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昭和10年代の台湾-シャカトウ(釈迦頭)

釈迦頭は蕃茘科に属する植物にして台湾南部地方にのみ栽植せられ、その実こぶし大にして碧色縐瘤(ちじんだこぶ)あり。あたかも釈迦仏の頭のごとし、ゆえにこの名あり。八九月頃成熟す。味甜くして膩(あぶらこく)かつ微酸あり。もともと和蘭(オランダ)より来たりしものなりといい伝う。ゆえに一名『蕃梨』の名あり。沈光文の詩に「称名頗似足誇人。不是中原大谷珍。端為上林栽未得。只応海島作安身」、すなわち釈迦頭を詠じたるものなり。

(『台湾風俗誌』より)

釈迦という果物

台湾ではもうじき「釈迦」の季節を迎えます。日本ではシャカトウ(釈迦頭)やバンレイシ(蕃茘枝)、あるいはシュガーアップルなどと呼ばれ、9月から翌年2月にかけて旬を迎えます。日本では一般的には流通しておらず、沖縄など一部地域で類似の果物を見かける程度です。

(こちらは鳳梨釈迦(パイナップル釈迦頭)という品種)
(ナイフで切るとこんな感じ。白い果肉は糖度が22度以上あります)

さてこの釈迦という名前ですが、ありがたい食べ物なのか、それとも不謹慎な名前なのか、北京語を学んでいくなかで一度は議論の対象になったんじゃないでしょうか。ただ、季節になると仏寺だけでなく道観にも飾られていますので、仏道関係なくありがたい果実なのでしょう。そしてわれわれ日本に住むものにとって、本土ではなかなか味わえない珍味で、台湾に赴くことではじめて本場のシャカトウを堪能する機会が得られるわけです。

実は、台湾にはだいぶ昔からあった

台湾でのシャカトウ栽培の歴史は意外と古く、中米原産のこの果物は、17世紀にはオランダによって台南に持ち込まれました。日本では江戸時代初期に相当しますので、もしかするとオランダを台湾から追い出した国姓爺(鄭成功)もシャカトウの実を口にしていたかもしれません。

そして、当時からお釈迦様の頭の螺髪(らほつ)に似ているから、「釈迦果」と呼ばれていました

その証拠となるのが冒頭の『台湾風俗誌』で言及されている詩です。この詩の作者・沈光文(1612-1688年)は、元々は明朝の官吏でしたが、明朝の滅亡とともに台湾に逃れ、台南に移住したのち、台湾の風俗に関する詩文を多く残しました。そのため台湾文学に携わった最初の人物といわれているほどです。ちなみにこの詩の題名はずばり「釈迦果」。つたないながら、現代の日本語に訳してみます。

釈迦果
名は跨ってはならない人(仏陀)によく似ているが、
中原の大谷の貴重な果物(大谷は梨の産地、つまり梨を指す)とは異なる。
上林(皇帝の果実園)においてもいまだ植えられず、
ただ台湾でのみすくすくと育つのだ。

(沈光文『釈迦果』より)

実は、台東名物となったのはごく最近

その後シャカトウは台湾南部、とりわけ台東で広く栽培されるようになりますが、運搬が難しい果物としても知られていて、わたくしがはじめて台湾東部に赴いた頃はそんなに知られておらず、1990年代の台東の名物はシャカトウではなくローゼルでした。台東・台北間を直行する鉄道が開通したのは1982年、そして台湾を周回する鉄道(南廻線)が正式に開通し台湾一周鉄道となったのは1992年なので、シャカトウが広まらなかったのはやはり流通の影響であったと思われます。

(ローゼルのジュース)

シャカトウの日本への輸入は現在も認められていませんが、近年は急速冷凍技術が普及したことから、冷凍ものではありますが、ときおり日本でも見かけるようになりました。

(冷凍の釈迦。これはスーパーで買ったものです)

果物屋での記憶

ところで、かつて台湾の果物屋に行くとマゴマゴしたことがあって、それは、最近はだいぶ減っていますが、スイカの前に「自殺30元 他殺40元」などと赤いマジックで書かれていたことです。ちなみに自殺・他殺は台湾の果物屋で通じる用語で、自殺とは自分で切る、他殺とは店の人が切る、という意味です。

なお1936年の旅日記『昭和丙子台湾屏東之旅』には、シャカトウについて言及された部分はありません。ただそれは、ただ単にシャカトウが食べられない5月頃に台湾を訪問したからのようです。

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