【本】「浮きて流るる」 それは、ラブレターでした。

プロローグ① 谷保の本屋へ

立川から多摩を縦断し、川崎まで伸びる路線、南武線。その駅の一つ、東京都国立市にある谷保駅。

改札を抜け、駅前のロータリーに出れば、旅情を掻き立てるとか、わくわくするとか、そういったことは…….たぶんないはず。

バス停、パーキング、モスバーガーにセブンイレブン、記号を並べたかのよう駅前。むしろ、その記号的な簡素さに、ほっとしたり、懐かしさを感じる人もいるかもしれない。

でも、玄関から面白い家なんて中々ないように、駅前から面白い駅は少ないと思う。とにかくここで引き返すのは、あまりにももったいない。

#谷保はいいところ

谷保の魅力の一つを感じる為にも、そして、このテクストを始める為にも、ダイヤ街に行ってみよう。谷保駅から少し歩いたところにある、とても短い商店街へだ。(きっとあなたが想像するよりも短いでしょう)

そのダイヤ街の端に、静かに佇む本屋がある。

「小鳥書房」

これから僕が語る本、「浮きて流るる」の舞台の中心であり、本の主人公、落合加依子さんが店主を務める本屋だ。

プロローグ② 良夜

とある週末の夜のこと。
小鳥書房では、「良夜」と称して、夜にお店が開かれることがある。

夜、静まり返った商店街の端で、ぽっと光が灯る本屋。
それだけでもう、素敵過ぎませんか?
そんなことが起きる町に住んでいてよかったと、心から思う。

その日、僕は一冊の本を買い求めた。
「浮きて流るる」
小鳥書房店主の、落合加依子さんが書いた日記集だ。

落合加依子 著「浮きて流るる」


落合さんからお礼の言葉をいただき、小鳥書房の佐藤さん、小鳥書房内に併設する「書群 海と夕焼け」の店主、柳沼さんを交え、歓談をする。

柳沼さんの、「浮きて流るる」への寄稿が難しいとのこと。
「ジマーマンさんならきっと読めると思いますよ!」そんなようなことを言われた。
き、期待されている……(冗談だと思いますが)
僕が人文系の本を読んでいるということで、期待値が上がってしまっているようだ。しかし、本を習慣的に読むようになったのは、今年の始めからだし、そんな読書ビギナーだから、読んだといっても文字を追うだけの本はたくさんある。すいません、自信ないです。

落合さんから
「がんばって読解してください!^_^」という言葉を頂いた。
なにやら、とんでもない挑戦状を突き付けられてしまった気がする。

お会計を済ませて、小鳥書房を後にした。
家に帰り、良き夜を閉じる前に、「浮きて流るる」の頁を開いてみる。
良い夜の余韻に、文章が心地よく響く。
数ページ読み、明日から読むのがより楽しみになる。本を閉じ、良き夜を閉じる。

プロローグ③ そして頁を開く

翌日、確か晴れていたか曇っていたか。曖昧なのは記憶か?天気か?

休日の僕のよくある過ごし方で、大学通りのロイヤルホストへ行く。
バッグに「浮きて流るる」と読みかけのマヒトゥ・ザ・ピーポー著「ひかりぼっち」を入れる。

シェフを呼びたくなるスクランブルエッグが盛られたモーニングプレートを食べ、2杯目のコーヒーを飲みながら、ひかりぼっちの最後の頁を、満たされた気持ちで閉じる。
そして、バッグから「浮きて流るる」を取り出す。

「浮きて流るる」は、カバーを外した、真っ赤な装丁の「ひかりぼっち」にほんの少しだけ染められていた。
こうして、本という物自体にも物語が刻まれていくのかと、残念な気持ちを詩的思考でごまかしてみる。

既にそれなりの文字数を費やしてしまった。
ここからようやく、本のことについて語ってみる。

頁を開く……

「浮きて流るる」① 主役: 落合加依子、もしくは天気

読み始めて、ぱっと心を奪われたのは、天気の表現だった。

「答えのない晴れ」「思い出になる前に雨」「どこでもいい晴れ」

僕はその詩的な表現に心を奪われつつ、それとは別に、どこかユーモアを感じた。
天気が心に色をつけているのか、心が天気に色をつけているのか、ふと分からなくなるのだ。

天気は普通、記号や前提的な情報に過ぎない。
だけどこの日記では、それぞれの日記のタイトルであり、その日記の主人公、落合さん自身のようにも感じる。

もしも、その日が違う天気だったら、天気の形容詞は変わっていたはず。しかし、これは落合さんが天気に与えた形容詞でもある。
天気と落合さんの境界線はないのかもしれない。
天気は落合さんに憑依し、落合さんは天気に憑依する。そして境界線はなくなり、一つとなる。

天気は落合さん自身でもある。つまりそれぞれの日記の主人公でもある。
主役は落合さんであり、天気でもあるのだろう。

これが、この日記の天気の表現にある、ユーモアの正体かもしれない。

「浮きて流るる」② ラブレター

日記とはなんだろう?
日記の一般的な定義は、日々の出来事や感じたことなどを綴ることだと思う。
でも、落合さんの日記には何かはみ出した感じがある。その答えは、最後まで読んだ時に出た。それは愛だった。
この日記からはみ出したもの、愛は、日記をラブレターにもしてしまった。

この日記では、通奏低音で愛が流れている。
好きな人への、好きという気持ちが流れている。
通奏低音として愛が流れ、その上に落合さんの言葉が主旋律として流れる。
書くということは、読むということなのだろう。

日記を書く行為は、過去を読むこと。
音楽家が楽譜を読んで演奏するのと同じように。
落合さんは過去を読み、それを感じ、指揮をする。愛が通奏低音として流れる。言葉が主旋律を奏でる。そしてこの素晴らしい日記となり、ラブレターとなる。

このラブレターは、特定の人へ愛を届けるだけではない。読んだ人へ、愛という気持ちを届けるだろう。

「浮きて流るる」 ③ 母という棚

このラブレターの宛先で、特にその中でも大きく響いていたのが、元夫と母だった。
そして、僕は母の部分を特に強く感じた。
「浮きて流るる」は母の本でもあるのだろう。

これは僕が、ミシェル・ザウナー著「Hマートで泣きながら」を読んだ影響もある。

「Hマートで泣きながら」はノンフィクションで、母の喪失と再生の物語。
そして、音楽(Japanese Breakfastとして活動)と料理、自らのアイデンティティ(韓国人の母とアメリカ白人の父を持つ、ミックス・ルーツ)を巡る物語でもある。

母の本でもう一冊思い出した。
ロラン・バルト著「明るい部屋 写真についての覚書」
この本は写真論であるが、母の本でもある。
読んだのが、それなりに前なのもあって、内容は覚えていないのだが、読みながら「これ、母の本じゃん」と思ったことを記憶している。
「明るい部屋」について、ジャック・デリダはこう記したそうだ。

「明るい部屋」の写真論の中心には、光り輝く核としての母の写真の物語が据えられている。
明るい部屋 写真についての覚書(みすず書房)ブックカバーより

母という棚があったなら、僕は「浮きて流るる」「Hマートで泣きながら」「明るい部屋」この3冊を並べたい。

母の3冊


「浮きて流るる」余談 いつもと違う読書


本の物語が繰り広げられる町に僕は住んでいる。この本で出てくる場所は大体知っている、場所だけでなく、知っている人もいる。

いつもと同じ読書なら、自分の中に想像力が立ち現れる。しかし、今回はどうも感じが違う。想像力も現れてはいる。しかし、いつもよりは控えめのように感じる。

今ままでの読書は、知らない場所、知らない人、もしくはそれらがフィクションだった。
僕は場所、人、音、匂い、空気を、著者の力を借りて想像する。
僕は読み、想像力のペンで、頭の上の辺りに、それらをスケッチしていく。

しかし、今回の読書では、僕は想起のペンも使っていた。僕は読みながら、感覚的情報を想起していた。
僕は読み、想起によって下地を書き、想像力のペンで上書きをしていく。

これは、自分の記憶と著者の記憶が出会うようであり、混じるようであり、とても不思議に感じた。

しかし考えてみれば、いつも通りの想像力の読書でも、想像力は記憶や過去と繋がっていて、厳密に言えば、想像力を使うことは、そこには想起を使うことも含まれているのだろう。例えば、コップをイメージする時に、どんなコップをイメージするだろうか?このイメージは記憶、過去と因果的な繋がりを持っているはずだ。

それにしても、それにしてもだ。
この日記が書かれている日付の時は、僕はまだ小鳥書房を訪れていなかった。楽しそうな出来事を読んだ時、正直ちょっとだけ嫉妬した。こんなに楽しそうなことが近くで起きていたなんて、やっぱりうらやましい…….


エンディング 谷保の素敵なトリオ

僕は自分の部屋で最後の頁を閉じた。

ふと、小鳥書房のカウンターで落合さん、佐藤さん、柳沼さんの3人が並んでいる光景を思い出す。
僕はその光景に暖かさや、安らぎを感じた。
とても素敵なトリオ。
僕の好きなトリオに例えるなら、どのトリオかな?
色々あるけど……. でもやっぱりブランキー・ジェット・シティかな。

ブランキーとは共通点がある。
まず、落合さんはブランキーのメンバーと出身地が同じということ。
そしてブランキー・ジェット・シティには架空の町の市長みたいな設定が、確かあったと思う。
解散ライブのDVDのエンドロールでは、ブランキーの歌詞に出てくる登場人物が流れる。
ブランキーの曲は、全部ブランキー・ジェット・シティという町の出来事だったんだよ。というメッセージがあったと記憶している。たしか。

落合さんは小鳥書房の他にもシェアハウスを運営していたり、町づくりにも力を入れている。町がテーマ、そう意味でもやっぱりブランキーかな?と思った。

落合さんは市長ではないが、そのうち出馬して市長になったりして。その時は谷保を、国立を、もちろん今でも素敵な町だけど、さらに素敵な町にしてくれると思っている。

また、自分事としては、ブランキーは僕にとって、人生の転機になったバンドだから、ブランキー・ジェット・シティから出発して、浮きて流れて、今この町に、谷保に、国立に辿り付いたのかもしれない。

僕は、まだこの町でしばらく暮らす予定だ。
谷保で紡がれる物語を楽しみに。



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