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これ、作るの楽しかっただろうなー:『大限界』の感想

先日の「今年の新語2023」meets 国語辞典ナイトで『大限界』を買った。短大の女子学生がゼミで作ったオタク用語の辞典……という触れ込みで刊行前から話題だったが、情報公開後に旧ジャニーズ事務所のゴタゴタやら炎上騒ぎやらが起きてギリギリまで修正を余儀なくされたといういわくつきの(?)一冊だ。

私はもとよりこの本を楽しみにしていて、ザーッと流し読みしただけだが今も基本的にはポジティブな印象を持っている。ページをめくりながら何度かフフフと笑ってしまった。変な話だが、内容が面白かったわけでも良いと思ったわけでもない。「これ、作るの楽しかっただろうなー」と思ったのだ。逆に言えばそれだけ。この本にポジティブな印象を持っているというのも結局この「楽しそう」な感じを受け取ったからにつきる。

「ジャンル偏りすぎ」問題と「wikiでええやん」という反応

この本の「楽しそう」という印象の前に、反応としてwikiの存在が言及されたことを確認したい。発売前から炎上が起こったので、ほかの読者の反応も込みでいろいろ考えてしまったが、そうした反応への感想(つまり感想の感想)もちょっと含む。

炎上騒ぎが起きた直後、「本が気に入らないならwikiで書けばいいじゃん」とwikiを用意したかたがいた。

また本書の感想をTwitterで眺めていたら、この本はジャンルの偏りが激しい&ニコニコ大百科なんかのほうがさまざまなオタク用語を網羅しているし詳しいじゃんという意見も見受けられた。なお『大限界』で扱っているジャンルには相当偏りがあるという意見は批判派(?)に限らず擁護派(?)にも見られる。たとえば「三国」編集委員でもある飯間先生のツイート。

私も『大限界』は偏っていると思う。そしてオタク用語の意味や文脈を知りたいならさまざまなwikiのほうが便利というのはそのとおりかと思う。個人的にもピクシブ百科事典はよく見るし。

そのうえで、『大限界』にはwikiとは違った価値があると私は思っている。つまりwiki的な(あるいは辞書的な)項目の網羅性、もっというなら記述の正確性すら『大限界』の根本的な価値とは結び付いていないのではないかな、ということを考えていた。

本にできること

wikiは誰でも、いつでも編集をできるシステムだ。だからこそ、wikiはさまざまな項目を網羅し、詳細な記述や客観的な見方がしやすく、時事的な事項にも即座に対応できる。ついでにいえば物理的な制約もないし、リンクも便利。良いことづくしだ。情報共有ならwikiのほうが圧倒的に便利だろう。

そんなにwikiが便利なら、本にできることはなにか? 一言で言えば「メッセージを込める」ことではないか。

本はwikiと違って執筆者が限られている(往々にして個人で書く場合が多い)し、一度刊行したら改訂などがあるとはいえ基本的には修正不可能だ。ある人or人々が、ある時期に世に伝えたいことを文字と図像を使ってかたちにする。ざっくり言えば本はこうしたものだろう。メッセージは本に限らずほかのメディアでも伝えられるだろうが、いずれにしてもwikiにできなくて本にできることとして「メッセージ」は挙げてよいと思う。もちろんwikiでも個人の感情がこもった記事はある。とはいえ不特定多数がいつでも編集できるという性質上、個人の思いや考えを残しておくには根本的に適さない。

本がメッセージを込めるものなら、『大限界』のメッセージは何だろうか。ここで最初に書いた感想に戻ってくる。「楽しそう」。つまり私が受信した電波は、「私たちはこのジャンルの話をするのが楽しい!」というものだった。

「楽しんでほしい」という真面目な冗談

この本は「冗談」に満ちている。紙面は辞書の体裁をとっているが、その実書かれているのは、オタクたちがインターネット上で交わす用語や他愛ないスラングだ。真面目なフォーマットとくだらない内容の落差が良いギャップになっている。『大限界』というタイトルも宇宙猫を想起させる(?)装丁の演出も馬鹿馬鹿しくて良い。

もともとは真面目なゼミ課題の一環だったのかもしれないが、商業出版としては良くも悪くも冗談めいたものに仕上げられている。この思わず苦笑いしちゃうような設計が、滅茶苦茶な偏りを見せている構成と相まって、「私たちが好きなもので一緒に楽しんでほしい」というメッセージをかたちづくっている。私はそうした"電波"を一方的に受信した。『大限界』がなにか伝えるものがあったとしたら、制作陣が見ている世界の「楽しさ」でしかなかったのではないか。

俺、中身について何も書いてなかったわ……。

しかし、ここまで書いてみて思ったが、この本に反発を覚えた人が少なからず現れてしまったのも無理もない話かもしれない。このnoteでは『大限界』の内容についてほぼ何も触れていない。結局私の評価というのは「その心意気や良し!」みたいなものなので、内容の良し悪し以前のものだ。「楽しいとかマジでどうでもいいし、ちゃんとした内容のもの作ってよ……」とか「じゃあ別に同人誌で良かったのでは?」とか言われればそれまでかもしれない(実際、もとは同人誌であったらしい)。第一、私が本から感じた「メッセージ」とやらも単なる思い込みだし。

もう一つ付け加えると、『大限界』には「アークナイツ」の章があって、「アークナイツ」ユーザーである私は最初にこの章を読んだ。つまり私はたまたまこの本と共有できる文脈を持っていた。だからこの本から受け取った「楽しい」という感覚も、言ってしまえば「内輪うけ」なのかもしれない。私が知っているジャンルが全然なかったら、もしかしたら違った感想を持った可能性もある。ていうか、19とか20とかの女子にリーチしているのか、アークナイツ!

なにより、冗談めいた本に仕上げたのは正しい選択だと思うが、冗談を面白がってもらうのは存外難しい。ましてやSNSでは。下手な冗談などただの不愉快でしかない。私はこの冗談を面白いと思ったが、ある人には「は? 喧嘩売ってんの?」というものでしかなかった。販促施策も含めて、「制作陣と読者のコミュニケーションが上手くいかなかった本」という評価も頭には浮かぶ。私の感想も本当に私個人の感想でしかない。

「メイキング・オブ・大限界」があれば良かった

といった感じで擁護しているのかくさしているのか、そもそもこれは本の感想なのか「感想の感想」なのか、自分でもわからなくなってきた。まとめると、最初に書いたとおり私は『大限界』にポジティブな印象を受けている。『大限界』は冗談のような本だ。誰しもが面白いと思えるものではない(むしろ不愉快)かもしれないし、「くだらないし内容もさておくが、楽しげなのでヨシ!」という私の評価は制作陣からしてもあまり嬉しくないのかもしれない。しかし私はこのくだらなさが好きだし、くだらない笑いからくる楽しい感覚こそがこの本の核心にある価値・良さだったのではないかと勝手に思っている。

年齢も性別も好きなジャンルも制作陣とは違うだろうが、私もオタクなのでオタク用語を使ってオタク同士で話すことがある。あのくだらなくも、ときに笑い転げてしまうような感じ――。私が想起したのはそうした感覚で、これを引き出した時点で私にとってはそんなに悪い本ではなかった。それだけに、祝福されない本となってしまったのは残念だなーと思ってしまう。

あと勝手な感想ついでに妄想を付け加えると、「メイキング・オブ・大限界」があれば良かった。「これ、作るの楽しかっただろうなー」と思うから。


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