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『トイ・ストーリー4』 -神を手放す物語-

『トイ・ストーリー4』を見てきました。

感想としては「すごく良い作品だけど、私は受け入れられない」。
この一言に尽きる。

ストーリーもキャラクターも魅力的で、テンポも素晴らしい。
そう、映画としては非常にクオリティの高い作品なのです。
それでも、私は『トイ・ストーリー4』を受け入れることができない。

他の方も、賛否両論というか、似たような感想を抱いている様子。

ツナ缶食べたい/伝書鳩Pさんの映画レビューは、いつも「的確だなあ」と惚れ惚れするものばかりですが、これほどまでに自分の気持ちを代弁してくれることある???というくらい、この記事には共感しました。

こんな素晴らしいレビューがあるのに、私が『トイ・ストーリー4』について書く必要はあるのか?という気もしますが、このモヤモヤを払拭したいので、やはり文字に起こそうと思います。いわばお祓いです。

※ネタバレが多く含まれます※

※あくまで個人の感想・考察であることをご承知ください※

まずはじめに

そもそも、私はそこまで『トイ・ストーリー』のファンというわけではないです。普通に1、2、3と見てはいますが、結構うろ覚えだし、細かいところまでは覚えていません。
ただ、ひとりの視聴者として、ウッディとバズの相棒としての絆、アンディのおもちゃに対する愛情は、3部作を通して「好きだなあ」と感じていましたし、純粋に素晴らしいシリーズ映画だと思っています。

そんな自分がなぜわざわざ4を見に行ったかというと、趣味の合うオタク友達たちが軒並みダメージを受けているのを見て、逆に興味が湧いてしまったんです。それがよくなかった。好奇心はオタクを殺す。

そこまでファンというほどのファンでない私ですら、ショックを受けた。
ウッディは永遠に子供のおもちゃであり続けると思っていたし、ウッディとバズ、そして仲間たちは、永遠に一緒にいるものだと思っていたので。

しかし、『トイ・ストーリー4』では、ウッディは所有者であるボニーのもとから一人で去り、かつて仲間だったがいつの間にか野生化したボー(陶器でできたお嬢さん)と共に、世界をめぐることを選ぶんです。
相棒のバズや、長年一緒に過ごしてきた仲間に別れを告げて。

マジか!?!?!?!!?!?!?!?

1〜3のウッディは何だったんだ!?!?????
4のウッディは本当に私の知るウッディなのか!?!?!?????
3でアンディと共に大学に行くことを選ばずに、皆といることを選んだウッディの意思はなんだったんだ!?!????

ウッディの存在価値

・・・とまあ、混乱しましたが、ちゃんとウッディはウッディでした。

彼は、新しい持ち主のボニーに、飽きられつつありました。
元の持ち主のアンディはウッディに夢中でしたが、女の子のボニーはウッディよりもカウガールのジェシーがお気に入りで、ウッディからシェリフバッジ(保安官を示す星型のバッジ)を取り上げ、ウッディ本体はクローゼットにバイバイという、なかなかつらい始まり方。

そんな扱いを受けつつも、ウッディはボニーを大切に思っていました。
大切に思いすぎて、はじめての幼稚園を不安がるボニーのために、密かにリュックに忍び込むレベル。

この時点でのウッディは、とにかく持ち主を幸せにすることだけを考えています。自分で遊んでくれなくても、それより大事なのは、持ち主が幸せでいられること。自分の持ち主に尽くす姿勢は、ウッディの美点と言えます。

ボニーは、ウッディの機転のおかげで、はじめての幼稚園を乗り越えました。彼女にとって、おもちゃが心の支え。心細いボニーは、ウッディがこっそり投げて渡したガラクタから、自分でフォーキーというおもちゃを作り出したのだのです。フォーキーは、ボニーの一番のお気に入りになりました。

しかしフォーキーは自我が芽生えたばかりで、しかもゴミ箱にあった材料からできているので、自分がおもちゃだという自覚がありません。隙あらばボニーから逃げてゴミ箱へとダイブするフォーキー。

ウッディは「今のボニーにとって一番大切なのはフォーキーだ」ということを理解しているので、ひたすらフォーキーを連れ戻し、見張り、「君はボニーにとって大事な存在なんだ」と説得し続けます。
ボニーに遊んでもらえなくなった今、ウッディがボニーにしてやれるのは、フォーキーという宝物を守ることだけなのです。
もうなんか書いてて悲しくなってきた。

そう、4におけるウッディは、もはやおもちゃとして遊んでもらえず、自分に存在価値を見いだせなくなっているのです。
だからこそ、どんなに疲れてもフォーキーの見張りを自分がやると言い張る。バズが親切心から代わろうか?と言っても、ウッディは頑として譲りません。存在価値を失うことになると思っているから。

そんなこんなで、疲れ切ったウッディの目を盗んで、フォーキーはついに逃亡。逃げ出した彼を追って、ウッディの冒険がはじまります。

おもちゃにとっての幸せ

トイ・ストーリー3部作を通して描かれていたのは「おもちゃにとっての幸せは、子供に楽しく遊んでもらうこと」だったと私は思っています。
だからこそ、3で大学生になったアンディに捨てられると思い込んだおもちゃたちはなんとか子供に遊んでもらえる場所に行こうとしますし、最終的にはボニーという新しい所有者を迎えて、大団円となりました。

そして、もうひとつ、これはおもちゃ全般にとっての幸せかはわかりませんが、少なくともウッディたちにとっての幸せは「仲間と一緒にいられること」。例え屋根裏部屋で放置されることになろうが、みんなと一緒なら良いじゃないか、というのは3でも言及されていたことです。

さて。
「おもちゃにとっての幸せは子供に楽しく遊んでもらうこと」という価値観は、4においては「古典的な考え方」と一蹴されます。

かつてウッディと良い仲だった、ランプの添え人形のボー・ピープ。
アンティークショップに売られた彼女は、2年もの間ずっと放置された結果、野生に還ることにし、持ち主のいない自由な人生を謳歌していました。

ウッディはフォーキーを連れて帰る途中でたまたま彼女と再会し、その生き様に驚きを隠せません。「持ち主がいないなんておかしい」と。
ですが、ボーはウッディに何を言われようと気にしません。だって自由な今が幸せだから。移動遊園地についていくことで、世界を旅できることが、心の底から楽しいと思えているようです。

遊んでくれない所有者にひたすら尽くそうとするウッディに、ボーは問いかけます。あなたはそれで幸せなのか、と。ウッディは、それでも今はとにかくフォーキーをボニーの元に届けねばと、トラブルで連れ去られたフォーキーを取り返すためにボニーに協力を頼みます。

神に仕えるウッディ、無神論者のボー

4において、子供は”神様”の役割を果たしている、と私は感じました。
おもちゃにとって、子供、特に所有者は神様。神様に尽くすことが幸せだと信じています。しかし、ボーはそういった意味では無神論者です。

もちろん彼女にも、アンディやアンディの妹との思い出は大事なものとして残っています。それでも、彼女はもう神に仕えることはやめたのです。

神に仕える生き方と、神を持たない生き方の、どちらが楽しいか、優れているかなんていうのは、私には判断できません。

それこそ、神に仕えるかどうかは、個人の自由なのです。各おもちゃの自由といったほうがより正しいですかね。ただ、ウッディはボニーという所有者=神に仕えることこそが使命であり、幸せだと信じていて、ボーはそれを疑問視している。

このあたりがね、ちょっとね・・・難しいな・・・と思いました。
これ、価値観の問題になっているんですよ。

ボーが2年間ずっと棚に並べられて「こんな人生はもういや!」と考え、誰にも縛られない身となって、世界を巡りたいと考えるのは、彼女の自由です。人生を謳歌して生きていく。良いことです。

でも、ウッディは、所有者のボニーを幸せにすることが一番大事だと考えています。神を盲信している状態と言っても良い。一方で、自分が遊んでもらえないことに悲しみを覚えている。「持ち主=神に献身することが幸せ」と感じられなくなりつつあるわけです。

要は、ボーの「神に縛られず自分の意思で生きていく姿」に、弱った心が引き寄せられている状態、と私は捉えました。もしウッディが、ボニーに毎日のように遊んでもらっていたら、ボーの生き方には共感をすることはほぼなく、とにかくボニーの元に何が何でも戻ろうとしたでしょう。

自己犠牲の果てに

4においては、重要なポジションのおもちゃとして、ギャビーギャビーというアンティークの人形が登場します。彼女はウッディと同じく背中の紐を引くとお喋りができるボイステープが仕込まれているのですが、悲しいことに、はじめから壊れていて、子供に愛されたことが一度もないのです。

ギャビーギャビーは、一度で良いから愛されたいという願いから、ウッディのボイステープを手に入れようとします。初めは抵抗するウッディですが、あまりに悲しそうなギャビーギャビーに、ウッディはボイステープを渡します。

声が出せるようになって、あこがれの少女に目をとめてもらうギャビーギャビー。しかし、子供という神は、無邪気で残酷です。手に取り、しげしげと眺め、紐を引っ張り、おしゃべりするギャビーギャビーの声に耳を傾けますが、彼女は「いらない」と人形をダンボールに放り込んでしまうのです。

あまりのショックに打ちひしがれる彼女をウッディは誘います。自分の持ち主のボニーならきっとかわいがってくれる、だから一緒に行こう、と。

ウッディは、一度は無理やりボイステープを奪おうとしてきたギャビーギャビーに、ボイステープを渡し、さらにはボニーのもとへ連れて行こうとするわけです。アガペーってレベルじゃねえぞ!!!

結局ギャビーギャビーは、遊園地のなかで迷子になっている少女を見つけ、その子を励ますために行動した結果、無事その少女に気に入られ、ここはハッピーエンド。まあウッディのボイステープ奪ったまんまだけどな!!!

さて、あとはボニーのもとにウッディが帰るだけです。ちなみにフォーキーはもう帰ってます。ウッディはわざわざギャビーギャビーを助けるために残ったんですよ・・・。アガペーってレベルじゃ以下略!!!!!!!!!

なんとかボニーのもとにたどりつき、さあ、野生に帰ったボーともお別れ。寂しくなりますね。でもウッディにとってはボニーが最優先ですから、仕方がない。

良い仲だったボーと離れがたく思うウッディに、バズは言います。

「彼女なら大丈夫だ」

そうだね、ボーは強いもんね。野生仲間もいるからやってけますよね。
ウッディはさみしげに、同意の笑みを浮かべますが、バズは続けてこう言います。

「ボニーなら、大丈夫だ」

そっち!?!!?!?!?!????

驚くウッディ。彼はボーの方を振り向き、決断します。
絶対の神だったボニーから、バズから、仲間たちから離れることを。

固く抱きしめ合う相棒2人。長く連れ添った仲間と別れたウッディと、仲間たちに囲まれたバズは遠くなる互いの姿を見ながら呟きます。
「無限の彼方へ」「さあ行こう」

いいエンディングじゃないの〜!!!!!



・・・本当に?

神を捨て、メシアとなったウッディ

晴れて(?)自由の身となったウッディは、射的ゲーム場などで、持ち主を得られず悲しむおもちゃたちを、どんどん開放して子供に与えるという、救世主じみた行いをしてみせます。自分自身はもう、特定の誰かのおもちゃにはなりません。ボーや新しい仲間と共に、移動遊園地で旅を続けていく・・・というエンドです。

これはこれで、悪くないというか、普通に良いエンディングだと思います。
好きな女性と共に、世界を巡り、そして救われないおもちゃを助け、子供を喜ばせる。もうそれってメシアじゃない?もともとアガペーがすごいとは思ってたけど、マジで神格化してきてない?

ウッディがメシアになるエンド。それが4のオチだと、私は思っています。
それ自体は別にいいんです。いいんですけど、過程がどうしても、納得いかないんです。

ウッディの意思はどこにある?

1〜3において、ウッディは常に”自分の在り方”をしっかり持っています。1ではアンディの一番のお気に入りでありたいという嫉妬心から色々ハプニングを起こしますが、最終的にはやっぱり「アンディのおもちゃでいたい」「アンディを幸せにしたい」というのが、ウッディの意思。
アンディの幸せがウッディの幸せ、というのが基本スタンス。

ただ、3のラストではじめて、ウッディは「アンディではなく、おもちゃの仲間たちと一緒にいたい」と考え、そのように行動します。
それは、ウッディがアンディという大事な存在から卒業するという、非常に大きな転換点であり、それはアンディが大人になるための儀式でもあります。大学に連れて行っても、もう遊ぶことはないでしょうし・・・。

私は、トイ・ストーリー3部作・・・というか、3が高い評価を得ている理由は「子供はいつかおもちゃから卒業する」という物語を描ききっている、そして「大好きな仲間たちといられることの幸せ」をウッディやバズたちの絆を通して教えてくれることだと思っています。

そう、ウッディは、あんなにも大好きな持ち主のアンディより、仲間を選んだんですよ。そしてみんなで一緒に、新たな持ち主に迎えられた。

それが、なんで4で、あんなにもあっさり仲間から離れてしまうん・・・?

惚れた女と一緒にいたいから?
持ち主に愛されなくなったから?
持ち主に尽くすことだけが幸せでないと気づいたから?

理由は様々でしょう。
そりゃクローゼットでホコリかぶってるよりは、自由の身になって好きな女性と旅に出るほうが幸せ、かもしれないけどね。

大好きなアンディから離れてまで選んだ仲間より、惚れた女と自由のほうが良いんか!?!????

4のウッディは、基本的に流されている感というか、1〜3のような”意思の強さ”があまり感じられなくて、そこがどうも納得いかないというか、違和感が強いんですよ・・・。

子供を大切にする姿勢や、仲間のために必死になるところはウッディらしいですが、それにしてもあまりにボーに流されすぎじゃないか?という印象が否めなくて、やっぱりモヤッとしてしまうんです。

自分の意思でメシアになったというより、いろんな運命(持ち主に飽きられたこと、自由を得たボーと再会したことetc)の結果、メシアになってしまった・・・というのが、4のウッディに対する感想。

そういう分岐もアリ!

というわけで、私は『トイ・ストーリー4』は、3部作の続きではなくて『トイ・ストーリー外伝』として扱うことにしました。
かっこよく野生化したボーと、いざ自由の旅へ!そういう分岐もあるんだな、なるほどな!パラレルワールドだな!

私の中のウッディは、永遠にバズや仲間たちと一緒にいる。
そういうことにさせておいてくれ・・・じゃなきゃ3のラストは何だったんだという気持ちが抑えきれない・・・ン゛ン゛ン゛マジで何だったんだああああ〜〜〜!!!???!!!??????(結局抑えきれてない)

『トイ・ストーリー4』を否定したいわけじゃない、ウッディの決断やバズの後押しを無下にしたいわけじゃない・・・それでもやっぱり、私の中で、彼らにはずっと一緒にいてほしかった。

こんなのファンのワガママなんでね、別に公式に文句言いに行こうとかは思ってません。でも私はこう思ったので、こうやって文章にしました。

は〜書いたらすっきりした。

映画としての話をすると、もうちょっとボーの掘り下げが欲しかったなあと思ってます。ウッディの価値観を変える大きな存在なので、彼女の冒険譚というか、フワッフワのスカートに身を包んでいたボーがあんなにアクティブになるに至った経緯を、回想30秒とかでもいいから挟んでほしかった

あとボーがウッディを遠回しに非難するシーンで「ボーってそういう性格だったっけ・・・???」て結構ショック受けた。言うときはハッキリ言う子じゃなかった・・・?私が幻想を抱きすぎてる・・・・・・???

キリがないのでこのへんにしておきます。
繰り返しますが、映画としては本当によくできてて面白かったです。

ほんっっっとにあくまで個人の感想なので「自分はこう思いますよ!」「自分はこういう解釈しましたよ!」などありましたら、遠慮なくコメントしてやってください。スッキリできそうな解釈とかあれば是非。

ちなみに4で一番好きなキャラはダッキー&バニーです。泥水でした。

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