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ドクター・イエロー/黄秋茂と南紀白浜

少々久しぶりになってしまいました。最近は仕事以外ではおうちステイが続いているため、「台湾風俗誌(大正11年)」と「台湾土人物語(昭和6年)」の翻刻を続けています。

白浜で見かける謎のオブジェ

南紀白浜に行くと、可愛らしいパンダとともにときおり目にするのが黄金づくりのオブジェです。この手のオブジェはたいて観光客の目につくようなかたちでお披露目されているところが多いのですが、南紀白浜のそれはなぜかひっそりと置かれています。説明を読むと台湾出身の実業家・黄秋茂氏から寄贈を受けたことがわかります。
黄秋茂氏は戦後の白浜温泉の繁栄に多大な功績のあった台湾人として知られています。彼は和歌山県白浜町のことを台湾に次ぐ「第二の故郷」と称し、また人からは哲学博士と称されましたが、これは博士の学位を得たというより、黄氏の人生哲学に対する尊称であると思われます。しかし、黄秋茂氏のことをまったく知らない世代も増えてきたことから、記憶を埋もれさせないために私の知る限りのことをノートとして記しておきます。

黄秋茂氏の生涯

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黄秋茂氏は一九一八年に台湾の台南市で生まれました。台南は古都として知られ、インドネシア製の煉瓦によって積みあげられた安平城(ゼーランディア城)が当時のままの姿で残っています。二十世紀初頭の台湾は日本の植民地でしたが、台湾では当時「内地延長主義」という政策が採られていて、九州や四国のように国内の領土としての道を志向しはじめ、また「農業は台湾、工業は日本」というかけ声のもとに、産業振興がさかんに行われていました。
当時の黄氏一家はとても貧しかったといわれています。母親を早くに亡くし、五人のきょうだいを養うため子供の頃から牧牛の手伝いをするなど大変苦労をしていたといいます。のちになって、空腹のあまりよその家の果物を盗み食いしたのがばれて袋叩きに遭った苦い記憶があると述べています。台湾の新聞「聯合報」の記事によると、黄氏は十八歳のときに北海道に渡り毛皮産業で生計を立てたとありますが、一九七六年に台湾で出版された『黃秋茂的伝記』によると、黄氏の家は商売人で、父親の手伝いをしながら十四歳のとき小学校を卒業し(台湾人は年齢を数え年で計算するため、小学校の卒業が遅れたというわけではありません)、その翌年に当時台南で開業したばかりの林百貨店での小使を経て、十六歳には大阪に移住したとあります。林百貨店に就職したのは、ここが日本資本の百貨店であったことから、日本に渡るためのつてを得るためだったと思われます。
大阪に渡った黄氏はタオルの卸売会社で働きますが、聡明にして機敏であったことから待遇は他人より良かったといい、こうして貯めたお金を元に関西大学で化学を学び、二十四歳にして大阪市でイズミ油脂化学工業所(現在のイズミ株式会社とされます)を設立します。この会社では石鹸の製造や魚油を扱っていたとされ、戦時中から終戦直後にかけての物資のない時代、石鹸は飛ぶように売れました。その間に黄氏は日本人女性と結婚し、三人の子供をもうけています。
戦時中は台湾籍であったことから兵役を免れ、終戦後は戦勝国・中華民国の国籍を獲得したと思われますが、台湾の状況が安定しなかったことからそのまま日本に住み続けました。三十四歳のとき、不動産業に乗り出した黄氏は南紀白浜に広大な土地を購入し、迎賓閣観光ホテルを設立します。現在の白浜シーサイドホテルの位置にあり、かつて所狭しと大陸風の置物や噴水が置かれていたホテルというと、現在でも結構覚えている人がいるかもしれません。
この時期の南紀白浜は進駐軍相手の売春が横行し、サンフランシスコ平和条約締結後、今度は大阪からの慰安旅行客をターゲットにした「ピンク観光」がさかんでした。当時の痕跡として今も残されているのが全国の秘宝館のさきがけとなる町営の歓喜神社(白浜美術館)です。白浜美術館には当時インドから直接買いつけてきたという男女交合のオブジェが多数展示されていますが、神社の門口には黄秋茂氏から寄贈を受けた二体の狛犬も鎮座していて、よく見てみると、下腹部にはそれぞれ男女の性器がしっかりと彫りこまれていることがわかります。
黄氏は一九五九年の紀勢本線全通により関東からの観光客が大幅に増加することを見越していたようで、白浜温泉を健全なモダン観光地にすべく多額の投資を行っています。冒頭に述べた黄金づくりのオブジェは彼の残した痕跡の一部です。南紀白浜の歴史を掘り起こしていると、「かつての南紀白浜はこうだった」という景気の良い話題がのぼることがありますが、そこには黄氏とおぼしき台湾人の存在がときおりちらりとあらわれます。
観光開発の甲斐があり、一九六〇年代に入ると南紀白浜ではピンク観光がまったく影を潜め、新婚旅行巡礼や家族旅行といった「健全な観光」地として揺るぎない地位を築いていきます。
日本で財を成した黄氏は、故郷・台湾で慈善活動を展開し、一九五八年に台南市郊外でエデンの園をイメージした秋茂園を開園させます(台南にある現在の秋茂園は後日当地から移設されたものです)。秋茂園はその後台湾北西部の苗栗県通霄鎮にも設けられました。黄氏は一九七一年に大阪市天王寺区の自宅を引き払い台湾に永住帰国しましたが、二〇〇二年に亡くなるまでの人生を慈善活動に捧げ、阪神淡路大震災や集集大地震においても多額の寄付を惜しみませんでした。
繊維、化学そして観光。これらはそれぞれ戦前戦後の関西を牽引する産業ですが、商売の本質を正確に捉え、それぞれの分野で着実に財産を成した黄氏の慧眼には頭が下がる思いです。

秋茂園探訪

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近年、台湾では秋茂園が珍スポットとして有名になっています。秋茂園は台南と苗栗の二園があり、珍スポットと称されているところは苗栗にあるほうです。苗栗の秋茂園は寂寞とした海岸のそばに位置し、雑多なオブジェが荒れるに任せている姿は珍妙な場所として半ば嘲笑するかのように紹介されていますが、同様の珍妙な住宅地や観光地は日本にもありますので台湾のことを笑えないと思いますし、かつて苗栗に生まれ育った台湾人にとって秋茂園とはかつて校外学習で足を運んだ思い入れのある場所でした。
秋茂園の特徴は、入場が無料であることと、「牛と牧童」や「母を背負う子」といった教育的なオブジェや人生の教訓が書かれた碑文が多数置かれていることで、校外学習としてはうってつけの場所でした。ただ、白浜温泉の迎賓閣観光ホテルにも多数のオブジェが置かれていましたので、後者については空間恐怖症的ともいえる黄氏の趣味志向だったかもしれません。秋茂園のもう一つの特徴は、中には果樹園が設けられ果物が食べ放題であったことです。これは黄氏が子供の頃に体験した苦いエピソードから来ているとのことですが、今を生きる我々からすると、報恩や美意識とはなにかを考えさせられる話です。
台南にある秋茂園は市管理の海浜公園で、安平城のほど近くに設けられています。以前は別の場所にあって、苗栗の秋茂園のようにあくの強い珍スポットだったそうですが、現在の位置に移されてから市当局によってきれいに整備され、海辺に置かれたオブジェはとても洗練されています。市当局の管理になったせいか、海辺には「秋茂」といった個人名を冠したものはどこにもなく、はじめて足を運んだときは本当にここが秋茂園なのだろうかと不安になり、またキッチュさのかけらもないただの海辺の公園にひどくがっかりさせられるかもしれません。
もっとも、浜に降りたってみると、眼前には白い砂浜と大海原が広がっていて、海の色は、どす黒い黒潮とは明らかに異なる淡くさわやかな青。こういう海の上をかもめのように舞ったり、あるいは水上バイクで走り回ったりするととても気持ちいいんだろうなと思わせるほどです。でも大海原をよくよく眺めていると、普段私たちが見慣れている瀬戸内海とは明らかに異なります。波が荒い。そう、台湾海峡は外海。さわやかな青に騙されてはいけない。そう思うと、黄氏のことは頭のなかからすっかりかき消されてしまい、今度は台湾海峡のはるか彼方から人が船でここまで移住してきたのは本当なのだろうかと思ってしまいました。
ひとしきり砂浜を歩いてから街路に出てみると、ようやく「秋茂」と書かれた食べ物の屋台を見つけることとなり、ああ、やはりここは秋茂園だったんだと安堵させられます。屋台の看板に書かれた小難しい漢字から何が売られているか読み取ろうと試みるものの、醤油と香辛料が入り混じった独特な臭いが鼻に残ってしまい、肝心の字面は頭のなかに入りませんでした。
ところでこの手の私設公園は、管理するものがいなくなると途端に荒れてしまう傾向にあります。秋茂園もその例に漏れず、二〇〇二年に黄氏が亡くなってからは荒れるに任せていました。しかしいずれも行政当局によって再び整備され、苗栗の秋茂園は珍スポットとしての面影を保ちつつバーベキューを楽しむ憩いの場所として親しまれています。

最後に

このノートの作成には秘宝館研究で知られる南紀在住の中谷まや氏から多数の示唆を賜りました。この場を借りて厚くお礼を申し上げます。

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