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昭和54年の台湾-礁渓温泉
礁渓温泉は駅前にあって、便利な立地は大阪の山中渓と似ていた(※当時大阪府山中渓には温泉があった)。我々は大抵「観光ホテル」というたぐいのところに泊まった。一般の台湾人は立入禁止にはなっていなかったけれども、料金がべら棒に高いので日本人しか行かないと言っていた。ここに「大陸を取り戻せ」という看板があったかどうかは覚えていないけれども、変てこなカタカナやひらがなが書かれている看板があったのは台湾らしかった。ナニするのは同じやけど、宴会場では丁半賭博のようなものまでやっていた。ただ、お金を賭けるのではなく、負けたほうが脱衣するというやつだった。日本の脱衣野球拳をパクったんやろな。あと、これは礁渓温泉だけではないけれども、台湾には観光散髪屋(観光理髪庁のこと)というのもあって、お姉ちゃんが裸で散髪してくれるサービスもあった。一度だけやってもらったことがあって、ひげを剃ってもらう前におっぱいを顔にあてられたけど、センエン・センエンと何度も言われて元の世界に戻された。台湾では「観光」という言葉は「いかがわしい」と同じ意味やな。今では観光と言ったらかっこええように思わせるけど、要は、ナニや。
仕事が忙しくなっていましたので更新をしばらく停めておりました。忙しさはまだ続く見込みですが、不定期的にぼちぼちと更新を続けてまいります。
悪名高き温泉
今でこそ「田舎の温泉宿」というと風光明媚な風情を感じさせますが、戦前・戦後のある世代を生きのびた人に言わせると、温泉宿というとすなわち「女性によるサービス」が陰ひなたで行われるものというイメージがあったようです。
台湾でも同じで、とりわけ北投温泉と礁渓温泉というとある種の悪名高き感慨を覚える人が多いようで、いろんな話を聞く機会がありました。
上記の『昭和54年の台湾』は私が過去に聞き取った台湾ピンクツアーに関する内容です。
「観光と言ったらかっこええように思わせるけど、要は、ナニや」という生々しいひとことがいまだに忘れられないでいます。
今回の話題は台湾東海岸北部に位置する礁渓温泉です。
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役人の慰安場所
台湾東海岸北部にある礁渓温泉は清朝統治時代から開削されていて、日本統治時代に入ると台北や基隆から汽車で直接行けたことから、内地でもそこそこ知られていました。当時も「女性によるサービス」が陰ひなたで行われいたようで、昭和15年に書かれた日記録のなかには面白いことが書かれていました。
(前略)都会の金持ちが出張や慰安と称し女護温泉の看板めがけて多額の金を落としに行くようになり、駅前には客寄せの人力車がズラズラと並び、三鳳や萬華に勝るとも劣らぬ殷賑振りで壮観。…宜蘭は二十年前に庁を廃され台北州の一部に吸収されたため、台北の本庁に御伺を立てる宜蘭役人、宜蘭を視察する台北役人の往来が日増しに増え、又台北役人は礁渓で接待されるため温泉も賑わっていったのだと云う。ならば宜蘭役人は北投に宿泊するのかと訊いたがそれは判らないと云われた。
礁渓は女護温泉とまで言い切っており、さらに温泉での慰安のために宜蘭は庁を廃されたような書きぶりで、筆者の役人への意識(悪意)がなんとなくうかがえます。
ピンク観光は影を消した
1990年代以降、政策によって台湾全体からピンク(中国文化圏では黄色ですが、ピンクにしておきます)が影を消すようになり、礁渓温泉も例にもれず「ピンクの要素」はなくなってしまいましたが(ただし宜蘭では公娼制度はまだ残っています)、それでもいまだ多くの遺構が残されており、新たに設けられたオブジェなどでも当時の名残がそこはかとなくあらわれているものがあります。ただ、1970年代のものを見つけだすのはそろそろ難しくなりはじめているという印象があります。
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