光あるうち、光の中を歩め

トルストイの中編小説、"Ходите в свете, пока есть свет"(光あるうち、光の中を歩め)を読了。読み始めたのが11/14だから、2週間弱くらいで最後まで行ったことになる。この本はロシア語の勉強を再開してから初めて読み通した原書になった。時間がある11月のうちに読破できてほっとしている。個人的に、この小説を初めて邦訳で読んだのが、ロシア語の勉強をしなくなってからだったので、ロシア語で読みたいとずっと思っていたのだが、今回その念願が叶った。何度か日本語で読んでいるので、あらすじは知っているし、本の分量的にもそう長くないので、リスタート一冊目としてはちょうどよかったと思う。この小説の舞台は古代ローマ時代で、本能のまま快楽に耽り、世俗的な成功を求めるユリウスと私有財産を持たずに自給自足で生活し、キリスト教の道に生きるパンフィリウスとの数回にわたる邂逅で展開される会話が中心で、さほど難しくは感じない。確かに哲学的な問答が続くので、語彙はけっこう難しいが、文体には洗練された読みやすさがある。

この小説の題名である、Ходите в свете, пока есть свет はお話の最後の方でも出て来るが、新約聖書に出て来るイエスの言葉から引かれたものだ。したがって、この一文の原文は古代ギリシア語であり、ロシア語の題名はその翻訳ということになるのだが、いくつか気になっていたことがあるので、この場で少し分析をしようかと思う。

題名の7語を詳しく見るとこうなる。
ходите:ходить (行く、歩く)の命令形。移動の動詞であり、カテゴリーは不定動詞である。この一語が肝。
в:前置詞。前置格を従える場合は、ある空間の中、状態が発生している、または動作が行われる場所を示す
свете:свет (光)の単数前置格。「光の中で」がもっとも無難な訳か
пока :接続詞で「~する間」ちなみに、挨拶で使われると「またね」くらいのくだけた意味になる。
есть :英語で言えばbe動詞に当たるもの。「存在する」「ある」などが適当な訳。この形では通常省略されることが多いが、「存在する」のようにあることを強調したい場合は省略されないこともある。
свет :前述の「光」の意味。単数主格形

文法的に気になるのは Ходите в свете の部分
ロシア語には「移動の動詞」という特別な動詞のカテゴリーがあって、そのカテゴリーの動詞は動作の様態が「定」か「不定」で異なる形になる。「(徒歩で)行く」という運動の動詞は、идти/ходить (定)/(不定)であり、ある地点からある地点まで行く一方向の動作は定動詞(例えば、「私は町に行くところだ」)で表され、移動の動作が不定方向だったり、繰り返されたりする場合は定動詞(例「私は町を歩きまわっている」)で表される。
この論理で行くと、題名の ходите は定動詞に分類されるので、説明的な意味としては「光の中を不定方向に移動せよ」ということになる。「不定方向に」というのが分かりにくいが、これはつまりさまざまな方向に無秩序に移動する場合(歩きまわる)と、移動する方向があるにはあるのだが、それがどの方向かは明示されない(文字通り不定)という場合があり、後者が題名の場合に適合するように思う(さらに言えば不定動詞には「往復」の意味もあるが、ここでは深入りしない) 不定動詞の命令形で意味されるのは、「行き先とかはともかく「動く(問題の文では歩く)」という行為をしろ」という命令であり、その行為をする場所として「光」が指定されている、と考えるべきで、結果としてその行為が「一定方向」への移動になっていたとしても、それは動詞の選定に関係がない。「歩む」という行為そのものを感じさせる訳語ともこのニュアンスは一致する。
ところで、新約聖書の該当部分を読むと、この「光」というのはキリストのことであり、「光あるうち」というのは、「キリストが処刑される前に」と解釈できる。ありていに言えば「キリストとともに歩みなさい」と言っているようなものだ。こういうふうに見ていくと、どうしても「光の中を歩む」その先の目的地(キリスト教が目指す理想の王国のようなもの?)がちらついてしまうのだが、文法的な意味を厳密に考慮すれば、行き先は問題ではなく、「光の中」という場所と「歩く」という行為だけに関心があり、しかもそれが存在しているうちに、という制約を加えているに過ぎない。大事なのは目標に向かうプロセスなのだということか。



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