古代のカミを求めて③-下
さて、前回は狩猟民族が何故消えたのか、何故忘れられているのか、何故農耕と関係しているのか、という所で切った。今回はそれについて詳しく説明を加えていこうと思う。
まず、農耕民族は稲を育てる。それには田畑が必要なので、開拓し、田を作り、様々な手を加えながら、最後には米としてそれを献上するなり、食したりする。それが日本の文化だ、生き方だ、と言う方もいるかもしれない。しかし、私はあえて当たり前になったこの文化、生き方ををもう一度考えてみたい。
農耕者にとって、稲は一番大事なものであり、尊ぶものである。なので他の雑草などは刈り取り、取り除いてしまう。そこに命があろうが
、花を咲かせていようが、実をならせていようが 関係がない。とにかく稲を大事にし、他のものは排除しなければならない。 日本原初考シリーズの一部に「これが天ツ神系天皇部族の発想と思想である」と大変明確に記載されていた。
米を収穫する様を見た天皇が言った言葉はつまり、「この体制、この生き方こそ日本国民である。他の文化を持つ民族らは日本国民ではない。」とも取れるのだ。もちろんこれは推測の範囲を出ないことを、どうかご理解頂きたい。しかし、狩猟民族であるアイヌ民族やそれに準ずる民族はなんとも悲しい運命を辿ったのだ。農耕民族ではないものを排除した証拠が現代にも残っていたのが幸いだったと心から思う。
そして私は、まだ弱いのだが ここでまとめとして ひとつの仮説を立てたいと思う。
古代日本において、日本の地を一番初めに生きていたのは狩猟民族であり、彼らは野を山を駆け、狩猟をして生活していた。ところがそこに新たな民族である、農耕民族が入ってくる。様々な争いがあっただろうが、結果的に狩猟民族は負け 農耕民族が主流になってしまった。農耕民族が信仰していたのは日本神話である天照大神の言い伝えであったり、日本武尊の荒々しいカミの力だったりしたのだと思う。それは上の者が下々の者を統べるに、大変便利な風潮であった。
諏訪の伝承に建御名方神の国譲り、というものがある。建御雷方神(タケミカヅチノカミ)に国を譲れと言われ、戦った建御名方神(タケミナカタノカミ)が敗れ、諏訪まで敗走し この諏訪から出ないから殺さないでくれ、と懇願した 有名な伝承である。その建御名方神ですら、諏訪にあった土着信仰の神社に母を招き、乗っ取ってしまったのだそうだ。この様に、元々あった土着信仰の神社は後々に力をつけた日本神話のカミに取って代わられ、悲しいことに次々と姿を消して言ったのだと思う。
もちろん、日本神話を悪者扱いするわけではない。様々な形で信じられてきたそれは確かに根付いた日本の文化なのだ。しかし、その背後にあったものはあまりにも価値がありすぎた。私は、その日本神話以前のカミと呼ばれるものの存在がとても好きなのだ。荒々しくも優しい、人々と共にあったであろう、カミ。アイヌ民族は「どんなものにも、草木の一本、石のひとつにも命は宿る」という考え方だそうだ。私はその通りだと思う。どんなものにも命は宿る。それがどれだけ小さくても大切な命なのだ。自然と生き、自然と死んだ彼らの生き方に心からの敬意を示したいと思う。
熱田神宮にて 様々なものを拝見し、勉強させて頂いた私は、オーバーヒート気味な頭を冷やすべく 休憩所にてわらび餅を頂いたのだが、本当に美味しかったので、熱田神宮に行かれた際は是非食べてみてください。ゆったりとした時が流れるとても良い神社でした。
昔のことは昔のことだ。争いがあったことも変えられなければ、失ったものも戻らない。しかし、そこに救いを見つけた私にしてみれば昔ではなく、今なのだと思う。願わくば、探求を止めずまた新たな仮説を立てつつ、楽しく勉強していきたいと思う。
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