ロシア語一日一善(276)

レフ・トルストイ編著  八島雅彦訳註  東洋書店から

ロシア語一日一善(276)

Без ясного понимания смысла своей жизни, без того, что называется верой, человек всякую минуту может отречься от всего того, во имя чего он жил, и начать жить во имя того, что он проклинал.

試訳
人生の意味をしっかりと理解せず、信仰と呼ばれるものを持っていないと、人は今にもそれまで生きる目的としていたものすべてを放棄し、呪っていたもののために生きることになりかねない.

Без ясного понимания смысла своей жизни:「自身の人生の意味のはっきりとした理解なしに」без того, что называется верой 「веройと名付けられるものなしに」вера は「信じること」だが「生きていることの意味」との関連で考えると「(神を)信仰すること」を意味していると思われる.всякую минуту 「一瞬一瞬」対格になっているのは、継続する時間を表す対格の機能.「どの瞬間の間」というのはつまり「絶えず」というのが実質的な意味だが、「一刻一刻」のように「どの瞬間も」という強調のニュアンスが読み取れる.отречься от всего того, во имя чего он жил と начать жить во имя того, что он проклинал が и で結ばれている.во имя +生格は「〜のために」という意味だが文字通りに訳すなら「〜の名の下に」となるか.「彼が生きていた目的全てを放棄し、彼が呪ったもののために生きることを始めるかもしれない」отречься と  начать が完了体であることを考えると「放棄して〜始める」という行為の順番が意識されている.жил と проклинал が過去形になっているのはなぜだろうか.「彼が生きたことのために」というのは「彼のこれまでの人生のために」ということか.過去形になっているのは「(全てを放棄するに至るそれまでの」生きていたこと、つまり人生」ということか.同様に「彼が呪っていたことのために」と訳せるのは「その地点まで呪っていて、これからはそうでない」という含意がこの不完了体の過去形から察せられるからである.

八島雅彦訳を見ると、Без ясного понимания смысла своей жизни, без того, что называется верой, が「人生の意味を明確に理解することなしには、つまり信仰と呼ばれるものなしには、」となっていて、最初のコンマを「同格」を示す記号として解釈していた.しかし、ロシア語のコンマに同格の意味があったかなと思って調べるも、そういう用法が見つからなかった.文脈的には「人生の意味を理解すること」と「信仰を持つこと」が同じことを指していると解釈するのは妥当に思えるが、文法的根拠が見出せないのが辛い.また всякую минуту は「いつなんどき」と訳されていてなるほどと思った.

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