私的解釈ことわざ小話①井の中の蛙

誰もが井の中の蛙で、遠い未来を仰いでいる。生まれた時はその空さえも認識できず、狭い世界で生きていることにすら気づかない。

その蛙は、古びた井戸の底に溜まった泥水の中で生まれた。何故こんなへんぴな場所で生まれたのか。母親蛙の姿がない今、その理由を知ることはできない。
卵から孵った蛙の周りには、自分と同じ形の生き物がたくさんいた。あっちにもこっちにも数えられないほどたくさんいて、皆目を真ん丸くして互いを認識した。
大勢で泳ぎ回れるほど大きかった水溜まりが段々と狭くなり、その大きさに合わせるように次第に生き物の数は減っていった。二日経つ頃には半分まで減り、終には三匹になった。狭くなった水溜まりはこの上なく濁っていたが、蛙にとっては好都合だった。湿った泥を纏うと、干からびることがないからだ。蛙は残りの二匹と一緒に暮らすことにした。
手足が生える時期になると、泥水から上がり、その周辺を三匹で並んで歩いた。井戸の底は泥が溜まり歩きにくいけれど、その湿気と暗がりが蛙は好きだった。三匹は、泥の山を崩したり、泥を丸めて投げたりして一日中遊んで暮らした。遊び疲れると枯葉の屋根の下に作った泥のベッドに横になった。日が昇ればまた遊ぶ。その繰り返し。
日常が変わったのは、尻尾が消えて体の色がすっかり変わった頃だった。
兄弟は二人になった。その頃から蛙は一人で遊ぶようになっていた。
蛙の一等お気に入りは泥山崩し。泥でできた地面の膨らみをジャンプして上に飛び乗り崩すという遊びだ。蛙は今日も一人で、ぴょんぴょんと泥の山から山へと飛ぶ。勢いよく着地する度、辺りに泥が飛び散るのが面白くて、時より笑い声を上げている。
ぴょんぴょん。びしゃびしゃ。ドロドロ。
「弟よ。静かにしてくれないか」
不服そうな声がどこからともなく聞こえてくる。蛙の最後の兄弟は、泥水の真ん中程にある積み上げた泥のベッドに横たわっている。蛙がそちらに目を向けると不服そうな顔がじっとこちらを見ているのが分かった。枯葉の屋根は先日の風でどこかに飛ばされ、蛙の調子乗りが丸見えだったらしい。同じ日同じ時間に生まれたにも関わらず、兄弟は自分を兄、蛙を弟と呼んだ。僅かに卵の殻を破るのが早かったという理由に、仕方なく蛙は頷いた。それからずっと兄と弟だ。
「兄さんもこっちにおいでよ」
「動けないのを知っているだろう」
兄は次第に歩くこともしなくなり、ただじっと泥水に体を埋めていた。蛙は体がベッドにくっ付いてしまったのではないかと心配したけれど、「馬鹿な事言ってるんじゃない」とあしらわれただけだった。
「……分かった」
渋々とお気に入りの遊びを止めて、今度は歩いて探検することにする。蛙の一等は元々探検だった。初めて見る色の石や生き物、いろいろな発見があるからだ。蛙は兄弟に「これは何」と聞いては面白がっていた。けれど、疑問に答えるものがいなくなってからは進んでいくことはなかった。どうしてか今日は久しぶりに行く気になった。
暫く歩いていくと目の前に蛙の泥水よりももっとちいさな泥水を見つける。
ここで休憩しようと一息つくと、後ろの方から蛙を呼ぶ声が聞こえた。一瞬兄が来てくれたのかと蛙は思ったけれど、見えた姿に肩を落とす。
「久しぶりじゃないか? もう冬眠しちゃったのかと思ったぜ」
ミミズは蛙の態度も気にせず、楽しそうにやってきた。井戸の底には緑はないけれど、泥と独特の臭いとたまに他の生き物がいる。
「こんにちは」
「いつも一緒の奴らはどうした?」
「今日は僕一人だよ」
「何だよ。喧嘩でもしたのか?」
「……そんなとこさ」
「珍しいこともあるもんだ」
感慨深そうにそう言うミミズに本当のことを言う気にはならなかった。確かに蛙はいつも誰かと一緒にいた。一人でこんなところまで来たことはなかった。
「そんなことより、何か面白いことはないかい?」
「面白いことねえ……」
考え込むようにミミズは体を捻る。ミミズの身体は蛙の身体よりとても細くそして長い。極めつけに、どっちが顔かお尻か分からない。それを兄弟が賭けをして遊んでいたのを思い出した。蛙もどちらが顔なのかお尻なのか、話してみるまで分かっていなかった。
「あっそういえば! あっち」
手はないので顔であっちを示す。
「あっちが何?」
「あの一際高い山の先だよ。面白いものがあるって」
「面白いものって?」
「それを聞いてしまったら面白くないだろ」
それもそうだと思った蛙は早々にミミズに別れを言って、そびえる山を目指す。始めのうちは、面白いものってどんなだろうとワクワクドキドキして、思わずぴょんぴょん飛び回っていたけれど、流石に疲れてきてテクテクと歩き出す。乾いた泥が皮膚の水分を奪っていく。ヒリヒリとする足に蛙は眉をひそめた。兄には汚いと窘められているが、仕方ないとベロりと舌を出して水分の足しにした。歩いて歩いて、トボトボと重い足取りになった頃、目の前が真っ暗になっていることに気付く。
「ここはどこだろう」
何度かパチパチと瞬きすると、暗闇に慣れて目の前に何かがあるのが分かる。そのまま進んでも何かに遮られてこれ以上前には進めない。蛙が手を伸ばすと触れたそれは冷たくじっとりとしていて、すーっと上に高く伸びている。いくら押しても引いてもびくともしないし、動く気配もない。蛙は何度か試して不思議そうにもう一度上を見上げた。
初めて見上げた空は井戸に丸く縁取られていて、遠く小さい。じっと見上げていた空にピカッと何かが光って、眩しくて思わず目を逸らす。もう一度壁に向き直りこれ以上進めないのではしょうがないので沿って歩くことにした。右手でそれに触れて離れないように歩く。
暫くするとそれにも飽きたのか、蛙は元来た方へ戻ることにする。歩き疲れた体を引きずって、時々休み泥水へと帰っていく。もうこれ以上は歩けないと思えば、いい泥を見つけ包まり寝て、喉が渇けば小さな水溜まりを探す。すっかり時間が経ち、泥水に着く頃には一日と半日かかっていた。きっと兄は怒っているに違いないと最後はぴょんぴょんと全速力で向かう。
「兄さん、ただいま」
蛙の声に答えるものはない。ずっと寝ていたベッドにも泥水の中にも兄の姿はない。

蛙は一人になった。その夜、大粒の雨が降って、井戸に水がたくさん溜まった。こんなことはいままで一度もなかった。蛙はその中を久しぶりに自由に泳ぐ。あの頃よりも大きな体で、広い泥水の中をスイスイと泳ぐ。泳ぎ疲れて、いつの間にか眠っていた。

次の日、水はすっかり引いて、井戸の底は元の姿に戻っていた。
「大丈夫だったか」
朝も早く見回りと称してミミズがやってきた。
「なんとかね。君は?」
「俺を誰だと思ってんだ、ミミズだぞ」
誇らしげに胸をはるミミズをじっと見つめる。暫くして「そうか」と静かに返事をするだけの蛙に何かを感じ取ったのか、ミミズは元気に声を掛ける。
「まあ、幸いここは元通りだし。大丈夫だぜ」
「そうだね……」
蛙の返事に満足そうに頷いて、ミミズは「じゃあなー」と去っていく。その後姿を見詰めながら、蛙は元通りではないと思った。全く同じに戻りっこないのだ。

生まれ育った泥水はなくなり、新たに出来た泥水へと引っ越した。そこがこれからの蛙の家になった。新しい泥水に新しい泥のベッドを作って、そこに沈む。蛙は兄のようにこのまま動かなくなるのではないかと恐れながらも、日に日に体と気持ちが重くなっていくのが分かった。三日もするとこのままでもいいかと諦めにも似た気持ちが芽生えてくる。そんな状態が続いたある日、上の方から声が聞こえた。
「冬でもないのにもう冬眠かい?」
蛙はいつか兄がしたようにうるさいなと言ったけれど、暫く使われていなかった口がパクパクと動いただけで音はでなかった。
「おーい。寝坊助のカエルくん」
声の主は諦め悪く、蛙が返事をしなくても、ずっと呼びかけてくる。
「おーい」
流石に煩くなって蛙は上を見た。
「もう、うるさ……」
話をしてくれるミミズでも、追いかけて遊ぶハエでもない。見上げた先に見たこともない大きな生き物がいる。蛙は文句も言えず、目を見開いた。バサりと羽ばたいた鳥が井戸の縁に止まっている。
「あ、やっと気付いた。寝坊助くん」
「君は何の虫だい?」
目の前に衝撃に思わず蛙は聞いてしまう。気づいて口を塞ぐけれど後の祭りだ。
「寝坊助くんには虫に見えるのかい? 私は鳥さ」
鳥はクスクスと笑ってそう答えた。
「とり……」
「君は鳥も知らないのか。鳥っていうのは――」
突然やってきた来訪者は、知らない世界をたくさん教えてくれた。
蛙はとても興味深そうにその話に聞き入った。火をふく山。色の変わる木。そして、空を流れる光。蛙にとっては未知のものばかりで、想像すら及ばないわくわくとドキドキの冒険譚だ。
「海を知ってるかい?」
「うみ? それはなんだい?」
「本当に君はてんでなにも知らないね」
蛙は嘲笑う鳥を意にも介さず、話の先がだけが気になっていた。
「大きくて青い水溜まりさ」
「ここの泥水みたいな?」
「そんなのと一緒にしてはいけないよ。端なんて探すのが大変なくらい広いんだから」
「それはすごいや」
「それだけではないよ。大きな生き物もたくさん泳いでいるんだから」
「どんなのがいるんだい?」
「この前見たのは、そうだな」
そう言うと鳥は大きく羽を広げ、ぐるっと回す。
「この井戸を丸飲み出来るくらいの大きな怪物が口を開けて欠伸をしていたよ」
「え! そんな大きな生き物がいるのかい?」
「ああ、あと少しで食べられるところだったけれど、ギリギリ回避できたよ。私の羽は優秀だからね」
更に羽を広げ、自慢気に胸を張る。
「それで海っていうのはどうして青いんだい?」
鳥の意図に気付かない蛙は、尚も海について質問する。それに気を悪くして鳥ははあとため息をついた。
「そんなことは自分で確かめたらいい」
そう言うと興味をなくしたのか、蛙を一瞥して飛び立っていく。けれど、ポツンと取り残された蛙は、今聞いた海に想いを馳せていた。
もうやってくることはないと思っていた鳥はそれからというもの、時々井戸に来ては話をしていくようになった。蛙はベッドでじっとすることを止め、周りを散歩したり、ミミズを探して鳥から聞いた話を教えてやったりした。知識だけが増えていく蛙は実際に見てみたいという想いが日に日に強くなっていく。ある日、鳥がこんなことを言った。
「歌っていうのがあるんだ」
「それは何だい?」
「自分の気持ちをリズムにのせて表現する遊びだよ」
「リズム?」
「五七五七七の音で歌うんだよ。それがどの地域どの生き物にも大流行。皆こぞって詠んでいるよ」
「へえ、流行りものかあ。やっぱり鳥は物知りだね」
「私のような上流動物の嗜みだからね。知っているのは当然さ」
「たしなみ?」
「ああ。君には難しいから、五七五で詠んでみたらいいよ」
「えーっと」
「今感じてることや思ってることを言葉にすればいいんだ」
「そうなんだね」
「難しく考えずに。さあ、歌ってみて」
蛙は真剣な顔で考える。両手を出して指を折っては広げ折っては広げ。うーんと唸ってしばらくすると「あっ」と声を上げた。
「大海へ まだ見ぬ土地に 行きたいな。なんてどうかな?」
「それじゃあただの感想文だ。君にはやっぱり難しかったかな」
クスクスと鳥が、羽で口を押さえながら笑っている。
「いいと思ったんだけど。難しいなあ」
「歌にもルールがあるんだよ」
「そうなのかい?」
「リズムの他に季節の言葉を入れないといけない」
「なるほど。余計に難しいなあ。そうだ、試しに手本を詠んではくれないか」
「……君に詠んでやる歌はないよ」
そう言うと鳥は一際大きく羽ばたいて、見せつけるかのように飛び立っていった。井戸の底にいる蛙の所まで、巻き起こった風が届く。夏の終わりの少し涼しくなった風が頬を撫でる。この風は海を通ってきたのだろうか。蛙は海を知らない。
「見ぬ土地よ 涼風乗って 我届け」

「泥の中に隠れて、見つけるのが大変だ」
泥のベッドでウトウトとしているといつものように上から声が聞こえてきた。蛙は直ぐに覚醒すると泥水からでて鳥に答える。
「こんばんは。泥は暖かくていいよ。乾燥しないし」
「私には分からないね。ドロドロで汚いじゃないか」
「そうかな。案外悪くないよ」
蛙の答えにフッと声を上げて、馬鹿にする。蛙はそんな事よりも、次鳥が来た時に聞こうと思っていたことを聞きたくて仕方がなかった。
「いつも君はどこから来ているんだい?」
「それも知らないのか。井戸の中にいたら外なんて知らないだろうけれど」
「井戸? それが僕のいるところなのかい?」
「そうだよ。そんなちっぽけなところで暮らすなんて私は耐えられない」
「君は井戸に住んでいないのかい?」
「まさか。私の家はこの大空さ」
鳥は黒く大きな羽で更に上を指し示す。
「この広い空を飛んで渡って、好きなときに好きな場所にいけるんだよ」
「すごいなあ」
「これが鳥の生き方さ」
鳥から空のことを聞くと蛙はそれはそれは夢中になった。何故なら空は蛙の上にもあるからだ。蛙の見ることが出来る唯一の外の世界。井戸に縁取られて丸く青く、そして手を伸ばしても届かない。空は涙を流すことがある。白く冷たいものを降らすこともある。カンカン照りで蛙を焼くこともある。変わりやすく予測もつかない。それでも見上げればそこにあって、決して逃げ出したりはしない。蛙をいつも見下ろしている。
蛙は雨が嫌いだった。当たると痛いし、執拗に追ってきて煩わしいからだ。そんな日はいつも雨を避けて泥水の中に逃げていた。けれど、鳥の話を聞いてからは、雨が降る度地面に跳ねる雨粒に合わせるように飛んで遊んだ。空に向けて自分自身を主張するように。気の済むまでずっとそうしていた。
蛙は空模様の移り変わりを、季節を、その時々の時間を楽しむようになっていた。朝起きて空を見て、風を感じ、空気を大きく吸う。それが日課になって、過ぎ去る日々が、やってくる月日が、楽しみで溢れていくのが分かった。
ふと、何時もするように空を見上げ、そして蛙は考える。空から僕はどう見えるのだろうか。それは蛙が初めて他人から見た自分について考えたことだった。
小さく惨めな生き物?小さくとも懸命に生きようとする命?それとも、そもそも目にはいることなんてない?
誰に聞いたら答えが出るのか、蛙には分からない。けれど、何故か鳥に聞いてみようとも思わなかった。

僕が空を見るように、空も僕を見ているのだろうか。

その日の夜。
鳥が言っていた通り、空は暗くなると点々と星を輝かせた。蛙は思わず感嘆の声を上げ、両手を空へ伸ばす。
「僕の上にもあったんだね」
日が落ち辺りが暗くなった時、顔を上げたこことは今まで一度もなかった。蛙はそれを悔しく思いながらも、知れた喜びが凌駕していることに気付く。
「ああ」
小さな命の灯火が地上に所々とあって、空から見たら星のように輝いているのかもしれない。
「天高し  瞬き光る  灯火よ」
蛙はいつまでも空を見上げている。


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