牽引、〈歴史の前〉を考えることについて(「発表前注釈」8/24)

5月に発表予定の小冊子に先駆けて、世の中の事などを徒然に書いていくシリーズを続けている。今回はその8回目である。今回は、筆者が書いた修士論文や、ディルタイの哲学的解釈学について、今感じていることを書く。

もともと大学生のときには社会学をしていたため、社会問題や市民社会の理想、グローバル化によってより複雑化する情勢などについての理解を深めることができた。そのうえで、より原理的なところから社会を捉えたいという欲求があり、修士課程では哲学へと転科した。選んだのは、W.ディルタイ(1833-1911)という19世紀ドイツの哲学者・解釈学者だった。

ディルタイは一言ではとても良いきれないような多面的な性格の哲学者で、簡単に紹介することはできない。自分の研究との関係だけでいうならば、哲学的解釈学という分野を切り開いたパイオニア的存在である。哲学的解釈学とは、ざっくりと言えば〈「理解」とは何か〉を考える分野である。この分野は後にハイデガーによってさらに深堀りされ、ガダマーやリクール、ハーバーマスによって現代まで数々の議論の文脈を作り出している。その議論の深まりと広がりとが多様なだけに、ディルタイの当時の論理はややもするとないがしろにされ、色々な批判の影で色あせたものと捉えられがちだった。修士論文では、そうしたディルタイの哲学の記述を真面目に追って、最近は主流になりつつあるグローバル・ヒストリーに適合的だということを示した。

修士論文の内容はとても書けない。だが、哲学というのは本当にすごいもので、最もシンプルな観念によって世界の複雑なものの見方にまで一時に手を延ばすことができる。今、ディルタイの思想を示すために一つだけ取り上げるなら、「牽引(Fortgezogenwerden)」だろうか。例えば、夜、ベッドのなかで一人目が覚めた時に、今取り掛かっている計画・プロジェクトの進捗について想起するとしよう。過去の功績や、未来の計画についてのぼんやりした観念から、意識は引きずられるようにして、過去や未来のあれこれについて想像し、不安になったり期待したりする。これは、刻々と変化する理解の経過の体験といえる。そして不安になったり期待したりするのは、一つ一つの理解の表現であって、その一つ一つの理解は、関連する想起によって新しく捉えられる全体・部分の関係の指示なのである。

話がすこしややこしくなったが、牽引とはつまり、私達の意識が理解の経過へと受動的に引っ張られていく、ということを意味している。もちろん、関心とか、生活上の目標、最近獲得した知識など、色々な要素が絡むのだが、その結果現れる理解は、必ずしも自分の勝手なのではない。むしろ、これまで経験したことと、新しく得た知識や久しぶりに思い出した観念との組み合わせによって、否応なしに新しい理解へと引っ張られていってしまうのである。

私達は、もちろん、日々の生活のなかで物事を勝手に理解しているわけではない。色々な人と出会い、生活している最中にそんなことは勿論できない。しかし、一方である種の事柄は、勝手に解釈して良いのではないか、という誘惑にも駆られているのではないだろうか。一人の解釈が独りよがりだというならば、複数人で。そして、できれば全員で。例えば、どの政治家が良くない、とか。どの音楽は良くて、どれは良くない、であるとか。

これらは素朴な衝動であり、私達が趣味で連帯するための方便でもある。互いに趣味を貶し合ったり、共感したりするためにも有効であろう。しかし、このように考えると、結局ある部分について、私達の理解は私達自身のせいで分断したままであり、決して合意できない、という結論にもなるだろう。これはペシミスティックな状態である。

牽引の概念に従うならば、上記の結論は少し違うことになる。理解は否応無しにやってくる。それが互いに異なっているならば、それは互いに知らない何らかの理由によってそうなるのであって、私達それぞれの勝手のせいではないのである。このように考えることで、私達は改めて、何が問題になっているかを議論し直すことができるだろう。

ディルタイは、普遍主義的な知識、すなわち万人に通用する知識の可能性を信じながらも、それがいかに難しい問題であるかにも気づいていた。それが、自然科学に対する精神科学(人文科学と社会科学を包括する学問区分)の基礎づけという試みであり、解釈学、すなわち科学的に正しい理解を研究する学を哲学的に考察する哲学的解釈学の端緒だったのだと筆者は思う。

普遍的知識を追求する組織的な試み。それは一般に学問と言われる。これはディルタイ的には学問的作用連関とも言いなおされるだろう。筆者はこの試みから外れた。つまり、就職した。だから、というわけではないが、学問とは違う方向で普遍主義的な知識を追求している。それが歴史の「前」を考えるということである。

最近の哲学が繰り返し示してきたように、私達の生活は骨の髄まで歴史に染め上げれている。服を着ることも、食べることも、寝ることも、恋愛することも、何もかも歴史的でテンポラルなものであって、普遍的にいつの時代もそうであったものなどない。人間本性と言われるものは、人間自身の作り出したものであって、普遍的に所与のものはない。このように言われている。しかし、と筆者は思うのだが、歴史的であることは「歴史以前」へと〈関係づけられること〉を妨げはしないのではないだろうか。非常に単純な話になってしまうが、私達は人間がいなかった時代の地球を想像することができる。歴史が語られることもなく、また歴史を意識することもなかった生命の意識を想像することができる。こうして、実際にその状況を経験していなくても、想像ができれば、役に立つ観念を引き出すこともできる。人間がいない時代の想像は、私達に自然の観念の原初的な形を示してくれるのである。

この〈関係づけられる〉ということは、言うまでもなく牽引の概念の延長である。ただ、ディルタイの哲学の骨格にあたる歴史的生の概念は外してしまい、歴史を時間の人間的な表現・理解として考えている。そのためディルタイの思想からは外れてしまうのだが、なんであれ、これが筆者の考え方なのである。

5月に発表する小冊子では、引き返すことの帰結として、歴史以前へと関係づけられる、という事態についても注釈で少し触れている。その詳しい内容は発表に譲ることにして、次回はまた別のことについて書いていきたい。

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