【随筆】 運がいい


”何でそんな目に?”
”お祓いが必要なんじゃない?”
と言われる事がありました。


確かに事が起きた時点では、自分でも訳が分からないので、程度の差こそあれダメージになります。




けれど、時が経過するにつれ、それが起きた事で付随して起こった事の意味を考えていくと、自然にこなれてゆくというか、感謝出来てしまえるのは、生来のおめでたい気質に依る所が大いにありそうだとは思っています。


今日は最近感じている”運”について
書いてみたいと思います。



思うに…『運とは縁』なのではないかと。
もっと分かりやすく言うと、縁が運を導いていくというか。
なので『運がいい=縁がいい』



良い縁の場合、必要な時に必要な人に出逢うのが一番影響の大きい転換点になると思いますが、それは人でなくてもいい。
植物や生物から、また音楽からもハッとさせられる事があります。



当然ですが、相手はそれまで私のために存在していた訳じゃない。偶々私がその時点でその人(物)に遭遇する事になっただけです。



今の私はその偶々の良い出逢いの連続で助けられてきたと思えるのですが、若い頃は逆もありました。
自分が未熟であったせいでしょう。
出逢いたくない人と出逢ってしまうのも、やはり自分が引き寄せてしまっているのでしょう。
というか、必要だから与えられるのかもしれません。


たとえ自分にとっては良くない縁だとしても与えられた縁、は振り返ってみれば、今の自分に至る意味があってなるほどな、と思う事も少なからずあります。


冒頭に書いた“不運“はこちらの縁になりますが、こちらの方は気持ちの持って行き方が、その後の縁にまた繋がっている気がしています。



ですが、五十も過ぎて色々な思いを経験すると、同じ過ちは繰り返したくはないし(もう時間が勿体ないです)自分の足を引っ張られてしまう良くない出逢いは避けようという思いが強くなってきます。
避けられるのなら。



歳からしても終わりに近付いていくにつれ、より削ぎ落とされた自然な自分になっていきたいのです。
足らない自分にごてごてと何かを足し続けていくよりも、どんどん削っていって自分の本質に近付きたい。



その自分の幹みたいな所はもう変わらないので、これからも良い出逢いがあるとするなら、それは栄養となって、花も咲かせられるかな、と。
ここまできたのだから、与えられてきた生命にご恩返し、枯れてただ倒れてしまうよりは、小さくても少なくても花をつけたいです。



と書きながら、私自身、に拘っている訳でもなくて、誰かが咲く事の出来るほんの小さなきっかけにでもなれるなら、それも良いご縁かなと思います。



結局、縁というのは全てとは言いませんが(先述した今の自分に必要だからの縁の場合もありますから)
自分が何を思っているか、何を大事としているのか、意識の深い所から今の自分にふさわしい物を引き寄せるのでは?と思えています。



でもそれが運を導いていくのだとしたら、やっぱり嫌ですね、悪い縁は。
良い運を望むのだから縁は大事と思っています。
今考えている事が、間違っていないか反省する日々です。




久々の拙い散文に
お付き合い頂きありがとうございました。

2024/7/31(水)

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