共同体から共異体へ。
いつからか、「共同体」という漢字に違和感を覚え始めた。
そのいつかまでは、「共同体」という在り方がいいと思っていたのに。
気づくと、「共同体」に何ともいえない圧力を感じるようになっていた。
昔から、そして今も、私は天の邪鬼。
ここで何度か書いているが、50歳になった今でも天の邪鬼。
右向け~、右ができない。
聞こえなかったふりをして、右を向かずに真正面を向いているときがある。
あからさまに、反対の左を向くこともある。
どちらかといえば、左を向いていることが多い。
人に合わせることはない。
人と同じでなくていい。
そう思って生きてきた。
これからもそうだ。
無理して人に合わせようとする人を見ると思う。
無理して合わせなくても大丈夫だよ。
自分らしくいる方が、似合っているよ。
波長や感覚に思想などが合うと嬉しくなる。
ついその空間が居心地よくなり、居場所のように思うことがある。
しかしいつしか、たくさんの感覚が同じ人が集まり、
同じでなければいけないような空気を感じてしまう。
そうなると、天の邪鬼の性格が一気に現われる。
気づくと、そこからいつも脱走している。
一言言って出ていけばいいが、何も言わず、しれっと出ていく。
逃げるのは、得意だ。
2017年まで居心地のよかったコミュニティから離れた。
人として好きで、尊敬できる人が多かった。
違った考えでも居られる場所だった。
しかし、同じ考えの人が多く集まると、変な空気を感じてしまう。
今、社会全体がそんな感じだ。
自分の考えが正しく、反対の考えの人に攻撃する。
共感者(?)が多いと、力を得たかのように攻撃する。
ネットだから、口激の方かもしれない。
「いいね/よくない」や「そう思う/そう思わない」がわからない。
二項対立を起こそうとする仕組みが、正直嫌いだ。
今の社会は、多様性の社会と呼ばれているらしい。
いろいろ考えなどがあって、それを受け容れることが大切だという。
しかし、本当に多様性といえるのだろうか。
自分たちにとっての多様性ばかりいう。
相手の多様性は一切認めない。
一対多とよく言われるが、
今は、多対多になって複雑すぎて嫌になってくる。
そして、その両方の多から離れた場所に自分が居る。
自分たちの考えに合わないと、相手を否定・批判する。
相手の話を聞かず想像せず、自分の思いこみだけで、言葉を発する。
そんなに即反応しなくても、少し待てばいいのにと思う。
実はこれは、かつての自分に向けて言ってもいる。
こんな風に思うようになって、かなり時間が経った。
そんな時、ある一冊の本の中にある社会がいいと思った。
それが、「共異体」。
そしてその本は、『モア・ザン・ヒューマン』。
SNSで知人が紹介して、久々にどうしようもなく読みたくなった一冊。
京都市の大きな本屋を何軒ものぞいたが、ある本屋以外置いてなかった。
そのあった本屋は、一番大きな紀伊国屋書店だけだった。
そこでは買わず、地元にある大きな本屋さんに期待をしたが、なかった。
結局、ネットで購入したが、実に面白い!
そして、私の今の思想にかなり近く、わくわくが止まらなかった。
大当たりの一冊だった。
その本の最後の方に、「共異体」の話がある。
異なる相手を認めあうコミュニティ。
違っていていいという社会。
この「共異体」という言葉は、ここ最近の言葉ではないらしい。
ネットで検索すると、随分前からあるようだ。
今だから、言葉が私の前に顕れたのかもしれない。
そういう出来事に、何度も遭遇する。
その度に、心が落ち着く。
そういえば、今週何気に番組表をみて、気になって観た番組があった。
Eテレの、ハートネットTV。
25日(月)から26日(水)までの内容はあ、
「共同体」ではなく「共異体」の世界観だった。
運命共同体というが、今は違うと思う。
運命は人それぞれ。
「共異体」を謳う政治家はこの先出てくるのだろうか。
党があって派閥がある閉鎖された世界だから、無理のように思う。
でも、出てきてほしいと思っている。
その社会になると、本当の意味で、生きやすい社会になると思うから。
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