No War 気持ちと向き合う


平和への祈りと哀悼を込めて。


・戦争の被害者
戦争には様々な被害者がいる。
ウクライナの人はもちろん、ロシア兵、ロシアでデモをして拘束された人、差別を受けているロシア人、ニュースや世の中の雰囲気にストレスを感じている人も被害者だ。
僕はなるべく多くの気持ちを知る為に、中立でいたいと思っている。
どれか一つに寄り添う事も正しい事だと思う。
僕はただ、中立でいたいと思い、中立でいる事を選んだに過ぎません。


・飢えかプーチンか
僕は今後ロシアの人達が経済制裁で貧困に苦しむ事があれば、その人達も支援したいと考えている。
これは資金面での人道支援だけが目的ではない。
かつてドイツ国民はヒトラーを選んだ。それは貧困から救ってくれるのが、ヒトラーしかいなかった事も理由だったのではないかと考えている。
飢えるか(自分の大切な人も含めて)、ヒトラーかの選択だった場合、はたして飢えを選ぶ事はできるであろうか?
今回の場合は、そもそも戦争をしたプーチンが悪いと考える人もいるだろうから、状況は違うかもしれない。しかし、もし貧困の中でプーチンが救世主のような立ち位置になってしまった時の想像をどうしても捨てられない。
そうなった時、ロシアの人達に飢えるかプーチンか以外の選択を用意したい。プーチン以外にも救いの道はあると。


・戦争という伝染病
僕は戦争という行為そのものに負けるのを恐れています。
戦争は伝染病のように蔓延して、次々と争いを生む。
例えばNo Warに対して冷笑する人がいても、僕は強い言葉でその人を攻撃したくはない。ここで争いを生めば、戦争の思う壺だと思う。
戦争という行為に勝つ方法はまだ分からない。でも負けないようにはしたい。


・怒る権利と怒り方について
戦争という行為によって、新しい争いを生まないようにしたい。
しかし、私達には怒る権利もある。争いを生まずに怒る事は可能なのであろうか?怒りというのはすごく感情的な感情であるから、制御するのは難しい。しかし私達は怒り方、怒り方というよりも、怒りの感情の発散の仕方についても考える必要があるのかもしれない。


・プーチンについて
プーチンのやった事は絶対に許される事ではない。
これだけは言わなければいけない。
ただ、何故この戦争は起きってしまったのかを考える事は必要だと思う。
プーチンは何故戦争を起こすに至ったのかを、僕なりに考えました。
プーチンが戦争を起こした理由は様々だと思いますが、
僕は”郷愁”と”野心”があると考えて、その事について考えました。
そして、プーチンはどこにでもいる人だという事も。
まずは郷愁について。
かつて心の拠り所としていたソ連への郷愁。
強くて、自分が誇りに思っていた頃の祖国を取り戻したいという気持ちが彼の中にあるのではないか?
この郷愁は、劣等感や喪失感から来るものであろう。
そしてこの劣等感や、喪失感、それらから来る郷愁はもちろんプーチンだけの特別な感情でなく、誰でもが持ち得る感情であって、この気持ちを抱える人はどこにでもいるのではないか?いや、ほとんどの人が何かしらの喪失感を持った事があると思っている。
自分の心の拠り所や信じていたものを失っときの喪失感、それがどんなものかを想像する事はできるのではないか? その反動として失ったものを取り戻したいという気持ちも。
日本では戦後、世の中が大きく早く変わってきた。
また、崩壊と似ている、敗戦という歴史も持っている。
その中で心の拠り所していた事を失ってしまった人も多いのではないかと考えている。世の中は劣等感や喪失感を無視せずに向き合い、ケアする事を考えるべきだったのかもしれない。
これは自戒の意味も込めています。
僕自身昭和の価値観や、男性社会的な価値観について、否定的な立場であり、実際にこの価値観に苦しめられている人もいる。そして今も世の中が変わる事を望んでいます。
しかし、それらの価値観を拠り所として生きてきて、今もそう生きている人もいる事。その人達の劣等感、喪失感、または失うかもしれないという恐怖感などを想像する事が自分自身に足りていなかった、もしくは自分の願望が原因となって、目を逸らしていたのかもしれない。
もし僕が心の拠り所にしていたもの、信じていたものを失って、喪失感を抱え、取り戻したいという反動に駆られ、かつそれを自分の力で取り戻す事ができると希望を見出した時、はたして僕はどう行動するだろうか?
そう考えると、僕が被害者はもちろん、加害者にならなかったのも、恵まれていただけとも考えられる。
次に野心について。
野心というものを、偉大になりたい、力を持ちたいと仮定すると、
世の中の価値観の影響が大きいと思います。
僕自身は、主体が偉大である事は主体で決める事はできず、客体が決める事でしかできないと考えています。
ですが、恐らくプーチンは自分の中に偉大像があって、それになる事が偉大であると考えているのだと思います。
そして、この偉大像は世の中の価値観と切り離されているとは考え難い。
それは今までの歴史も含め、世の中で価値ある事が、強くある事、力を持つ事であると考えています。
もしも、これは完全にもしもなのですが、この価値観が変わっていたらどうであったか?どこか、別の方向に向かっていたのではないか?


・もやもや
No War 0305で折坂悠太さんの言葉が、すごく胸に響いた。
https://twitter.com/jusangatsu/status/1500022558556831750

もやもやを保ちつつ前に進むという事。急いだ解決は暴力となる。
しかし、もやもやを保つ事はすごくタフな事だ。
もやもやから解放されたい、つまり反動がある。
いかにしてもやもやを保っていくか、これも考えたいと思う。


・誰に向けて伝えられるのか?
これまでの僕が書いた事は、中立な立場にいられる人、もしくはとても大きな主語に向けてにしか伝えられないと考えています。
例えばウクライナの当事者に向けては伝えられない。これは相手に伝わらないとかではなく、そもそも伝達という行為ができないという事です。
大切な人を奪われて、プーチンを殺したいと叫んでいる人がいたとして、その人に向かって、プーチンが何故戦争を起こしたか考えよう、解決を急がずにいこうみたいな事は、僕には言えないです。すごく残酷な事だと思う。
相手の立場に立って気持ちを考えるという事は大切。
新約聖書では恐らく真理として(これは大きな主語に向けている事に近いと思っています)「敵を愛しなさい」と説いている。
しかし同じ段の「あなた方を愛する人を愛したからといって、何の恵みがあるだろうか。罪人でさえ、自分を愛する人を愛している」からは、敵を愛する事の難しさも示唆されていると思います。


・悲しむ権利について
こういう状況だと、個人的な事で悲しんでいる時、
周りから世の中大変なのに、なんでそんな小さな事で悲しんでいるだとか、自分の中で世の中大変なのにと自分を責めてしまう人もいるかもしれない。
僕は世の中で何が起きていようが、誰にでも自分の事で悲しむ権利はあると思っている。自分が世の中で一番不幸だと思う権利があると思っている。
それが慰めになるのであれば、我慢する事は決してない。

・気持ちと向き合う
性悪説に立ち返ろうと言うと語弊があるかもしれない。
人間には弱さがある。だから弱さと向き合っていく。
厳罰的な意味ではない。
ただ、僕は性悪説の考え方だけを採用したい。
弱さと言ってしまうと、それだけで否定的、排他的に
なってしまう気がする。
何かの気持ちを強い、弱いと判断したくない。
ただそれぞれの気持ちに思いを寄せ、向き合っていく。
はたしてどこまで向き合えるのか?
どこまでの気持ちをケアする事ができるのか?
その事について、僕はずっと考えている。


・No War
No Warという言葉はほとんどの人が同じ気落ちだと思う。
No Warを冷笑する人もいる、ただその人に対して、
「でもなくなるのであれば戦争はなくなった方がいいですよね?」
と聞けば、恐らく答えはYESであろう。
また、戦争を必要悪だという人もいる。
でも、この必要悪というのは、必要だから仕方がないという意味が含まれている。つまり、戦争は無い方がいいという事になる。
そう考えると、本来であれば多くの人がNo Warという言葉で連帯ができる事になる。
世界から戦争が消えるか、世界平和が実現するかは分からない。
でも、実現できない事だとしても、未来がほんの少しでも良くなればいいと思っています。戦争で亡くなる人が、少しでも少なくなればいいと思っています。



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