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一九四〇年 宜蘭⑶完 - 礁渓楽園旅館とジャニー喜多川の父の話

礁渓温泉で銘酒金鶏を肴に「ほれほれ」を聞く

楽園旅館に泊まる。此処の建物は当世風であり、女中は日本女本島女ばかりで蕃女はなし。まるで内地のよう。礁渓温泉は無味無臭の玉湯であり特に痔瘻に効くと云う。温泉に浸かり滝を眺め、夜は地酒を勧められ飲んでみたら支那酒の味がした(※宜蘭酒廠の「金鶏」のことか)。酒の肴に芸妓を呼ぶと、やって来たのは沖縄出身の愛嬌ある女であった。宜蘭界隈に沖縄出身は多いのかと訊くと、数はわからないが相当に多いと云う。自分は本島出身で、良人と羅東に出稼ぎに来たが、二年前に事故で亡くしてから、今は一人で礁渓にいる、子も居ないものだから、月に一度宜蘭へ買い物に行くのがただ一つの楽しみなどと云っていた。人前で唄うのは初めてだと云いながら女は李香蘭の新曲(※渡辺はま子の「蘇州夜曲」と思われる)を披露して呉れ、自分はこの後日本に帰ることを話すと、今度はほれほれの替歌を披露せらる(※ハワイ日系人によってつくられた民謡「ホレホレ節」を指す)。異郷に聞く三味線のなんとも云えぬ哀しさよ。

宜蘭宜蘭とよーぉ 夢見て来たが 
流す涙も キビの中
行こかメリケンよーぉ 帰ろか日本 
ここが思案の 台湾よ
那覇を出るときゃよーぉ 涙ででたが 
今じゃ子もある 孫もある
今日のホレホレよーぉ 辛くはないよ 
昨日届いた 里だより (※歌詞は翻刻者の推測です)

マラリヤでコロリと死んだ宮様

礁渓から基隆まで汽車に乗ること三時間。宜蘭や礁渓からは蕃地も遠く、見本蕃屋もなく、結局蕃人にも会えず仕舞いなのが勿体なく思う。蘭陽は平野が多く田圃と畑が交互に続き、支那町頭囲(現在の頭城)を過ぎた辺りから今度は海側に宜蘭大島が姿を顕す。又澳底は北白川宮殿下御上陸の地であらせられるが、御不幸にも上陸するや否や宮様はマラリヤに罹りコロリと薨去せられたのだった。そもそも南方は疫病の地で、和歌山でも熊野病と云う恐ろしい話を聞いたことがあるが、台湾のマラリヤはすでに絶滅したのだから(※実際は絶滅していない)、日本帝国の医学の力量は世界に冠たるものである。そうこうしている内に汽車は基隆港に着く。

バンカ(萬華)のオカマ

船上から最後の台湾をつらつら眺めていると基隆山丘に壮麗な摩天楼があることを初めて知る(※許梓桑古蹟と思われる)。船を待つ為に基隆で二日も待ったが、こんなことなら礁渓にあと一泊すべきであったと思ったり、最近バンカ界隈では男女の娼妓(※だんじょではなくおとこおんな、つまりおかまのことか)も居ると云うから一度冷やかしてみるべきだったと思ったりしたが、よくよく考えてみると台北には殆ど行ったことがなく、新聞や噂話以上のことは能く判らない。

大阪に居るジャニー喜多川の父

いつの間にか台湾島は小粒になり見えなくなっていた。まさに一炊の夢の如し。それにしても自分はこの後大阪でO君・K君・喜多川君らと会ってこの顛末を話さなければならぬ。喜多川(※諦道。ジャニー喜多川の父親とされる)は僻地から高野山に出家しその後ツテを頼ってアメリカに渡りその地で出世したが、和歌山に居る頃から読経よりも婦女や小供と戯れることが好きで高僧など務まる訳はないと思っていたが、結局悪癖の末にアメリカを追い出され現在は大阪に居ると云うのだから、因果と云うべきだろうが、お互いの人生を笑い飛ばし合うのも面白いかも知らん。

軍国主義は遣り手婆の如く手招きする

ところで自分は今ここで平穏な台湾を去り和歌山に帰るのは空恐ろしいことであると思う。今日本帝国は支那と争っているが、またヒトラー氏がヨーロッパを解放せんと宣言した以上、今度は英仏にアメリカをも対手とするのは早晩逃れられないことであるし、自分らにも今後恐ろしい運命が待っているのだろう。日本は紀元二千六百年の御大典と浮かれているが、この大典は元寇の如くありとあらゆる災厄が訪れるセレモニーであり、向後三年五年十年二十年と災厄の宴は続くのであろう。自分は再び台湾にでも逃げ去りたいところだが、それも最早無理で、新豊の翁の如く腕の一つでも折って逃げること位しか思いつかないのだからまこと情けないことである。

瀬戸内海は秋風索漠にして波静か

海の奥にようやく見えた小粒は、今度は九州や四国となって、新地の遣手婆の如く自分に薄気味の悪い手招きをしているようである。船は門司に着いて人が沢山降り立ちどこかへと散っていった。自分は神戸まで乗る。瀬戸内海は秋風索漠にして波静か。(完)

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