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良いものを表現することと仕事(#5/21文学フリマ)

 今度の2023年5月21日(日)に開催される文学フリマ東京36に出店する(牽引社 け-16)。前回、そのために用意している「良いものを良いと表現することについて」という小論について紹介した。

 今回は、この小論の内容を生活と労働に適用させたときにどんな見え方がするかについて、簡単に見ていきたいと思う。本の中身が前提になっているから、この記事だけを読んでも残念ながら十分な理解にはならないと思う。そんなものを書くのはおかしなようだけれど、この小論を土台に据えた議論の道を曝すという意味合いはあるだろう。

〈この記事で書かれることに近いこと〉
 花瓶に生けられた花は、水を大量に吸い上げて好きに呼吸することができる。その意味で自然のなかに居るよりよい環境かもしれない。しかし、水を変えないで、空気も入れ替えないでいると、その環境は死の環境に一転してしまう。

 「補論①」が思いの他、重要なものとなっている。親密さがあるか無いか、という表面的にも思える違いによって、①維持・成長のために良さを表現する者と、②遊びとして良さを表現する者と、どちらがどちらに奉仕しているかが変わってくる。この点を、労働の現場で考えてみるとどうなるだろう。
 例えば、私は職場に行けば基本的にはワンフロアで、デスクに座って仕事をする。そこに間仕切りはあまりなく、あっても役職者の部屋との間にあるくらいだ。すなわち、空間としては親密さを良しとしているようにも見える。
 親密な関係において私が労働の対価を得るとするなら、私は何か維持・成長のために表現をしているのではなくて、ただ遊びとして表現しているのでなければいけない。つまり、私は会社のことも自分のことも、職場のことも考えずに、ただ「たまたま遊ばされていて」、そして「有用な遊び」に対して対価を支払われるということになろう。これは、会社が私に対してほとんどどんな学びも期待せず、ただ言われるようにやってほしい、と考えている限りにおいては正しい言い方である(残念ながら)。
 しかし、この「遊び」は苦しいものでありうる。正しい遊びと、正しくない遊びが常に引き合わされて、私は不当に何度も非難され、矯正され、そして遊ばされておくことになる。
 奇妙だが、親密な職場はこのようにして個人の学びを封殺する。なぜなら、学びは対価が要求されるような高級なことであって、それを要求する人は何かを犠牲にしなければいけないからである。では、労働者に用意できる対価などあるだろうか?

 実際には、職場が複数のフロアに分かれていたり、互いに機能ごとに分離された部署があるなら、そこには親密さが欠けており、既に述べたような問題は低減する。個人の学びが感謝されることもありうるだろう。
 しかし、労働が基本的に信頼関係の維持された人間同士のやり取りである限り、労働の対価が「遊び」に対するものであるという傾向も無くならない。そして、それは正しい「遊び」と矯正されるべき「遊び」を常に生み出すのである。

 自分の家の中に居て、必要な雑事などをこなす私達は、何か遊びをしているのではない。それは維持・成長のための事柄である。しかし、仕事のときの気分をそのままに持ち込んでいるとき、私達は意識の中ではなぜか「”正しく”遊ばされている」状態となっている。それは気持ちの悪いことだ。
 また、家のなかで自由に遊びをしているとき、私達が職場の意識を維持するなら「これは正しい」「これは正しくない」という余計な気分を抱くことになる。これもまた気持ちの悪いことだ。

 このもつれ合いは何故か。もとを辿れば、当たり前だが資本という考え方に行き着く。資本は私的に所有された事業の元手であって、維持・成長の代価とも言える。つまり、資本はこの社会全体が持っている沢山の「機能の箱」の一部を担うことによって、親密さとは無縁に良さを表現しているのである。そこでは、遊んでいる者の方が代価を支払うこととなる。
 遊んでいる者とは誰か。それはすなわち消費者である。すなわち、ここでは生活それ自体が遊びということになる。企業は自らの維持・成長のためにこの世界のなかである機能を果たす。それとは反対に、何もしないでただ生きている生活者は対価を支払わなければならないのである。

 結論を言えば、資本主義的企業は一方では「世界を分割して親密さを減じ、ある機能の維持・成長を果たすことによって遊びから対価を得る」が、他方では「労働者がそこで働く親密な空間を作り出すことで、労働者の遊び=生活に対して対価を支払う」という構造を作り出す。
 しかしながら、この構造は「世界を分割」してそれが持っている全体的な親密さを消し去ってしまうから、公共性に歯止めをかけることになる。また、同時に「特定の」仕方で世界を分割するせいで、労働者がそれぞれの家庭や友人関係、非営利の組織で持っている維持・成長の表現を阻害するのである。

 これらの問題について、前者については「遠い言葉」によって、各々の資本の「所有」が結局は遊びとして行われるという実相を明らかにできる。現実的には、金融システムや金融政策との関係性がなければどんな資本の所有もありえない、ということがある。全体的なシステムへの理解を市民一人一人が深めれば、資本主義であろうと結局は公共的判断への参与が不可欠であると気づくはずなのである。後者については、解釈学的実践によって、それぞれの「私達」の形成以前への関係性へと引き付きられることができれば、いつも異なる「私達」への可能性を繋ぎ止めることができるだろう。

front image: "Entangled" by Domiriel
trimmed for upload, link, (CC BY-NC 2.0)

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