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良いものを良いと表現する。(#5/21文学フリマ)

 今度の2023年5月21日(日)に開催される文学フリマ東京36に出店する(牽引社 け-16)。そのために用意している小論について、簡単に紹介したいと思う。
 テーマはずばり、良いものを良いと表現することについて。評価すること、認めること、褒めること、などなど当たり前に行われる表現だが、考えてみると色々と言えることはある。

 価値観は人それぞれであるから、絶対的な良さを表現することはできない(できるのはそれを目指し続けることだ)というのは見新しい議論ではない。そうではなく、何故、良いものを良いと表現するのかを分析する。ちょっと意地悪なようだが、以下のような質問をするとこの分析の端緒に立つことになる:良いと感じたなら良い。それをわざわざ表現する必要があるだろうか?
 こんなことを疑問に思うこと自体、かなりおかしな思考に思えるかもしれない。良いものは共有したいのは当然ではないか。一人で飲む美味しいお酒も、好きな人と飲めばもっと美味しいではないか。発掘された傑作の評価を確かなものにするために誰かに確かめたいではないか。商品がいくら良くても、良いということが口コミで広がらなければ、良い商品が売れる循環が生まれないではないか。
 まったくもって、その通り。こんな疑問は社会の流れからみて全然的を得ていないように見える。けれど、諸々のトピックについて考えていたら、つい流れ着いてしまったのである。それに次に説明するような意味もある。

 良いものを表現するということは、端的に言えばポジティブに物事を捉えることをより自覚的に言い換える方法の一つだ。私個人は、ポジティブを重視するいろいろな意見が一般に苦手で、ネガティブな思考にむしろ共感を覚えることが多い。曰く、ポジティブでいることが生産的であるとか、人生を楽しく幸せなものにしてくれるとか。そういった言い方が全体的に受け付けないのである。だが、たしかにポジティブであることが大事ではあるので、その適切な言い換えができるかどうかが問題だったのである。ポジティブだからといって、悪いものまで良いと表現する必要はない。そうではなく、良いものを良いと適切に表現できるようになれば、それがポジティブであるということなのではないか。
 こういうわけで、ポジティブであるということをもうちょっと厳密に捉える方法の一つとしても、良いものを良いと表現することについて考えることには意味があると思う。

 結論を言ってしまえば、良いものを良いと表現することには2つの側面がある。①維持・成長:いまの生活を維持したり、あるいは成長するのに必要なことは良いものだ。だからそれを良いと言って選び取ったり、人に勧めたりする。個人の生活の維持・成長だけでなくて、家族や友人関係や会社や国にとっての維持・成長についても良いものが良いと表現される。この表現はもちろん、その団体・組織が良いものを認識するために必要なことだ。②遊びとして:維持・成長に関係しないのに、良いと表現されることがある。例えば、富士山が綺麗だ、とか。そういったことは、本来それぞれの生活にとって関係のないことであって、維持・成長にとっても直接的な関係はない。なのに、良いと言う。さらにその良さを再現しようとしたりする(例えば富士山の絵を描いたり、写真を撮ったり)。これらはとても重要な事柄ではあるけれど、同時になんでも無いものでもある。そういった表現を、ちょっと深いニュアンスを込めて「遊び」と称することができる。
 冒頭に述べた疑問「良いものは良い。ならなぜ良いと表現する必要があるのか?」には、以上の説明から二通りの回答が得られる:①維持・成長のために表現する方がよいから、②遊びとして、あるいは楽しいから。

 今度の文学フリマでは『良いものを良いと表現することについて』という文庫本サイズの小論を200円で販売する。本としては薄いもので50頁程度のものだが、読めばそれなりに長い。しかし、内容としては結局上記の分析をさらに詳しく、色々と枝葉を付けて論じているだけである。
 大したこと無さそうだろうか?まぁそうかもしれない。けれど、ちょっと変わった視点で当たり前のことを捉え直すきっかけにはなるかもしれない。その試みに、もう少しお付き合いいただきたい。

 私はあまり一人の人間の思考の範囲を超えることを好まないのだが(本当か)、この小論では超越的な感覚として所有を捉えるという成り行きになった。すごい極論ではあるが、私達は本当の意味では何も所有していない。生まれるとき、死ぬとき、私達は何かを運び入れたり運び出したりしない。けれど、所有の観念はとても強固である。その理由として、まるで超越的な視点を得たかのようにして、私やあなたが何かを所有しているという表現をすることが、あまりに当たり前なのではないか、と考える。これは、遊びとして行いつつ、遊びから逸脱して、真面目なものになった表現である。
 書いていて思ったが、 Noteで書くにはあまりに突拍子もないし、全然十分な記述にはならない(汗)。ただ、特に狙ったわけではなく、良さの表現についての議論を積み重ねていくと、所有観念についても少し変わった視点が得られる、ということが分かった。それだけのことである。

 当然、所有についてまで捉えることのできる議論は、およそあらゆることに適用可能である。そのせいではないが、私が以前に文学フリマで出品していた2作『会話についての思索』『解釈学的実践論』についても、本論との関連が自ずと見えてくるようになっている。
 この議論をこれからも続けて、広げていくかはわからない。しかし、少なくとも今、私が考える限りのことである。もし興味が湧いたら、是非見てみてほしい。

front image: "overlapped" by theilr
link, trimmed for upload (CC BY-SA 2.0)


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