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2017年8月1日(火) | 東北旅行記②

【 宮城(石巻) 】

今日の予定は二つある。一つは前日会った人たちとも共通の知人に会うことで、もう一つが「Reborn-Art Festival」に参加することだ。知人に会って一緒に花火を観るという予定が新たに加わった。花火での美しい光景が今でも忘れられない。

彼女とは石巻を訪れるたびに会っている。彼女は震災直後に東京から移住した。石巻に縁もゆかりもなく、気づいたら石巻でNPO団体を立ち上げるという、熱量がすごい人だった。そう、「だった」という過去形の人。会うたびに炎の質が変わっていった。
2014年に初めて会ったときは、真っ赤に燃えていた。触るとやけどしそうだったので、できれば関わりたくないなぁと思っていた。その後は少しずつ、青白い炎のように思えてきた。相手を燃え焦がすような炎ではなく、意志の強さと心の優しさを感じられる芯のある炎に変わった。ただ今にも消えそうにも見える。だから気になって、会いに行っているのかもしれない。

いろいろ苦労して団体を運営していて、人に言えない悩みをたくさん聴いている。彼女自身、人に弱音を見せられず我慢していたからか、会うたびに堰をきったかのように弱さをみせる。ただ、周りで一緒に働いている人たちも彼女が我慢していることを誰よりも知っている。
彼女を癒すために川開き祭りの花火に連れていってと頼まれた。夜は何の予定もなかったので、「Reborn-Art Festival」の後に花火を一緒に観た。

昔からよくわからないのが、一見強そうな人が私には弱いところをみせる。私はそんなに優しい人ではないのにも関わらず。負のエネルギーであふれそうな人が負のエネルギーを吐き出して、スッキリしていく。それは、私が相手に同化して感情を共有するからかもしれない。
ただ、吐き出される方はしんどい。時には重たい話などいろいろある。ある時、なぜ私に言うのかを聞いてみた。「じんさんは、寝たら忘れるでしょ。」と。外れてはいない、ただ寝るまでしんどいことを忘れている。
相手のこらえていたものが何となくわかり、そのことについてふれると、「なんでわかるのか」とよく言われる。ただ一時期、負のエネルギーを吐き出されるのが嫌になって、いや受けとめるがしんどくなって同化することを止めた。今は受け取っても、受け流せるようになった。

朝早くに彼女と会い、彼女の仕事のお手伝いを少しして、お昼ご飯を彼女の仲間の人たちと食べて別れた。駅に戻ってホテルに荷物を置いて、2時間くらいだけ石巻駅周辺の「Reborn-Art Festival」の展示を観ることにした。知らない人もいるかもしれないので、どのようなイベントだったかはこちらを。

リボーンアート・フェスティバルは、宮城県の牡鹿(おしか)半島と石巻市街地を舞台にした、「アート」「音楽」「食」を楽しむことのできるお祭りです。
2回目となる2019年は、アーティストを含む複数のキュレーターがそれぞれの場所で多様な作家たちと『いのちのてざわり』に思いを巡らせながら、作品を制作します。

なんと、2019年も石巻で第2回が開催されるらしい。詳しくはさらに、こちらを。今回のテーマは、「いのちのてざわり」。何か、昨日記者発表があったらしい。

自然の猛威による未曾有の震災が残した爪痕はいまもまだ東北のあちこちで散見できる。それを単純に<ネガティブ>と形容することには躊躇いがあるにせよ、そこから転じた<ポジティブ>が『Reborn-Art=人が生きる術』をキーワードとするこの芸術祭を形作ってきたのは確かだ。2017年の第1回ではアートを媒介にして人の想いや繋がりが新たにさまざまに生まれていった。
来たる2019年の第2回は『いのちのてざわり』をテーマに掲げようと思う。暴走する経済をはじめとした現代社会の状況は、人が生きることの本質からどんどん遠ざかりつつあるように見える。石巻でしか生まれ得ない「いのち」という我々の根源に深く触れることのできる作品を、そこで新たな<ポジティブ>をみつける未来に向けたダイナミズムを、ぜひ体感していただきたい。
リボーンアート・フェスティバル 実行委員長 小林武史

相変わらずの方向音痴ぶりを発揮して、当初思っていたより展示を観れなかった。著名なルドルフ・シュタイナーが描いた図式は興味深かった。

また風船のような物体が浮き上がる映像(?)は、30分ぐらいずーっと見ていた。鏡を四方八方に置いているので、浮き上がる物体が反射して不思議な感覚になった。流れている音楽もあって足が地についていないような感覚で、自分が風船のように宙に浮いている気がした。

ある展示会場では、案内者(キュレーター?)の人と話して驚いた。彼女は京都の某芸術大学の現役学生らしく、このために京都から来ていたらしい。まさか遠く離れた石巻で京都人同士が出会うとは。今回の旅行は本当に偶然が幾重にも重なった。それもいい偶然ばかりが。

花火の待ち合わせ時間になったので、待ち合わせ場所に急いで向かった。と言っても細かい場所は決めず、着いたら連絡してもらうことにした。大渋滞でバスが遅れているとのことで、ゆっくり花火を観ていた。花火を観ているというより、花火を観ている人を観ていた。
震災時、生まれていなかった子どもたちが笑顔をみせて楽しんでいた。震災時、悲しい想いを体験した大人たちがその子どもの手を温かく優しく握っていた。優しさと悲しさが子どもたちを包み込んでいる姿があまりにも美しく、涙がこぼれ落ちた。
生まれて初めての光景だった。愛おしかった人を想っている人、愛おしい人と一緒に居る人、愛で満ちあふれた本当に美しい光景だった。心地よい花火の音を初めて聞いた。

その後彼女もやってきて、一緒に花火を観た。土地勘のある彼女が穴場に連れていってくれて、座って眺めていた。花火を観ている彼女の顔にも優しさと悲しさがあふれていた。

2日目は、美しさの中にある何かにふれた一日だった。

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