実、その後加奈は名状し難い感情を抱え、彷徨うようになる。
そして、最終的に人が変化することを確かめるように、津山が拘り、加奈が切り捨てた富士山をみにいくことになる。
実際にE席から、驚くほど大きく迫ってくる富士山をみて、彼女は実感したのではないだろうか?
ひとは実際にPlayすることで言葉のレッテル張りを越えたものを受け取れるということを。そして、その受け取ったものによって、自分の中の揺らがない存在と思っていた方程式すらも訂正されることがあることも。
 
 
 
無差別殺人のニュースと津山が加奈の中でリンクした時、彼女は咄嗟に加害者としての津山を想像している。
筆者の巧みな描出によって加奈目線にシンクロしていた一読者の私も、同様の錯覚を覚えた。
しかし、事実彼は真逆の被害者で、かつ、加害者から少年達を守っていたわけである。
この錯誤は加奈がいかに津山という人間をみようとしていなかった現れではないだろうか。彼女はずっと彼の表面に浮ぶデータだけを拾っていたのだ。彼の中身を覗こうとは終ぞせず、津山のこうした変化可能性を見誤っていたのではないだろうか。
もし、加奈があの新幹線の瞬間まで、津山の中を覗き込もうというスタンスだったらば、どうだったのだろうか。
津山の逡巡に幻滅はするも、彼の中の変化可能性を信じ、関係を完全に絶つことはなかったのではないだろうか?そして、全く覗き込もうとしてはいなかったが、何処かで加奈はわずかながらそうした津山の変化可能性を感じていた部分はあったのではないだろうか。だからこそ、友人が当然とジャッジする津山との完全な別離にも一抹の後悔のようなものを感じていたのではないだろうか?
 
 

変化可能性と他者性の尊重の狭間で 


ただ、人は人と関わることで変化するが、それで二人が完全に親和するなんてことは幻想であり、そうした幻想は多分に暴力性を孕んでいるように思う。
『富士山』ではそこに焦点は当てられていないが、筆者は『本心』の中で“最愛の人の他者性の尊重”も描いている。
ひとはひととの関わりの中で、他者のことを想像するが、それは他者と完全に重なることはない。
自己という唯一性を尊重するならば当然考え至ることだろう。
実際に、局面局面によって、最愛の人とでも異なる選択をする場面は必ずあり、それは誰しもが経験することのように思う。ただ、最愛という関係性の元に、誰かの異なる選択を我々は尊重する。
ひとはひとを変化させる一方で、変化しない部分も時に尊重すべきなのだろう。その微妙なさじ加減の元、ひとは思い悩みながら生きていくのかもしれない。
 
 
 
最後になるが、
そもそもひとがひとを変化させることを信じていなかった加奈の行動が、どうやら津山に変化をもたらしていたらしいというこの物語の核は皮肉でもあり、希望でもある。
ひとは変化可能性を信じてようがいまいが、生きる限り本性として誰かを変え続けている。
この本性がある限り、ひとがひとを変えることを信じていないひとも、ふとE席から富士山を眺める瞬間が訪れるのかもしれない…。


加奈を追体験する


私は今日もE席から富士山を眺めた。
思えば私も加奈のように富士山を眺めるために、E席に座ったことなどなかった。

新富士駅の傍、冬の澄み切った空気の中、E席の小さな窓から望む富士山は驚くほど大きく迫ってきた。ほとんど遮蔽なく裾野まで露わになった富士山。代名詞的な冠雪はまだ控えめではあったが、青空とのコントラストが鮮やかだった。

この瞬間私に迫ってきたものは、言葉では決して体験出来ないものであり、体験する前と後で、私の中身は確かに変化している。
そう、物語も時に誰かの中身を変化させていくのだろう。

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