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一九七九年 礁渓 - 中華民国売春観光

マルコスさんと蒋経国さんのポン引き合戦

自分が台湾によく行っていたのは昭和五十二年から五十四年にかけてだった。当時は海外旅行の行き先というと、台湾や韓国が盛んだった。フィリピンは、マルコスさんが大統領になって「フィリピンにいらっしゃい」と言うようになってから、マニラまで遊びに行く日本人や、日本国内でもフィリピン・パブが急に増えてきたけれども、自分はもっぱら台湾一筋だった。当時「台湾に行く」といったら、「いかがわしいことをしに行く」と思っていた人が多かった。事実その通りで、当時は阪急交通社の若い子が「とっておき観光」と言いながらムフフなツアーを個別で組んでくれていた時代で、自分も接待だとかなにかと理由をつけて「別嬪さんの多いところ」をお願いしたことがある。今でこそ台湾は女子旅と言われているけれども、つい最近までは台湾は女子供の行くところではなくて、実際、大きなニュースにならないレベルの碌でもない事件 -たとえばホテルで財布をすられたり、ヤクザが出てきておどされたり- はしょっちゅう起こっていた。

当時はまだ関西空港も桃園空港もできていなくて、伊丹から松山空港まで中華航空や日本アジア航空が飛んでいた。中国からクレームが来るというので日航機は台湾に飛行機を飛ばせなかったし、ジャルパックもなかった。代わりに、日航は日本アジア航空というトンネル会社を作っていて、ジャルパックも台湾行きだけは別の名前だった。要は建前と本音を使い分けていたということやな。
松山空港から台北市内まではとても近かった。空港に降りると、果物の腐ったような匂い -自分はこれを「台湾の匂い」とよんだ- がして、とにかく異国に来たような気分になった。もっとも台湾人に言わせると「日本は味噌の匂いがする」といっていたから、街にはそれぞれの匂いがあったということだろうか。ところが昭和五十四年に、台北市内から離れた辺鄙なところに中正空港(※現在の桃園空港)ができて、台北までえらい遠くになった。中正というのは蒋介石さんの名前で、アメリカのケネディ空港の真似みたいなことしよるんやと思ったことがある。

闇の島-台湾の戒厳令

自分の父親や母親の世代には蒋介石さんの人気はすごく高くて、終戦後の玉音放送を聞いたあとで、蒋介石さんが「徳をもって怨みに報いる」と言ったもんやから日本人は感激して、中国にこんな立派な人格者がいたんやと思ったけど、ところが占領した台湾では戒厳令が布かれていて、至るところで「共産主義撲滅」と言っていて、憲兵がいたるところで威張っていて、台湾人はこっぴどく痛めつけられていた。日本人観光客も似たようなもので、とにかく旅行は制限だらけ、警察の許可なしに阿里山には登れなかったし、カメラを首に下げて見知らぬところをうろうろしているだけで、あとで憲兵がホテルまですっ飛んできた時代だった。憲兵は戦後に大陸から来た中国人たちで、台湾人とちがって日本語はしゃべれなかった。ただ、がんばって日本語を勉強したのもいたらしく、片言の日本語で「タイホ」「ケイムショ」とまくしたてられて真っ青になった知り合いがいた。だいぶあとになって自分は李登輝さんの本を読む勉強会に行ったとき、日本が去った後の台湾は、賄賂・でっちあげ・裁判なしでの死刑といったひどい闇の島になっていて、表向きの場所で「共産主義撲滅」「大陸を取り戻せ」以外の政治の話は絶対禁止ということを聞かされた。あと、最近の日本の右翼会議(日本会議)の連中は「日本精神」などといって台湾人をもてはやしているけれども、当時の台湾人の公衆マナーはとても悪かった。道端にツバは吐く、列車に並ばない、こんなことはしょっちゅうで、要は上が無茶苦茶なことをしていたから下まで悪くなったということやろな。

当時の台湾旅行の記憶というと、特にカメラを扱うときは注意するように言われた。空港は絶対に写真撮影禁止、飛行機や橋にカメラを向けるのも禁止、総統府を近くから撮るのも禁止、とにかく禁止だらけだった。エックス線検査の放射線もきつくて、フィルムは鉛の袋に入れておかないとすぐにやられてしまった。あの頃はスマートフォンもデジカメも、「写ルンです」すらなかった時代で、カメラを盗られたりしたら今度は嫁さんに殺されるからいつも身につけていたし、当時は現像代も結構高かったから気楽に撮れなかったし、台湾で現像したら少しは安くなると聞いたけれども、風のうわさで全部検閲が入ると聞いたことがあったし、ナニ(と言いながら、人差指と中指の間に親指を入れる仕草をする)なんてのは撮れなかった。

為替レートは、円とドルがぐちゃぐちゃしていたこともあって行くたびにレートが変わるのはしょっちゅう、当時はクレジットカードも少なかった。初めて台湾に行くときはトラベラーズチェックを勧められたけれども、結局台湾では日本円も使えると聞いたので使うことはなかった。当時台湾に行く目的はだいたいナニとかゴルフとかで、日本円で何十万と持っていった人は多かった。腹巻に入れていたはずのお金がなくなった話はよう聞いたけど、でもいかがわしいところで遊び過ぎてすってんてんになってしまったというのが本当のところやろな。

当時は中年以上の台湾人は日本語はだいたい理解できた。日本語をまったく理解できないのは大陸から渡ってきた外省人か、「キョウサンシュギ、ボクメーツ!」の教育を受けた若い子くらいで、台湾の旅で言葉に苦労することはなかった。もっともあれから四十年も経っていて、今はもう日本語の世代がほとんどいなくなって、状況も大きく変わっていったけれども。

当時の台北はスローガンだらけだった

松山空港から台北市内へは差回しのリムジンに乗ったけれども、外の景色を見ていても、あんまりぱっとしてなくって、街が発展しているという印象はなかった。街じゅうがスローガンだらけで、あと、道にせり出すくらいのたくさんの南国の果物が至るところで売られていて、小さな食べ物の屋台があって、自転車の人力車があったのを覚えている。韓国と違って、看板は漢字で書かれていたので何とはなく読めた。映画の看板がやたらと大きかったり、松下が「ナショナル」なのに「国際」と書かれていたのは面白かった。印象的だったのは劍潭山の真っ赤なホテル・圓山飯店。中国風のキンキラキンのホテルで、宋美齢さん(蒋介石夫人)が経営しているのだという説明をガイドから何度も聞かされた。ただ自分はそこに泊まることは全くなくって、だいたい国賓や六福、あと北投温泉で、台北以外だったら礁渓温泉くらいだった。
今でこそ台北観光というといろんな遊びがあるやろうけれども、自分は龍山寺や孔子廟に興味はなかったし、商場や夜市というのにもやはり関心はなかった。九份へ観光なんてのはもってのほかという時代だった。当時の九份には鉱山くらいしかなかったらしく、仮にこんなところに観光客が行ったら憲兵にしょっぴかれるのがおちやろな。だから、台北といえばゴルフと故宮博物院、そしてナニだった。女子供の行くところとちゃうやろ?

礁渓温泉で遊んだ野球拳

礁渓温泉は、台湾の東海岸(宜蘭県)にある古い温泉で、駅員に「ショーケイ」と言っても普通に通じた。台北から特急に乗って行ったけれども、特急の名前までがスローガン(自強号)で笑ってしまったことがある。途中紀伊半島みたいに海沿いを走っていくところがあって、海沿いに大きな島(亀山島)が見えてきて、同乗のガイドはさらにその東には与那国島があって天気のいい日は見えることがあると言っていた。当時のガイドは、日本語が単に達者なだけでなく、共産党の悪口になると日本人より流暢な日本語で喋っていた。礁渓温泉の近くに「サヨンの鐘」(※戦前、出征する恩師を見送るために宜蘭在住の高砂族の少女が遭難したことから、彼女をたたえるために設置された鐘)で有名になったところがあって、初めて台湾に行こうとしたときに母親が教えてくれた。でも台湾でこの話をすると、やつらは「サヨンは日本帝国主義の犠牲者」などと言いたいことをいろいろ言っていた。政治的にそう言わなければならないんやろけども、まあご苦労さんやね。

礁渓温泉は駅前にあって、便利な立地は大阪の山中渓と似ていた(※当時大阪府山中渓には温泉があった)。我々は大抵「観光ホテル」というたぐいのところに泊まった。一般の台湾人は立入禁止にはなっていなかったけれども、料金がべら棒に高いので日本人しか行かないと言っていた。ここに「大陸を取り戻せ」という看板があったかどうかは覚えていないけれども、変てこなカタカナやひらがなが書かれている看板があったのは台湾らしかった。ナニするのは同じやけど、宴会場では丁半賭博のようなものまでやっていた。ただ、お金を賭けるのではなく、負けたほうが脱衣するというやつだった。日本の脱衣野球拳をパクったんやろな。あと、これは礁渓温泉だけではないけれども、台湾には観光散髪屋(観光理髪庁のこと)というのもあって、お姉ちゃんが裸で散髪してくれるサービスもあった。一度だけやってもらったことがあって、ひげを剃ってもらう前におっぱいを顔にあてられたけど、センエン・センエンと何度も言われて元の世界に戻された。台湾では「観光」という言葉は「いかがわしい」と同じ意味やな。今では観光と言ったらかっこええように思わせるけど、要は、ナニや。

(続く)

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