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in ベトナム

 ベトナムにいます。研究のために土壌のサンプリング、私自身のインターンシップ(私は大学院生)などを兼ねて、ラボメンと先生とフエに滞在していましたが二人とも昨日ホーチミンに移動したので現在一人でフエにいます。フエ大学の隣にあるゲストハウスに10/2までの二週間程度滞在する予定です。

 初の海外でこれは結構こってりしているというか、つまりガイドがいないと赤ちゃん同然の私ですが結構無茶ぶりが効いた滞在です。何から話せばいいのかわからないほどいろんなことがありましたが、まあコーヒーとビールはおいしくて安いし、日本よりはタバコも吸いやすい、米も出てくるから大体の生活基盤はそろっている。特にコーヒーが絶品で一杯100円ぐらいのソルトコーヒーがあまじょっぱ苦くて感激した。大学前にあれば絶対行くけど日本じゃ1000円ぐらいで売りそう。ビールは薄めだけど癖がなくてよろしい。当分聞くことのない日本語はスピッツ聴いて村上春樹読んで摂取している。
 ねぎの感覚でパクチー、汁物にパイナップルをぶち込むのだけは勘弁してほしい。ピンク色のスープはバラかなんかの色水ですか?豆腐を発酵させたものは本当に殺人級の臭さ、労災下りるかだけ確認してほしい。香りの強い薬草みたいな生野菜をサラダに出すな。細切れの肉はさすがに骨をとっといて。現状4日間の文句はこれぐらい。
 一番困っているのは英語が通じないことと私の携帯がSIMロックのせいっでWi-Fi環境でしか使えないこと。
 私の研究室にいるベトナム人は全員英語話せるからてっきり全員話せるものと踏んでいたけど、全く通じない。本当に全く通じない。ハノイとかホーチミンだともうちょっとグローバルなのかもしれないけど、フエは本当に大学教授しかダメで、これはさすがに聞いていた話と違う。それで私の携帯はWi-Fi環境でしか翻訳が使えないから本当にお手上げ。ボディランゲージと翻訳をスクショしたものだけで乗り切る。

 鷲田清一の「想像のレッスン」で、日常を超える跳躍力について触れる箇所がある。
 私たちは狭く言えば社会で生き、広く言えば世界で生きている。社会にいる感覚と世界にいる感覚の両方が大事だと私は思っている。
 社会を生きる我々は疲弊する。だから、社会にすきまを見つけ非日常的な世界に関わろうとする。例えばアートである。美術館というのはおしゃれであったり幻想的であったり、何の知識もない人が何の意味もないオブジェに意味を見出そうと玄人面してみたり、まあそういう場所である。
 しかし、そのアートすらも社会の中に加わろうとしている。疲弊した人のための社会のすきま的存在であるアートだが、それすらも都市の一部、社会の一部という認識になっている。私の考えでは、オーバーツーリズムなどでごった返している寺社仏閣や日本の自然にも同じものを感じる。単に有名になった、人々に知れ渡ってしまった、という古株ぶった考えも含んでいるが、それ以上にSNS的な消費の的になっていること、すきま的存在も疲弊しだしていることが大きいと思う。

 というのも、何が起こるかわからないという初体験が私たちに予想外の面白さ・感動・感激・ロマン・ときめき・視野の広がりなどなどを与えてくれると私は信じている。鷲田はそういったものを「世界の関節外し」「自分の小さな死」と表現した。消費と味わいの境界線を飛び越えなければ、自分の感受性が衰えていくばかりだと私は思う。

 ベトナムはいいところです。初めての海外で17日間も滞在するのが不安だったけど、自分が何者でもないというのがすごく心地いい。誰も私に期待しないし私も人の目を気にすることが無い。何よりゲストハウスのオーナーはとてもやさしい。彼だけは英語が通じるので非常に助かっている。その奥さんはいつも派手な赤色のドレスを着た厚化粧のブルゾンちえみみたいな人だが、ちゃんと目玉焼きからパクチーを抜いてくれる。フエ大学の生徒たちは私を原付にのせてフォーのレストランやコーヒーショップに連れて行ってくれる。川辺にカラオケがあって、100人ぐらいがその周りでくつろいでいる。
 街中のそこら中に立っているソ連の真っ赤な国旗と共産主義のプロパガンダ看板だけすごい気になる。


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