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言葉の海。

苦労しながら、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』を読み終えた。
「読み終えた」というよりも、
  「何とか読みきった」という方が正しいかもしれない。

あいかわらず、言葉のすべてを理解しようとすると疲れる。
それ以上に、言葉を受取ろうとすることが正直怖い。

理解は頭を使うことで、受け取るは心でするもの。
ときどき、心がヴェイユの思想を受け止めきれなくなる。

ヴェイユの思想に惹かれるがゆえに、怖さもそこに在る。
どこか、恋愛と一緒のなかもしれない。

ヴェイユの思想やコトバは好きだ。
好きだから、言葉が入り込んでくる。

しかし、時にはヴェイユのコトバは凶器のような鋭さがある。
鋭利な刃物のときもあり、鉈のような道具のときもある。

気づくと、言葉の海に飲み込まれそうな錯覚すらある。
飲み込まれ、深くに引き込まれるのではないかと思ったりする。

私は金槌だ。
だから引き込まれると、溺れて終わる。

金槌の理由は、水恐怖症。
幼い頃、お風呂で溺れたトラウマの影響。
だから、溺れそうな気がするだけ、怖くなる。

ヴェイユの思想に惹かれ、恋焦がれ、引き込まれていく。
といって、嫌な気はしない。

しかし、ヴェイユの深い思想の海の中にい続けることで、
  元の世界に戻れないような気がふとする。
ヴェイユの思想に触れすぎると、
  この現実の世界で起こっていることに怒りが沸き立つように思う。

若い頃の、昔の私にとっては、
  ヴェイユの言葉は自分の活力になっただろう。
ただ若い頃の私は嫌な奴で、今の私からみると、どちらかといえば苦手。
だから今の私にとっては、活力にはならない。

でも、ときどき思う。
言葉に飲み込まれたくなることが。

飲み込まれた先にある何かが気になったりもする。
何も起こらないかもしれない。
何か起こってほしいと、どこか期待している自分がそこにいる。

昨年末からヴェイユの言葉に惹かれたのは、
  きっと何かを期待していたからもしれない。

後、三冊残っている。
三冊連続で読むと怖いので、次読んだあとは、
  現実世界に浮き上がるために、
    一番大好きな文章を綴る向田邦子さんの新著を読もう。

と書いて気づいた。
私は向田邦子さんの言葉に、どっぷり惹きこまれている。
ヴェイユとは違って、
  向田邦子さんの言葉に飲み込まれることが楽しかったりする。

この違いは何か。
この違いが楽しかったりする。

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