私的解釈ことわざ小話②鬼に金棒

ここからずっと南にいくとひとつの島がある。土地は枯れ、空はどんよりと暗い。近海は常に荒れ、世界より隔絶された島だ。風は一年中冷たく、生きるものの命を削る。食料をかき集め暖を取り、やっとこさ生きられる環境だったとしても、一週間ともたないだろう。なぜなら、その島には鬼が住んでいるからだ。島の至るところでそれらは徘徊し、血走った赤黒い目で獲物を探している。何十といる鬼に見つかったなら最後、無惨な死に様に違いない。
悪さをした者はその島へ流刑となり、苦しみと共に一生を終えるのだ。

人々の間で流れる噂話は、時に酷く信用ならない。話にはひらひらと優美な尾ひれがつき、大抵は笑いや驚きを狙って面白おかしく改良されている。
南にあるその島の話も例外ではない。
実際に目にした者は生きていないと言いながら、島の描写はこと細かく伝えられているのだから可笑しなものである。事実、その島は緑豊かで生命に恵まれ、枯れた土地もどんよりとした空もない。
鳥がさえずり、花が揺れ、生き物が楽しげに駆け回る温かさと清々しさを合わせた色とりどりの島だ。
ただ、噂話の中には少しの本当があるもの事実。その島には鬼が住んでいる。それは本当。
大きな角と遠くからでも分かる程筋肉が隆起した赤い体。生まれつき刻まれた額の皺が、常に表情を険しくさせている。鬼は人間のように家族をつくり、獣のように縄張りを集団で守っている。島に天敵がいなくなった今、争いを避ける性分の彼らは随分と大人しく平和に暮らしていた。

遅い桜が咲き始める頃、平野に黄色の絨毯が敷かれる。年々、菜の花は夥しく数を増やし、この時期になると春の知らせを滞りなく伝えるべく島全体を覆う。
その花畑に珍客がのっそりとやってきた。その巨体を左右に揺らしながら、何かを目指して歩く。
小高い丘の上にあるこの菜の花畑は、島一二を争う観光名所で、小動物に人気の場所であり、鬼がやってくるだなんてここ数十年一度もなかった。だから、皆一様に彼を見て、動きを止める。
落ち着いた歩みが余計に貫禄を植え付け、口をへに曲げた顔は、ともすれば、機嫌が悪いようにも見えた。
歌っていた鳥は口を閉ざし、体を揺らしていた花は動きを止める。
この島の生物も人間と変わらず、噂話が好物だ。
だから、鬼の中でも一際大きい図体を軽やかに動かす彼が、極悪非道無慈悲だと言うことを、初めて目にするのに知っている。決して近づいてはいけないと。根拠のない冷たいその言葉だけが脈々と受け継がれていた。
鬼はそのまま花畑を通りすぎて、一本の木の前に立ち止まる。
「おい」
誰も返事をしない。低い声に反射するよう花が小さく揺れる。
「……おい」
「やーやー、待たせたね」
木を殴り倒さん勢いで怒鳴り散らすかと思った矢先、一羽の青い鳥が鬼の肩に止まった。
「遅い」
「ごめん、ごめん。これでも急いできたんだけーどね」
屈強な戦士の肩に小さな鳥が止まっている。それはこの島ではとても不思議な光景だった。しかも鳥の態度は軽薄で、鬼の怒りのまま、鋭利な歯で噛みちぎられ、数秒と経たずして食べられてしまうのではないか。口に出すことも出来ないほどの惨殺現場が皆の脳裏を横切った。
しかし、鳥は楽しそうにピューッと歌い、それどころか「君はおこりんぼうだねえ」とさらに煽るような、ふざけた態度を崩さない。
「これを」
右手を鳥へ差し出す鬼に、皆が最悪を想像する。もうあいつは駄目だ。
しかし、皆が心配している場面は訪れず、葉にくるまれた包みを鳥に渡しただけだった。
「それに君は言葉足らずだ」
「お前は口減らずだな」
グツグツと鍋を煮るような音で笑う鬼は、木の側へ腰掛け、幹に体を預けて、鳥と親しげに話をし始める。彼の顔が楽しそうに動くことはないが、誰もが鳥との親睦の深さを窺えた。もう鳥が食われそうなどと考えるものはいないだろう。
小一時間で奇妙な会談は終わりを迎え、鳥が大袈裟に群衆へ見せつけるよう羽ばたき、赤く染まり始めた空へ飛んでいった。その姿を飽きることなく見詰め、黒い豆粒になってから鬼は腰をあげて、来た道を戻っていく。
皆、安堵と恐怖が混じった顔をして、またゆっくりと去っていく彼を見る。
しかし、もうすぐ花畑を出るというところで、鬼が急に止まり、右へ鋭い目線を送った。何かに気付き、迷いなく踏み出された足は、花を出来るだけ踏まないようにと進められたのだが、皆には獲物を逃がさないための慎重な足取りに見てとれた。
冷たい風が吹きはじめても、誰も動かない。いや、動けない緊迫が花畑を包んでいる。
鬼は鬼の背よりも少し高い木が連なった緑の壁にぶつかりそうになって、やっと動きを止めた。木の葉が顔にぶつからんばかりに近付いて、威嚇するかのごとく形相で、緑を睨み付ける。
「きゃああ」
悲鳴とともに鬼の手の平よりも幾分も小さい生き物が転げ落ちた。それは足元で一度跳ねると鬼の足先に当たってまた跳ねる。
「ご、ごめんなさい」
鞠のように丸まった茶色の毛玉は、そのまま頭を垂れより小さくなるので、鬼が覗こうにも顔を窺うことは出来ない。
「大丈夫ですか?」
鬼の問いかけも恐怖で一杯の耳には届かないようで、毛玉は震えるばかりで答えない。
鬼はどうしたものかと思案するも、顔を上げさせるいい案など思い付かず、もし出来たとしても更に恐れおののくのは目に見えていたので、毛玉を両手で掬って緑の上へ戻してやった。
毛玉は急な浮遊に余計恐怖を募らせ、想像しうる阿鼻叫喚により頭を抱えた。
「驚かせて、すまない」
最後に鬼はそう言うと今度こそ花畑から帰っていった。
鬼が帰って数十分したころ、毛玉の震えがやっとなくなり、丸めた身を上げると綺麗な毛並みの栗鼠が現れた。彼女は、眉間に刻まれた皺の数がはっきり見えるところまで近付いてきた鬼に驚き、木から滑り落ちたのだった。俯く視界から垣間見た鋭利な爪の生えた赤く大きな足が、余計に栗鼠の恐怖を掻き立てていた。体が金縛りにあったように震えるだけしか出来なかった。一口の丸飲みで、食べられたろうに。
栗鼠はどうして食べられなかったのか、不思議でならなかった。リスもまた噂話を信じていた。
噂話というものは、それのみが事実であるかのごとく振る舞う。話し手の誇張度合いにもよるが、事実を目にする機会がなければ、疑いの余地がない場合も少なくない。
太陽が沈み、心配した兄弟が呼びにくるまで、栗鼠は鬼が去っていったその向こうを見ていた。

大変だ、大変だと早朝から騒々しく鼠がやってきた。栗鼠は六人家族四兄妹の二番目で、誰よりも早起きだ。焦り話が落ち着かない鼠を招き入れ、栗鼠は湯にはちみつを溶かして差し出した。
「おお、気のきいた娘さんだ。お父さんはまだ寝ているかい?」
一杯綺麗に飲み干した後、やっと鼠は栗鼠にもわかる言葉を発した。
「父はまだ帰っていなくて。母でしたらもうすぐ起きてくると思います」
大家族を養うために、父は夜も返上して働いている。
「それじゃあいけねえ。他にも回らにゃならんからなあ」
鼠は曲がった髭を伸ばしながら、次の家への道順を反芻する。この家の母親が身支度に時間がかかることは有名な話だった。
「じゃあ、言っておいておくんなさいな。肉食い鬼が出たって」
鼠はそう言うと、最後にはちみつ湯の御礼を律儀にしてから、また大変だ大変だと口にしてあわただしく出ていった。
栗鼠は鼠の言葉に震えだした手を机の下へ隠す。お見送りしないとと思うも、椅子から立ち上がれずにいた。栗鼠の脳裏には昨日の光景が浮かぶ。昨日のあの鬼かしら。それとも別の鬼かしら。大きな角を思い出して、小さな体を大きく震わせた。
胡桃スープを作ろう。きっと温まる。栗鼠は震える足を叱咤して、床を踏みしめ、キッチンへ向かった。
ナンキンハゼに溜まった雨水を煮立て砕いた胡桃をたっぷり入れて、ことことと十数分煮る。いい香りがたってきたところで乾燥トウモロコシを添えて出来上がり。簡単に美味しくできる胡桃スープが栗鼠は大好きだ。匂いにつられて兄と母親が起き、弟を起こして、皆で食卓につく。
「美味しくできるようになったわね」
「このスープが一番美味いよ」
「美味い、美味い」
「毎日食べたいわ」
母親が栗鼠を誉めると兄たちもそれに乗っかって体よく持ち上げ、いつまでも朝食作りが栗鼠の仕事になるのだった。
「ちょっと出掛けてくるね」
家ではだらしない母親も、家事を押し付けるためおだてる兄弟も、栗鼠は今日だけは気にならなかった。
恐いはずなのに、体が震えているのに、気になって仕方ない。もう一度あの場所へ行こうと心に決めた栗鼠は、家族の問いかけも耳に入らず、朝食の片付けもそこそこに家を飛び出した。

早起きの太陽が栗鼠を優しく照らす。春の陽気はいつの間にか夏へと向かっていた。栗鼠は、緑に移り変わる景色を背後に流し、急ぎ足で進む。しかし、花畑に入る手前で、軽快な足取りを妨げる獣が一匹、行く手を阻んだ。
「娘さん。そっちは危ないよ」
どこからともなく現れた狐が怪しげに言う。
「私、こっちに用があるんです」
「そしたらば、今日はやめておきな。肉食いの鬼が出たんでね」
「……本当に鬼は肉を食べたの?」
栗鼠はどうしても信じられなかった。噂話と違うあの鬼の姿が思い浮かぶ。
「そうさね。血がそこらじゅうに飛び散ってて、鴨のお頭がおったまげたらしい」
「でも鬼が食べたってどうして分かったのかしら?」
「地面には大きな足跡。体にゃ深い爪跡があったらしい」
「か、体?」
狐の言葉に栗鼠の体が丸まり始める。それは恐怖から身を守ろうとする反射なのだが、素早く動けない欠点が致命的だった。
「そりゃあ、仏さんの体にざっくりと。血がかなり出たんだ、可哀想に深手だったんだろうよ」
栗鼠がもう何も言えないで震えだすと、狐は慰めるようにその頭を撫でた。
「今は早く帰ってお母さんのお腹で暖まりなさいな」
そう言い残して、狐は藪へと消えていった。
震えが止まらない栗鼠は、暫くして耳が熱いことに気付く。狐の尖った爪が耳を掠め、小さな傷を作ったようだった。それほど痛くはないけれど、気づいてしまっては妙に気になる。傷口は既にふさがり、綺麗な毛並みに似つかわしくない赤黒いさぶたが出来ていた。
両手で耳を包み、丸くなりそうな体を叱咤して、栗鼠は昨日と同じ場所へ急ぐ。
もしかしたら血がまだ残っているのかもしれない。まだ仏様が放置されているのかもしれない。それでも体はあの場所へ向かっていく。栗鼠の大きな目に涙がたまって垂れた。

菜の花畑を走り抜け、木の幹を垂直に登る。昨日と同じ場所から顔を出すと、辺り一面の花が見えた。見える限りではまだ惨劇の現場を示唆する怪しいところはない。栗鼠はどこかにそれがあるのではないかとくるくると顔を動かして、周りをよく観察する。
下方からかさりと葉が声を上げたのに反応して、注意力を全て目に注ぎ込んでいた栗鼠は、またまた枝から落っこちた。
「……こんにちは。可愛いお嬢さん」
それはそれは優しい声が、着地もできず地面に転がる栗鼠に降りかかる。しかし、栗鼠は顔をあげることができない。なぜなら、昨日と同じ大きな赤い足が見えたからだ。
真っ黒なまん丸目玉を更に丸くして、その場で少し飛び上がる。そうすると彼は恥ずかしそうにまた「こんにちは」と言った。その声があまりにも不釣り合いで、栗鼠はゆっくりと顔を上げ、「こ、こんにちは」と精一杯に返す。
鬼と栗鼠が初めて互いの顔を認識する。栗鼠に至っては相手の顔を初対面で見ているはずだが、恐怖のあまり眉間による皺の数しか覚えていなかった。
真っ赤な鬼がちっぽけな栗鼠を見下ろしている。はたからみたら一刻の猶予もない状況だが、鬼と栗鼠の間にはゆっくりとした温かな時間が流れていた。それでも、栗鼠の怯えは目に見えて分かったので、鬼は無理に距離を詰めることはしない。
「大丈夫ですか?」
「は、はい」
栗鼠は転げたまま体勢を直しもしないで、空返事をしたが、何よりも返答したことが鬼を喜ばせていた。額の皺がより、目尻が少し下がる。栗鼠は彼が笑っているのかもしれないと思った。
「お気をつけて。そう何度も転んでは傷が残ってしまいますよ」
鬼は両手をゆっくりと伸ばし、一度栗鼠の前で止めてから更に丁寧に、腰を抜かし動けない栗鼠を両手で掬って、木の枝に優しく乗せる。為されるがまま固まる栗鼠の体が、多少なりとも軟化したようだ。
「あ、ありがとうございます」
恐る恐る栗鼠がお礼を言うと鬼は鋭利な爪で器用に顔を掻いた。
「ぶっきらぼうも笑うんだねえ」
突然、冷やかしの声が頭上より笑う。いつの間にか、昨日の鳥が鬼の頭上を旋回していた。
栗鼠は酷く鬼を馬鹿にしている鳥が、食われやしないか不安になった。うってかわって、鬱陶しそうに鳥を見つめる鬼が、今にも長く鋭い爪の生えた大きな手ではたき落としたり、綺麗に生え揃った白い歯で食いちぎったりするのではないか。しかし、栗鼠が想像する事態には一向にならないで、それどころか、鬼の肩に止まった鳥がまた皮肉を言う始末である。
「こんな綺麗なお嬢さんがいたんじゃ。約束に遅れるのも仕方ない」
「遅れてないだろ」
「太陽が三本松の頂点に来た時にってえ言っただろう?今はもう隠れているじゃあないか」
「いや、隠れた時だ」
「またまた、そんな事言いだしてえ」
「……」
「本当、君は。やれやれだーね」
鬼と鳥は長い年月を共に歩んできた友のように、付かず離れず寄り添っている。いつの間にか、栗鼠は恐怖よりも興味が勝っていた。
「あ、あのう」
申し訳なさそうに割ってはいったか細い声に、四つの目がその小さな体を映す。栗鼠は毎朝丁寧にとかしているふさふさの尻尾を巻き付ける様にして、小さく震える体を支えた。
「何だい?綺麗なお嬢さん」
おどけて鳥が聞く。
「その、えっとお」
「何でもはっきり聞いて下さいよ。煮えきらないのは好ましくないんでね。雑煮と一緒だ」
口を開いてみたものの、栗鼠は言葉を探して口ごもる。それを見た鳥は面倒くさそうに少し頭を傾げた。軽薄な口調の割りに、明確さを欲する鳥が、余計栗鼠の口を開きにくくさせる。
「お前、失礼だろうが」
栗鼠の震えが少しずつ大きくなってきた時、鬼がやっと口を開いた。
「お嬢さん、すいません」
「おいおいおい。おらあ別に、お嬢さんを苛めたいわけじゃあない」
「なら言葉を選べ」
「はあ、おらだけが悪者ですかい。君の見た目が一番悪者のそれなのにねえ」
また愉快に鳥は笑う。鬼はもう鳥の言葉を聞くことをやめ、栗鼠のところへ目線を合わせ、もう一度問う。
「どうしたんですか?」
「あなた様は、あの鳥様とどのような……」
栗鼠の言葉に、鬼と鳥は顔を見合わせた。
「かあー、恥ずかしいね。そうはっきりと聞かれると」
「自分で言っておきながら」
「まあまあ、そうなんだけーど。こうもはっきり聞かれると照れるじゃあないかい」
「口を縫い付けようか」
「おお怖い。あの希代の鬼様が鳥様とお友達だなんてえ、なかなかないんだあけーどね」
鬼と鳥が楽しそうに話す様子に、栗鼠の震えは収まっていく。
「仲がよろしいんですね」
「そんないいものではないですが」
「いいもいい、かなりいいですよお」
栗鼠は不思議ともう恐いと思うことはなく、鬼と鳥と一緒に花畑で長らく話をしていた。

栗鼠が家に着いたのは、一本杉から白い月が顔を出した頃だった。
「ねえちゃん!どこ行ってたんだよ?」
玄関から飛び出てきた末の弟は、栗鼠にすがり付くように飛び付く。
「そんなに急いでどうしたの?」
「鬼が出たんだよ、鬼!」
興奮した様子で栗鼠を揺らす。
「お父さんが、お父さんが」
引っ張られるようにして家へ入ると、そこには母親をはじめ兄弟が暗い顔をして、大机を囲んでいた。
「遅いじゃないの」
母親の一言には、皮肉が分かりやすく込められているが、栗鼠には届かない。
「父さんがやられました」
業務連絡にしては物騒な物言いだ。栗鼠はまん丸な目を転げ落ちんばかりに広げる。
「え?どういうこと?」
「耳を噛み千切られて意識がないの」
皆尻尾の毛を逆立て、体に巻き付けている。栗鼠が奥の寝室へいくと、六つ並んだベットの一つが膨らんでいた。ゆっくりと上下する布団に、少し胸を撫で下ろす。穏やかに眠る顔が、事実を受け入れがたくさせるが、確かに父親自慢の右耳は根本からなくなっていた。
「肉食い鬼だよ。ねえちゃん、僕怖い」
栗鼠を追ってきた末の弟がまたすがり付く。けれど、栗鼠は本当に鬼のせいなのかと疑問に思っていた。あの大きな口で、栗鼠たちの小さな耳を器用に食い千切ることなんて、出来るのだろうか。
鬼を見たこともない皆にそれを聞き、理論立てて説明しても、きっと鬼のせいだと言うだけで、栗鼠の話を真剣に聞いてくれる家族は一匹もいなかった。父親が起きていればあるいは聞いてくれたかもしれないが、当の本人が目を覚ますには、まだ数日かかるようだった。
小さな栗鼠一家を襲った恐怖は、彼らを一ヶ月近く木の幹にある家へとどまらせた。遊びに行きたい盛りの弟さえ自身の部屋から出てこない有り様である。幸い栗鼠の家には胡桃貯蔵庫があり、食料には困らなかった。そこから胡桃を運ぶことだけが栗鼠の日課になっていた。
「少し早いけれどもう冬ごもりしましょうか」
ある日、晩の食卓で母親が唐突にそう言った。冬には到底届かない季節であることは誰しも分かっている。
栗鼠が持ってきた胡桃を机へ置くと、皆そのままかじって食べ始めた。
「もうそんな時期かい」
いまだに耳に包帯を巻いている父親は、そのショックで目が見えなくなっていた。
「まだ少し早いけれど、どうせ外に出ないのだから」
母親の言葉に皆頷く。冬ごもりが始まったら、暖かくなる季節まで外に出られない。家族と胡桃と一緒にゆっくりと暗い穴蔵で暮らすのだ。毎年のことなのに、それがどうしてか、栗鼠を憂鬱な気分にさせた。
寝ぼけ眼で冬を越し、時折目覚めては胡桃を齧る。怠惰で贅沢な時間の使い方も、厳しい季節を乗り越えるため、小さな体には必要不可欠であるはずなのに。
栗鼠には外の世界との差が酷く寂しく感じられた。栗鼠が眠っている間、鬼は、鳥は、鼠は、皆話をして笑って楽しく過ごしているのではと考えると、なかなか眠りにつけないでいた。

秋を通り越し、冬を抜けて、春に差し掛かる頃には、こっそりと外へ出ようとした回数が五十回を越えた。しかし、毎度ベッドから五歩出ては引き返すということの繰り返しで、実際に外へ出る勇気は栗鼠にはなかった。

「おはよう」
父親が皆を起こして回る。それが冬ごもりの終了の合図だ。
「今年は特に長かったな」
「これで、またサッカーができるぜ」
「兄ちゃん、俺も混ぜて」
「お前は足が遅いから駄目だ」
やっと外に出られる季節に歓喜した皆は、父親の耳が欠けている事実を忘れているようだ。栗鼠はそれに気づいたけれど、あえて言うことはしない。栗鼠はずっと外へ出たかったから。鬼と鳥のことが気になっていたから。
「あら、お出かけ?」
「ちょっと……ねずの所に行ってくる」
「ねずねちゃんね。いってらっしゃい」
暖かい陽気に、母親の気も緩んでいるようで、栗鼠の小さな動揺は見つかることはなかった。首から下げた葉っぱの鞄に砕いた胡桃を少し詰め、栗鼠は穴蔵を飛び出す。

真上から太陽の光が降り注ぐ。周りには緑や黄色、それに赤、白。色が沢山溢れている。島の至るところから、生命がまた静かに目覚めはじめていた。栗鼠はやはり今年は寝過ぎてしまったと後悔する。暖かい気候はもう直ぐに心地いいを通り越し、暑苦しいものに変わる手前まで来ているように感じた。
「あら、まあ。いつぞやの娘さんだ」
急ぎ足で例の場所へ向かう栗鼠の進行を、いつぞやのように、妨げて狐が現れた。
「こ、こんにちは」
長い毛に覆われた前足には鋭い爪が隠されている。そこに着いた黒い汚れが栗鼠を不安にさせた。
「やあやあ、急いでどうしたのかい?寝ぼけ眼で危ないじゃあないか」
優しい言葉とは裏腹に、狐は栗鼠の動きを注意深く観察している。
「私、急いでいるので」
「おじさんは、娘さんが心配なだけなんだけどねえ」
一向に道を譲らない狐に近づくしか、目的地へ辿り着く方法は思い浮かばない。
「こんにちは。可愛いお嬢さん」
栗鼠の視界に急に入った赤い大きな手は、彼女をすくい、狐の遥か上まで持ち上げた。
「お、鬼だ。肉食い鬼だ!小さな旨そうな栗鼠が食われるぞ」
狐は突如現れた鬼に驚愕し、わめき散らして、尻尾を巻いて逃げていった。
「あれれー。逃げちまったよ」
鬼の肩に止まる鳥は、狐の逃げていった方を指差して笑う。
「大丈夫ですか?」
「あ、ありがとうございます」
栗鼠はいつまでも手の中に優しく守られているのが、恥ずかしくて尻尾を振るわせた。
「これこれ、君はいつまで持ってるんだい?紳士じゃあないなあ」
鬼は鳥の指摘に文句も言わず、素早く栗鼠を木の上へ乗せてやる。
「お嬢さん、全然来ないから。何かあったのかなあってー話してたのよ」
「ここまで来てよかった」
栗鼠は頷く鬼と鳥に、また少し恥ずかしくなった。
「栗鼠の冬ごもりは長いので……」
「そうだった、そうだった。前に遊んだ栗鼠も俺様を置いて随分と寝てたーからなあ」
季節を勘違いした冷たい風が、木々の間を抜ける。栗鼠が頭を振り、小さなくしゃみを落とした。
「こりゃいけねえ。エスコートしなくちゃあ」
鳥の一声で、また鬼が栗鼠をすくい暖かな菜の花畑へ連れ立つ。丁度いい具合の切り株を見つけて彼女を降ろした。鳥もその隣へとまり、鬼は近くに腰を下ろす。
「狐は悪さをするから近づかないが吉ですぜ」
鬼には聞こえないくらいの小さな声で鳥が囁く。栗鼠はそれに頷いた。
暖かな日差しの中、楽しそうに話す栗鼠と鳥。時より鳥に突っつかれる鬼。はじめは遠巻きにしていた花畑や森の住人達も徐々に輪に入りはじめ、談笑は穏やかに盛り上がりを見せた。

鬼に鳥とぶっきらぼうの優しさ。
栗鼠はまるで似合わないと思ったけれど、それはそれで良いのかもしれないとも思い始めている。金棒よりも強力な相棒なのかもしれない。
彼は彼なりの接し方で大事に扱ってくれた。栗鼠はそれが嬉しかった。

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