エスペラントと題する英語の雑誌について(「発表前注釈」6/24)

今年5月に開催される文学フリマで発表する前に、諸々の事柄についての考えを記述していくシリーズを続けている。今回はその第6回目である。今年初めのものではあるが、リアルタイムで問題になっていることについて書いていく。

問題とは以下のようなものだ:第一に、エスペラントという言語がある。これは人工的に作られた国際補助語であり、国際交流において実際に使われてきた(筆者も使ってきた)。次に、「Esperanto Culture Magazine」という雑誌が最近(2020年12月)発行された。この雑誌は英語で書かれており、編者がエスペラントの思想にインスパイアされているために、エスペラント文化という名前を付けている。さらに、この雑誌に対して、エスペラント話者(エスペランティストという)による批判や懸念が集まっている。なぜなら、英語で書かれ、英語の一般化を自明とみなしている雑誌が、エスペラントをその名に冠しているからである。

既に後藤氏の記事「グーテンベルクオーケストラ社刊"esperanto"誌に対する違和感」がネット上に公開されており、内容もずっと良いため、こちらを参照いただくのも良いかもしれない(一番下にリンクあり)。ただ、筆者もエスペラントについて活動を少しの間続けてきた手前、この雑誌の名前については違和感を感じているため、個人的に深堀りし、分析した次第である。

第一所感としては、結局のところ、エスペラントが個人の思想ではなく、エスペランティスト達の活動を通して維持されている共有物である、という意識があるから、違和感があるのだと思われる。編集長である菅付雅信氏が雑誌名について述べている部分も確認したが、この点での認識のズレは埋まらなかった。菅付氏の言葉を少し引用しよう:「Unfortunately, I can't speak or write any Esperanto. But 'Esperanto' is not just a language for me. Not in the sense of a working, feasible, international language. It is an 'idea', a philosophy--just like the ancient Greek thinkers sought--for the world to come」(p.05)

同じようにエスペラントの名前を冠しているものとして、「Esperanto Filmoj」という会社がある。これはギルレモ・デル・トロ氏が所有している映画会社で、ネットフリックス映画「Roma」を含む様々な映画をバックアップしていることで知られている※。こちらでは、Wikpedia経由の情報ではあるが、デル・トロ氏が映画を「新しいエスペラント」として考えていることから名付けられたとされている。筆者の感覚では、この命名に対して感銘を受けることはあっても、決して違和感など感じない。
(※2021年1月15日に確認したところ、映画会社「Esperanto Filmoj」の所有者はアルフォンソ・キュアロン氏だったため、訂正する。なお命名はギルレモ・デル・トロ氏とのことである。)

この差異は一体何なのだろうか。この点についてさらに詳しく分析することによって、エスペランティストとしての態度の理解、この状況への理解を多少とも深めることができるのではないかと考える。以下に考察をしていこう。なお、参照内容は筆者が学部生の卒業論文に書いたものにほとんど依拠している。

まず、エスペラント運動の歴史のなかでも常に問題になってきた「実用主義」と「理想主義」の対立がここでも繰り返されている。エスペラントは目標を持って作成された言語であるが、そもそも道具に過ぎないとする「実用主義」と、エスペラントという言語には内的理念「interna ideo」としてのコスモポリタニズム等があるため、それによってエスペランティストは連帯するという「理想主義」の対立である。エスペラント運動のごく初期のころには、両者の対立は厳しかった。前者の「実用主義」を推し進めると、エスペラント協会などの運動組織はそもそも不要であるという立場も出てくる(ウルリッヒ・リンス『危険な言語:迫害の中のエスペラント』、1975年、岩波書店、11頁)。対して、「理想主義」では、国際組織が形成されるのである。歴史的にいって、エスペランティストの言説のなかでは理想主義が主流化しているといえる。

菅付氏は、この対立において明らかに「実用主義」の立場に立っている。引用中でも、「単なる言語」としてのエスペラントと「思想の名前としてのエスペラント」を分けることによって、言語としてのエスペラントが思想を内包しないことを示している。つまり、エスペラントは作成されたツールであり、そのツールの動機としての思想は個人が抱くものとされている。対して、デル・トロ氏は「理想主義」に近いだろう。映画が「新しいエスペラント」であると述べることで、エスペラントもまた、映画と同じくそれ自体が思想の担い手になりうることを示しているからである。

ここから、違和感の理由の一端が判明する。エスペランティスト達の歴史的な議論の結果として、「理想主義」が地位を占めてきたのに、それがいわば部外者によって掘り返されて「実用主義」が再現されたことがその理由である。

このことは、さらに大きな問題へと連関している。そもそも、なぜ菅付氏は実用主義であり、しかもエスペラントを使用する人たちの意見の方向性を無視できたのか?という問いである。以下に考察する。

そもそも、グローバル文化と呼ばれる言説は、様々な言語を用いる人々の多様な報告の集合をそのまま表わしているのではない。グローバル文化は修辞である。あくまでも、同一言語圏内での各種表象のトランスナショナルな差異を通じて演出され、作り上げられてきたのである。「Esperanto Culture Magazine」でも主題的に取り上げられている「Whole Earth Catalogue」はその典型例ともいえる。ツール、すなわちプラグマティックな側面から、国家ごとの差異を超えて共通の生活基盤が成立することを示したのであるが、それはあくまでも英語圏での話だったのである。

グローバル文化という言説は、その基盤となる言語の国際的権威の向上と、翻訳・学習者の増加によって相対的にグローバル性(グローバリティ)を高める。しかし、言語それ自体の限界を超えることはできない。エスペラントという言語が有用と認められるとしても、それは英語圏内において参照されうる「ツール」としてだけである。そして、思想としての「エスペラント」は、個人が自らの責任において主張する「デザイン」になるのである。
つまり、菅付氏の考え方は、典型的に英語圏を一般化する姿勢であり、その結果としてエスペランティストのこれまでの議論も参照されなかったのは当然である。そこでは、エスペラントの運動は顧みられることがなく、ただデザインとして評価されるのである。

しかし、実はエスペラントも、最初期においては、作者ザメンホフによってデザインされた側面があった。その点を指摘しておこう。1887年、エスペラントはLa Unua Libro(第一書)という題名の本によって紹介された。最初はロシア語で、次いでフランス語でである。当時はフランス語と英語が国際補助語の覇権を巡って争っていた時代である。ザメンホフは、当時はまだ思いつきのアイデアに過ぎないエスペラントという言葉を広めていくために、提案をした。「もし1000万人がエスペラントを学ぶ約束をしたら、私も学びます」というカードが8枚、本のなかに含まれていた。ここに署名をした上で集めていこうという内容だった。ある数学者の返信のなかで、こうした1000万の署名を集計することの難しさが指摘された、とザメンホフはDua Libro(第二書)で述べている。当時は一見、実現困難に思える内容だが、現在であれば、技術的には簡単である。ネットがあるのだから。

とはいえ、技術的に可能であるかどうかに関わりなく、この署名は不可能だったと私は思う。そもそも、他人も学ぶから、という約束によって、私達は言語を学ぶことができるだろうか。またどんな人が、どれくらいいれば学ぶというのだろうか。なるべく数多く、身近な人達が、肌身に付くほど学んでくれなければいけないだろう。だが、そんなことはたとえエスペラントだろうと時間がかかりすぎるのである。このことは、言語使用の習慣が、どこまでも”与えられた”所与のものに過ぎない、という人間事象における限界を示している。結局、ザメンホフの提案は実現されなかったのである。

それにも関わらず、人々はエスペラントを学ぶのである。なぜかといえば、エスペラントは、まさに「言語は所与のものである」ことを前提にして、そこに「橋をかける」言語だからである。私達は母語を捨てることができない。しかし、私達の母語の範囲の外には、また別の言語を母語とする人々がいる。どちらの母語も捨て去ることはできないが、互いに歩み寄ることはできる、という判断のもとに、エスペラントを学習するのである。

エスペラントはデザインではなく、私達に与えられたチャンスであり、それを受け入れ活用する人々によって生かされる。だからこそ、ブローニュ宣言において、ザメンホフがエスペラントについての権利をすべて放棄したことは正しかった。またエスペラントという名前が(希望する者)を意味することも、同様に良かったのだと私は思う。

このように振り返ってみて、あらためて「Esperanto Culture Magazine」の違和感を考えてみると、ここに改めて大きな問題が現れてくる。すなわち、言語を超えるreprezento(代表象・代表)の問題である。エスペラントはその成り立ちから言って、自らの母語の外側に広がる、多様な言語の世界を肯定している。そこに翻訳不可能な活動が多様にあることを受け入れることができる。そのうえで、人々はこの橋渡し言語としてのエスペラントの、橋の上に集うのである。これに比べて「Esperanto Culture Magazine」はどうであろうか。巻頭記事「The Harvest of the Whole Earth Catalogue」の中で、Toshimitsu Aono氏はホール・アース・カタログを2つの要素「全地球」と「ツールへのアクセス」から解説している。そして、結語としては、この伝説的なカタログが用意した目標を掲げている。すなわち、この惑星を一つの体系として理解し、ツールを用いてこの体系を最適化する、ということである(p.11)。「Esperanto Culture Magazine」は、「Whole Earth Citizens」のために、という記述がされている。この「Whole Earth Citizens / 全地球市民」を文字通りに解釈するなら、宇宙船地球号の乗組員として、この体系としての地球をツールを用いてコントロールしきる市民、ということになるだろう。もちろん、即断はできないが、運動としてのエスペラントが「橋渡し言語」として伝えてきた思想が、この雑誌で受け継がれているのだろうか、という疑問が残るのではないだろうか。

さて、今回は時事的な問題について筆者の意見を記述した。この考察においてエスペラントの特異性を考えられたのは本当に良かった。特に、ザメンホフが提案した言語を広めるための「1000万人」の提案は、言語の理念的側面と手段としての側面を超越しており、重要な契機になることを発見できた。この点については、今度の5月に発表する小論文でも触れることにしよう(特に新しい内容は含まないだろう)。また来週には別の話題を論じよう。

〈追記〉
本記事執筆後に日本エスペラント協会にてグーテンベルクオーケストラ社の返答が公開されたので確認したところ、「エスペラント」使用については「Editor's Letter」と「Experimental Jetsetのエッセイ」を参照とのことである。前者については本論で取り上げたが、後者については取り上げていないため、不十分ではあるが、筆者の感想を少し記述する。まず、このエッセイのなかではエスペラントの思想については特に触れられていない。一方、全体と断片の流動化する近代(おそらく、流動的近代のイメージ)において、差異を可能にするスタンダードとしての言語が重要だと考えた、という記述がある。エスペラントは19世紀後半に考えられたハードな近代的思想の言語であり、しかも方言やアクセント等の内的な差異については、それが文法として固定化しない制度が整っているため、あまり適合的でない印象を受けた、というのが最初の感想である。とはいえ、エスペラントも流動的近代の影響は受けており、それに類する動きもあるため、一概に不適合ともいえない。一先ずのところ、エスペラントという雑誌名についての筆者の違和感については上記の通りで変わらない。


リンク集
『ホール・アース・カタログ』はネット上で公開されている。
ネットメディア「アドタイ」の記事
紐付けられたネットコミュニティ「Esperanto Culture Comunity」のサイト
雑誌「Esperanto Culture Magazine」のサイト
後藤斉氏の記事「グーテンベルクオーケストラ社刊"esperanto"誌に対する違和感」
日本エスペラント協会「「esperanto」を題字とする英文雑誌の創刊について/グーテンベルク社回答付き」
Libera Folio「Esperantistoj batalas kontraŭ japana revuo」

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