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(探究の旅①) 無から何かを、創造することはできるのか

連続して5回連載する “無の探究の旅” も、前回の “イノベーション思索の旅” と同じ2018年4月に書いた文章。正直、ここまで “無” を探究するとは思わなかった。今でも探究は続けている。当時の文章を少しアレンジしながら、書き記していくことに。

イノベーションに感じる違和感でふれたが、私のイノベーションに対する最大の違和感は、イノベーションの創造性を表現する「 “無(0)” から “有(1)” を生み出す」という発想・思考にある。無について、次のように書いた。

これらの本から「 “無” とは何か」について、科学(数学)と西洋哲学と東洋思想から問われた気がして、探究を始めた。西洋哲学と東洋思想の “無” の違いの説明は、まだ整理しきれていない。かえって混乱と誤解を生みかねないので、改めて書くことにする。4冊以外にも関連する多くの本を読み探究していく中で顕れた問いと要点を書き記す。

ここでいう “無” とは、何を顕しているのだろうか。
果たして “無” から何かが生まれるのだろうか。
そこに在るのは、本当に “無” なのだろうか。
何が、 “無(ない)” なのだろうか。

太字の整理しきれなかった話がカタチになって顕れてきたので、書くことにした。書くことで、曖昧だったことがみえてきた。書くことで、また意識していなかったことに目が向いていった。書くことも創り出すこと、と改めて感じた。5回に分けて、探究の旅を書いていく。

探究の旅① 無から何かを、創造することはできるのか
探究の旅② 無は何もないのか、それとも何かが在るのか
探究の旅③ 無は創造するものか、それとも発見するものか
探究の旅④ 東洋と西洋の無の違いから、無を辿る
探究の旅⑤ 無を想像し、新たな何かを創造する

旅を始める前に、違和感が生まれた背景にある私の人生の歩みについて少しふれたい。前回のイノベーション思索の旅もそうだったが、違和感は自分の内側に在る何かに大きく影響を与えていた。「何かおかしい」と思い、自分に問いかけることから始まった。今まで気づいていなかったことが、姿を顕した。

小学2年生から算数が得意で、大学進学で一番好きな歴史か一番得意な数学かで悩んだ末に、得意な数学を専攻した。
入社後SE(システムエンジニア)として配属されたが、得意であり好きな数字を扱う経理部に入社4年目に異動を申し出、それから約15年間財務会計を主に担当した。経理から出たいという人はいても、経理に行きたいという人は今までなく、変わり種だったらしい。
数字から経営をみていく中で経営全般を知らなければ判断ができないと強く感じ、在職中に国内経営大学院に通学し会計修士(MBA)を修得した。そう、数字が日常にある人生を歩んできた。

数学が得意なこともあり、ロジカルシンキング力は特技の一つ。“0” か “1” かの世界で住んできて、ゼロイチ思考が人より強い持ち主だった。“0” か “1” の二進数(二極)でしか物事を判断できず、小学生時代の担任の先生からは、「物事には白か黒以外にも色があるので・・・」と成績表に書かれた記憶がいまだに残っている。
私の思考は間がない極端な考え方で、物事をどちらかに決めたい時には人から判断をよく任された。だいたい、その判断は正しかった。

退職後は二色よりも多くの色を見るように、そして見えるようになった。それは、数字の世界から離れたからかもしれない。目に映る景色が大きく変わり、世界観が拡がった。景色や世界観だけでなく性格も考え方も柔和になり、思想的にも対立する二層でみなくなった。
しかし、思考の根底には残り続けた。それは、考え方が私の身体の一部になっていたから。以前は対立する二層でジレンマを感じていたが、今はその二層を行き来することができるようになった。

しかし突然、“0” か “1” かの思考の世界に歪みが生じ、違和感が生まれた。久々に「なぜ、なぜ」を繰り返し問い続けた結果、今まで理解していた「無から有を生み出す」という考えが全く想像できなくなった。それは、無(0)という概念に疑問を持ったから

「無から何かが、生まれるのだろうか。」
「無から何かを、創りだせるのだろうか。」

この疑問には『異端の数ゼロ』(チャールズ・サイフェ著)に書かれていた、紀元前のローマの哲学者ルクレティウスの言葉が大きく影響している。

無からは何も創造できない。
(P37より)

この言葉に触れた瞬間に、無について今まで培ってきた数学的、西洋哲学的な考え方が大きく揺らいだ。今まで築いてきた階段が当然足元から崩れ始め、階段の先もなくなり、階段の上で独り取り残され、不安な気持ちでいっぱいになった。なぜか目の前に、新しい疑問が突如現れた。

「未知なるものは、どのようにして創られるのか。」

疑問が好奇心を揺さぶり、不安は好奇心へと変わり、沸き起こった好奇心が膨らみ、ジャンルの異なる本を読みながら顕れたコトバから探究し続けた。疑問の答えは、「既知のものから創られる」。辿り着いた答えはいろいろな本にも書かれていたので一部紹介を。

新しい創造物は、既存のアイデアの組み合わせである。
(『どうしてあの人はクリエイティブなのか?』デビッド・バーカス著 P75より)
アイデアとは、既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない。
(『最高の答えがひらめく、12の思考ツール』イアン・アトキンソン著 P98より)

クリエイティブな経営者の代表のアップルのスティーブ・ジョブズも、雑誌「WIRED」のインタビューで次のように言っている。

創造性は物事を関連付けて考えることにほかならない。クリエイティブな人々に、『どうやって、そんなことができたのか』と尋ねたときに彼らがちょっと後ろめたい気分になるのは、実は彼らは何もしていなくて、ただ何かをみていただけだからなんだ。後からそれがはっきりしてくる。なぜなら、今までに経験してきたことをつなぎ合せ、新しいものをつくりあげていることがわかるからだ。
(『どうしてあの人はクリエイティブなのか?』P98より)

この「既知のものからつくる」は、日本文化にもある。和歌を作る技法の「本歌取り」が、それである。

本歌取りというのは、もともとは和歌を作る技法の一つを指す。その技法とは、有名な古歌(本歌)の一句か二句を取り入れつつ、新しい歌を自作するというものだ。ある作品のモチーフを意識的に取り入れつつ、新しい作品を生み出すことを、広く本歌取りと呼んでいるのだ。
(『美 「見えないものをみる」ということ』福原義春著 P65より)

多くのいろいろな言葉や考えにふれ、それらをパズルのようにつなぎ組み合わせることで、「無から何かを、創造することはできるのか」の答えに辿り着いた。

無から何か新しいものは、創造されない。
 無からではなく、
  既にあるものから、それらの組み合わせから、
   新たな何かが創造されていく。

探究の中で「無から有を生み出す」に対して、西洋哲学と東洋思想では受け止め方が違うことに気づいた。西洋哲学では否定し、東洋思想では肯定していた。西洋哲学の否定の背景には宗教が大きく影響し、長い間拒絶してきた。
しかし否定していた “無” が東洋から西洋に入り、西洋の考え方に大きな変革が起こった。科学の進歩にも大きく影響を与えた。このことを知った時に、疑問が次々起こった。

「西洋哲学と東洋思想の受け止め方の違いは何だろうか。」
「それは、無の捉え方の違いなのだろうか。」
「それとも、創造性の考え方の違いなのだろうか。」

もやもやした状態でいることは精神的に健康ではなく、答えを探す旅を始めた。旅は、“無” についての探究から始め、答えのでた無から “創造性” についての思索まで。

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