昭和10年代の台湾-米粉〈ビーフン〉と蓬莱米
わたくしごとでなんですが、ここのところ本来の仕事が佳境に入っていて、何かを綴ろうとしても頭のなかが全くもってまとまりのない状況が続いていたため、ひさかたぶりの更新となってしまいました。
当面はこのような生活が続きそうですが、折を見ていろいろ書いていきたいと思います。
ビーフンを口にする日本人
ところでわたくしは自宅では米よりもビーフンを食べることのほうが多く、「新竹米粉」や「ケンミンの焼きビーフン」は台所のどこかに必ず置いてあって、数年前の緊急事態宣言で商店が閉まっていたときは大いに役立った記憶があります。
ビーフンのメリットは調理時間の短さで、ファストフードとしてとても便利であることです。
台湾を含め、当時アジア各地ではビーフンは当たり前のように食べられていました。筆者が宜蘭で食べたオムライスの中身はビーフンだったようですが、それはケチャップで味つけしていたのか、それとも五目ビーフンのようだったのか、それとも人造米のように細かく切っていたのか(ただし人造米が流行したのは戦後のことで、四コマ漫画「サザエさん」にも人造米の記事が出てきます)、判然としません。ちなみに文中の「ライト」というのは台湾ビールのことで、こちらは現在も売られています。
しかし、筆者は「米が食べたかった」と言っています。なのにビーフンが出てきたので、期待外れだったことをにおわせる文章です。
愛された「からくり」
さて、当時のビーフンについて『台湾風俗誌』にはこのように記載されています。
内地人渡台するや好んで米粉を試食す、という記載についてはからくりがあります。『台湾風俗誌』の刊行は1921年で、蓬莱米(ジャポニカ種)の本格的な登場は1926年以降であり、ここに書かれているビーフンは長粒のインデカ種を砕いて作ったものと思われます。
つまり、長粒米をいやがった日本人がビーフンに手を出した、ということでしょうか。
なお、ケンミン食品のホームページによると、「日本でビーフンが食べられるようになったのは、第二次世界大戦後。東南アジア各国から引き揚げた日本人が、現地で親しんだ「ビーフン」の味を忘れられず、食べ始めたのがきっかけだと言われています。」とあります。
1993年、日本では冷夏のためおそろしいほどのコメ不足でした。政府によって中国米・カリフォルニア米(ジャポニカ種)とタイ米(インデカ種)が輸入されましたが、後者のインデカ種はとても安かったにも関わらず、好んで食べる人は少なかったというのがぼくの記憶です。
20世紀後半でもこのような意識なので、百年前の日本人がインデカ種に対してどのような認識だったかは想像にかたくありません。
もしこのとき、インデカ種を使って大量にビーフンを売り出していたら平成の食文化はどうなっていたでしょうか。もしかすると、ティラミスと同様に平成という時代を象徴する食べ物になっていたかもしれません。
「さほど」な食べ物
21世紀に入り、学校では食育が行われるようになり、また世界のさまざまな食べ物を口にする機会が増えてきました。それでも、日本におけるビーフンの消費量はごくごくわずかで、量としては1年に1回食べる程度とのことです。最近の「台湾迷」とよばれる人たちにおいてもビーフンはさほど受けているとは言えず、グルテンフリーという観点からもう少しオーガニックな人たちに受けてもいいはずなのですが、こちらでもさほど脚光は浴びていません。でも、それくらいのほうが今後のポテンシャルのこともあっていいのかもしれないですね。
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